学習通信041126
◎「むずかしい──『資本論』も、労働者階級を目当てに」……。

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第一章 商品

 一見するところブルジョア的富は、ひとつの巨大な商品集積としてあらわれ、個々の商品はこの富の原基的定在としてあらわれる。しかもおのおのの商品は、使用価値と交換価値という二重の視点のもとに自己をあらわしている。

 アリストテレス「国家について」(第一部第九章)「なぜならば、すべての財貨の用途は二重である。……ひとつはその物自体に固有の用途、他はそうでな用途である。たとえば、沓についていえば、やきものとして役に立つことと、交換に用いられることとがそれである。この両方とも、沓の使用価値ではある。というのは、沓を、自分が不足しているもの、たとえば食物と交換する人もまた沓を使用しているわけだからである。がそれは、その本来の使用法ではない。なぜならば、沓は交換のためにあるわけではないからである。これと同じことは、ほかの財貨についてもいえる。」

 商品はまず、イギリスの経済学者たちのいい方にしたがえば「生活にとって必要な、やくに立つ、あるいは快適な、なんらかの物」であり、人間の欲望の対象であり、もっとも広い意味での生活資料である。使用価値としての商品のこのような定在と、その商品の自然的な、手につかむことのできる実在とは合致している。

たとえば小麦は、棉花、ガラス、紙などのような使用価値とはちがったひとつの特定の使用価値である。使用価値は、使用に関してのみ価値をもち、ただ消費の過程においてのみ実現される。同じ使用価値はいろいろに利用されうる。にもかかわらず、その使用価値のおよそ可能な利用のすべては、一定の諸属性をそなえた物としてのその使用価値の定在のうちに総括されている。

さらに使用価値は、質的に規定されているばかりでなく、量的にも規定されている。その自然的特性にしたがって、さまざまの使用価値は、たとえば、小麦幾シェッフェル、紙幾帖、リンネル幾エレ、などのようにさまざまな尺度をもっている。

 富の社会的形態がどうあろうとも、使用価値はつねに、そうした形態にたいしては、さしあたり無関係な富の内容をなしている。小麦を味わっただけでは、誰がそれをつくったのか、ロシアの農奴がつくったのか、フランスの分割地農民がつくったのか、それともイギリスの資本家がつくったのかはわかるものではない。

使用価値は、たとえ社会的欲望の対象であり、したがってまた社会的連関のなかにあるとはいえ、すこしも社会的生産関係を表現するものではない。使用価値としてのこの商品が、たとえば一個のダイヤモンドであるとしよう。ダイヤモンドをみたところで、それが商品だということは認識できない。それが美的にであろうと機械的にであろうと、娼婦の胸においてであろうと、あるいはガラス切り工の手においてであろうと、使用価値として役立っているばあいには、それはダイヤモンドであって商品ではない。

使用価値であるということは、商品にとっては不可欠な前提だと思われるが、商品であるということは、使用価値にとってはどうでもよい規定であるように思われる。経済的形態規定にたいしてこのように無関係なばあいの使用価値、つまり使用価値としての使用価値は、経済学の考察範囲外にある。

この範囲内に使用価値がはいってくるのは、使用価値そのものが形態規定であるばあいだけである。直接には、使用価値は、一定の経済的関係である交換価値が、それでみずからを表示する素材的土台なのである。
(マルクス著「経済学批判」岩波文庫 p21-23)

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A……ところで、マルクスの剰余価値論を簡単に、しかもわかりやすく説明するということは、じつは容易なことでないぞ。もっともエンゲルスがいっているように、「労働者は、学生たちが刻苦してはじめてうるところのものを、すでに本能的に、ヘーゲル流にいえば、『直接に』もっている」のだから、大学教授や大学生にわかりにくいからといって、それがプロレタリアにわかりにくいという証拠になるわけではないが。

