学習通信041127
◎いま京都中央労働学校・運営委員会で河上肇を読む青年が……。

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解説  桑原武夫

 世界の人類がかつて書いた無数の自叙伝のうちから、もしその代表として一つをあげるとすれば、このルソーの『告白』が選ばれるであろうことは、ほぼ確実だといってよい。聖アウグスチヌス、新井白石、ゲーテ、トルストイ、ミル、河上肇、ジッド、その他のすぐれた作品があるにもかかわらず、そうである。何がルソーの『告白』を最高の自叙伝文学とするのか。

 第一は歴史的理由である。中国では、古代に司馬遷が『史記』の末尾に「太史公自序」を添えているが、一九三三年に胡適が西洋思想の影響下に『四十自述』を書くまで、歴史家の書く列伝は盛んであったにもかかわらず、自叙伝というジャンルはなかったのである。西洋においては、四世紀にアウグスチヌスの『告白』があるが、それは筆者が自分の個我の特色を明らかにするよりも、人間たちを等しなみにすべる神の栄光をたたえることを主眼としたものである。

個々の人間がそれぞれ独自の価値をもつとする立場にたつ近代的な自叙伝は、ルネサンス期になってはじめてあらわれる。そしてチェルリーニなどがあるが、その真の開祖となるのは、「わたしはかつて例のなかった、そして今後も模倣するものはないと思う、仕事をくわだてる」と豪語して『告白』のペンをとったルソーその人である。そして模倣する者は、彼の予言に反してあとをたたず、さきにあげたゲーテ以下世界のすぐれた自叙伝