B……それは万々承知している。むずかしいむずかしいといわれている『資本論』も、労働者階級を目当てに書かれたものだという以上、そこに述べてある理論が、どうしてもわれわれにわからないというはずはあるまい。だが、それがなんでもなしに理解できるものなら、マルクスはわれわれに向かって、「学問にとって平安の大道はない、そしてその険阻な小径をよじ登るに疲れることを恐れない人々のみが、ひとりその輝ける絶頂に到達するのしあわせをもっているのである」というようなことを、警告しておくはずもあるまい。険阻な小径をよじ登ることにはけっして辟易しないつもりだから、すじ道をたててだいたいの理論をまとめてくれたまえ。困厄の淵に沈んでいるわれわれは、われわれ自身の力によってみずからを解放せんために、なによりもまず困厄の真因をつかもうとあせっているのだから。

A……よろしい、それでは話を始めるぞ。──ところで、剰余価値の話をするにはまず価値について説明せねばならず、また価値というからには商品のことから話を進めねばならぬ。しかもこの商品というやつがなかなかの曲ものだぞ。

B……どうして? 京都でいえば四条通りや京極やないしは大丸などの店頭に陳列してあるいろいろの品物、あれがつまり商品というものだろう。曲ものでもなんでもないではないか?

A……ところがそうでないのだ。「たとえば人が木材でテーブルをつくるならば、木材の形態は変更される。しかしそれにもかかわらずテーブルは依然として木材であり、ありふれた感覚的な一個の物である。ところが、そのテーブルがいったん商品として出てくるやいなや、それは感覚的であり、同時に超感覚的である一つの物に転化する。テーブルはただにその脚で地上に直立するばかりでなく、他のすべての諸商品に対し頭で逆立ちをし、そしてテーブルがひとりでに踊りだす場合のふしぎさよりもはるかにふしぎな幻想を、その木材の頭から展開するのである」マルクスはこういうようにいっている。テーブルがひとりでに踊りだしたら、それこそふしぎといわねばならぬが、しかしそのテーブルがひとたび商品となると、それよりもはるかにふしぎな幻想を展開するようになるというのだ。

B……そろそろわかりにくくなったね。

A……今に秋の空が晴れわたったように分明さすから、すこし辛抱したまえ。まずテーブルについて話を進めてゆくが、それは人間が書見したり食事したり会見したりするためにつくった器具で、たいがいは木材で出来ており、マルクスがいっているように「その脚で地上に直立している」それは昔の封建社会でもそうであったし、今の資本主義社会でもそうであるし、また共産主義の世の中になってもそうであろう。これだけの範囲では、テーブルになんのふしぎなこともない。

ところが、いったんそのテーブルが商品になると、交換価値をもつようになる。そして「テーブルがひとりでに踊りだす場合のふしぎさよりもはるかにふしぎな幻想」というやつは、そこから出てくるのだ。こころみに家具商の店へはいってみたまえ、種々なテーブルに五円とか十円とか二十円とかいう正札が付いているだろう。そうでなかったら、店の小僧さんが、これは五円です、こちらは十円です、そちらの品はずっと上等になって二十円です、などというだろう。それが商品の交換価値というものなのだ。なぜ交換価値というかといえば、それは、それらのテーブルが五円なり十円なり二十円なりと交換される、ということを意味するからだ。

ところで日本の貨幣制度のもとでは(金解禁が実現されないと正常な状態に復しないが、ここでは正常な状態を前提として話を進めてゆく)、金一円というのは純金二分の意味なのだから、甲のテーブルが五円だというのは、つまり甲のテーブルは純金一刄だということであり、また乙のテーブルが十円だというのはそれが純金二匁だというのと同じことである。そこで事態がだんだんおかしくなるだろう。なぜというに、一脚のテーブルは一脚のテーブルだ、しかるにその一脚のテーブルを指して、あるいは純金一匁だといい、あるいは純金二匁だというのだから、話はすでに少々へんになっている。ところが問題はまださきへ進むのだ。

というわけは、ただテーブルばかりでなく、インキでもペンでも書物でも、米でも味噌でも醤油でも、帽子でもシャツでも、下駄でも、なんでもかでも、いやしくも商品として提供されている品物であれば、われわれは、それをさしてことごとく金何円だというだろう。それはつまり、それらのものがことごとく金何匁だというのと同じことだが、もしそうだとすれば、これらの物は、その分量上の割合をさえ適当にすれば、一切合財、なにもかも、みな同じものだということになるだろう。──まず目の前にある品物を例にとって話すなら、この十本入りのバット一箱は七銭だから、一万箱で七百円だ、また僕が今、足にはいている足袋は一足三十五銭だから、二千足が七百円だ。昨日組合で買った謄写版はI台三十五円だったから、二十台で七百円になる勘定だ。

ところで今日僕がショウウィンドーで見たダイヤ入りの指輪のなかには、やはり七百円という正札の付いたやつがあった。めんどうだから品物の数はこれだけにとどめておくが、もし分数や端数を用いたなら、ありとあらゆる商品のそれぞれの分量が右と同じように、みな金七百円だということになるであろう。つまりいかなる商品もその分量上の割合をさえ適当にすれば、みな純金百四十匁だということになるのだ。もしそういって悪ければ、それらのものの価値はみな純金百四十匁に相当する、ということになるのだ。

そこでわれわれはいかなる商品も、その分量上の割合をさえ適当にすれば、価値としてみなあい等しいものだ、という結論をうるわけだ。

B……それはそうだな。しかし「価値としては」相互に等しいとは、どういうことなのだ?

A……価値とは値うちのことだ。一万箱のバット、二千足のたび、二十台の謄写版、一個の指輪等々は、商品としての値うちからいうとみな同じであり、それを指して、価値としてたがいにあい等しいというのだ。われわれは今はかくのごとき商品としての値うちをいい表わすために、たとえば一万箱のバットは金七百円(すなわち純金百四十匁)だというのである。この場合、金七百円(または金百四十匁)というものは、バットー万箱の交換価値であり、その金七百円(または金百四十匁)によって、バットー万箱の価値が表現されているのである。

商品という以上それは交換のために持ちだされているものだから、かくかくの品物とこれこれの割合で交換されるということが、かならず表示されていなければならぬ。ところが今の世の中では、いかなる物もまず金(貨幣)と交換され、そしてこの金はまたいかなる物とも交換されうる資格をもっているから、そこであらゆる商品の価値(すなわち商品としての値うち)は、みな金何円、金何十円というふうに表示されており、かくていかなる商品も、その分量上の割合をさえ適当にすれば、価値としては、みな相互に等しい、ということになっているのだ。

もっと正確にいえば、いかなる商品も価値としての品質はたがいにあい等しく、またその分量上の割合をさえ適当にすれば、いかかる商品の価値の分量も、みな同じになるというのだ。

B……それでよくわかった。

A……ところで、かくのごとく価値としてはたがいにその品質を等しくする諸商品も、使用価値としてはじつに千差万別である。

B……使用価値とはなんのことだ。

A……「ある物の有用性、すなわち人間のなんらかの種類の欲望をみたすその性質、はその物を使用価値たらしめる」マルクスはこういっている。誰にとってもなんの役にもたたないというような物は、商品とはなりえない。商品という以上、なんびとかにとってなんらかの種類の欲望をみたしうる性質をそなえていねばならぬ。そしてかかる方面から商品を観察するならば、これを使用価値として観察するということになるのだ。

B……ところで、これを使用価値として観察すると、これを価値として観察する場合とはまさに逆に、あらゆる種類の商品は千種万別であるというのか?

A……まさにそのとおりだ。商品という以上、たがいに交換されうるものでなければならぬ。ところで、たとえば同じ品質の米と米とを交換するということは、意味をなさない。だからたがいに商品として対立するものは、使用価値としてはかならずその品質を異にしているのだ。

B……そこで、商品には二つのあい対立した、たがいに矛盾する性質が含まれている、ということになる。──価値としてはたがいにあい等しく、使用価値としては千種万別であるというふうに。

A……まったくそうなのだ。それをさしてレーニンはつぎのようにいっている。「マルクスは資本論において、まずブルジョアの商品社会のもっとも簡単な、もっとも普通な、もっとも基礎的な、もっとも大量的な、もっとも日常的な何億回にもわたって観察されうる関係、すなわち商品交換を分析している。その分析は、このもっとも簡単な現象において(ブルジョア社会のこの「細胞」において)、現代社会のすべての矛盾(ないしすべての矛盾の胚種)を発見している。

それより以上の叙述は、これらの矛盾とその根本構成分(すなわち商品交換関係−河上補)の総和より或るこの社会との発展(成長ならびに運動)を、その始めから終りまで、われわれに示す」使用価値と価値との矛盾、これが現代のすべての矛盾の根源なのだ。だから現代社会のすべての矛盾を解決すべき手段を発見しようと思えば、われわれはまず、現代社会を構成している細胞であるところの商品交換関係を子細に分析せねばならぬのだ。

B……商品交換関係が現代社会の細胞だとは、どういうことなのだ?

A……近ごろ公にされた山羽理学博士の『細胞』という本を見ると、その冒頭はつぎのように書き起こしてある。「西暦一六六五年のある夏の日の午後のことであった。英人ロバート・フックは、自分のつくった顕微鏡の前にすわって、小さな石や、コケや、昆虫のような、いろいろの物を自分の側にひろげて、ひとつひとつ検鏡し、綿密な写生図を取っていた。

彼は、二、三の植物体を見た後、一個のコルクせんを取ってごく薄い切片をつくり、午後の強い日光を大きなガラス球で集めた鏡筒の下に持ってきた。そのとき彼は、そのコルク片が、小さなたくさんのおたがいにハチの巣のようにならんだ部屋で出来ていることを発見した。そしてこの小さな部屋を細胞と名づけた。十七世紀のこの学者は、彼が後年自分の名まえとともに鳴りひびく言葉──自然科学の警語──を創造したのだとは、夢にも知らなかった。アメリカを発見したコロンブスや、遺伝の法則を発見したメンデルのように、彼もまた、自分の発見の偉大さを知らないで死んだのである」こういうように書いてあるが、今われわれの偉大なる教師マルクスは、商品交換関係が現代社会の細胞であることを発見したのである。

ところで再び山羽博士の言葉によれば、「細胞学は生物学の基礎」であり、「生物界の現象の窮極的の説明を与えるものにちがいない」のであるが、それと同じように商品交換関係の分析は、資本主義的社会の経済界の基礎であり、現代社会のあらゆる矛盾に対して窮極的の説明を与えるものに相違ないのである。しからばなにゆえに商品交換関係をもって現代社会の細胞であるというかといえば、それが現代社会の経済的構造の基礎的な構成分とたっているからである。

B……生産諸関係(または経済上の社会的諸関係)の総和が社会の経済的構造を形成するものだということは承知しているが、現代社会における経済上の諸関係はなかなか複雑であって、それは単に商品交換関係だけから成りたっているのではないように思われる。それにこの商品交換関係をもって現代社会の細胞だというのは、どういうわけだ?

A……生物のからだが細胞から構成されているという場合でも、それは同じ形の煉瓦石を積み重ねたようになっているという意味ではない。細胞の実体はいわゆる原形質であるが、それについては前に引用した山羽博士の著書に、つぎのように書いてある。

「原形質なるものは、元来活動しているのであって、生物の種類や細胞の部分でいつも同一の構造を示すものでないのみならず、生物が種々の特殊の機能を営むために、いわゆる原形質の分化ということが起こり、原形質が部分的に種々に変化したり、さらに種々の物質を形成したりするので、どんな簡単な生物のからだの構造でも、顕微鏡的には相当に複雑なものである。

したがって、細胞というものに関連して、原形質のほかに、原形質が二次的に(一時的または継続的に)変化した構造のいわゆる異形質というものや、さらにこれらのものが形成したいわゆる後形質とか副形質とかいうようなものが、存在するのが普通である。

こうした事情であるから、生物のからだでは、そのすべての部分が生きている──すなわち原形質からできている──ということは、もちろんいえないのであり、生きているもののほかに生きていないもの──すなわち原形質でないもの──を含んでいるのである」こういうように述べてあるが、商品交換関係が現代社会の細胞だというのもちょうどそれと同じことで、それは、現代社会が簡単な商品交換関係ばかりから成りたっているという意味では、けっしてない。

たとえば、労働者がその労働力を商品として資本家に売るという関係についてみても、それ自身は一つの商品交換に相違ないが、しかし後にいたって説明するような理由により、それは資本家が労働者を搾取するという関係に転化するのである。この搾取関係は、生物細胞についていえば、原形質に対する後形質のようなものである。それはけっして単純なる商品交換関係のなかには含まれていないものだが、しかし労働力という特殊な商品の売買関係をその基礎としているものである。

そういう意味において、商品交換関係がいわば原形質に相当するのである。そういうことを念頭において考えてみたまえ、商品交換関係は実際のところまったく現代社会の細胞となっているから。たとえば、君自身の生活について、君が他の人々といかなる経済関係をむすぶかを考えてみたまえ、君の唯一の収入たる労賃は、君がその労働力を商品として資本家に売ることによってえたる代価にほかならない。この場合君と資本家との間には、労働力と貨幣の交換が行なわれるのである。

また僕は、君が労働力を売るかわりに、原稿を売り、それで自分の収入をえている。そしてその収入はたといわずかであるにしても、われわれはその全部を米なら米に費やしてしまうというようなことなく、それによって自分たちの必要とするさまざまの品物を買うのだから、そのたびごとにまた、われわれは種々様々な人々と交換関係をむすぶのである。かようにして商品交換関係は、レーニンのいっているように、現代社会の「もっとも普通な、もっとも基礎的な、もっとも大量的な、もっとも日常的な何億回にわたって観察されうる関係」であり、あたかも現代社会の細胞に相当するものなのである。

B……商品交換関係が現代社会の細胞だという意味はわかった。そして細胞学が生物学の基礎であるように、この商品交換の分析が資本主義的社会を理解するための基礎となるべきだ、ということの意味もわかった、だが、マルクスは『資本論』の冒頭に、商品を分析しているのであり、商品交換関係を分析しているのではない。それに君は、いつのまにか、商品と商品交換関係とをごちゃごちゃにしたようだが、これはどういうわけだ?

A……それは、「マルクスの学説の最深の意義は、窮極において経済的諸範躊を人間の社会的な諸関係に還元することに存する」ということをさえ理解していれば、なんでもないことなのだ。すこしそのことを説明しておこう。──まず明らかにしなければならぬことは、使用価値は社会組織の形態になんらの関係をもたぬということである。

人間が相互にどんな関係をむすんでいようと、それにはとんじゃくなく、米は米であり、織物は織物であり、したがって米なり織物なりとしてのそれぞれの使用価値をもつ。だが、その米なり織物なりが商品となるためには、すなわちただに使用価値をもつばかりでなく、商品としての価値をもつためには、それらの物がたがいに交換されうる関係に立っていなければならぬ。

しかもこれらの物は、マルクスの言葉を借れば、「自身で市場へ出かけかつ自身で自分を交換することはできない。だからわれわれはこれらの物の保護者を、商品所有者たちを見つけねばならない」そしてわれわれは、米なり織物なりが商品となるのは、米の所有者と織物の所有者とがその所有せる品物の交換を行なうからであり、米も織物もかかる人と人との社会的な関係のなかにおかれてこそ、はじめて商品となるのだ、ということを発見するにいたるのである。そうしてみると、経済関係は物にむすびついた社会的関係であり、また一定の物はかかる社会的関係を表現するかぎりにおいて経済的範疇となるのである。

このことをさえよく理解しているならば、金は金なるがゆえに貨幣だと考えたり、機械は機械なるがゆえに資本だと考えたり、ないしは利潤をもって資本の自然的果実と考え、地代をもって土地からうまれるもののごとく考えたりすることが、一掃されるわけだ。これを当面の問題についていっても商品を分析するといえば、つまり商品交換関係を分析するということにほかならぬのだ。

B……おいおい夜もふけたぞ。あまり遅くなると、あすの仕事にさしつかえる。話のつごうが悪くなかったら、きょうはこのへんでうちきってくれないか。

A……まず一段落というところだ。それではまた会おう。
(河上肇著「第二貧乏物語」平凡社世界教養全集N p365-373)

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◎「テーブルがひとりでに踊りだしたら、それこそふしぎといわねばならぬが、しかしそのテーブルがひとたび商品となると、それよりもはるかにふしぎな幻想を展開する」……。

◎「経済関係は物にむすびついた社会的関係であり、また一定の物はかかる社会的関係を表現するかぎりにおいて経済的範疇となる」……。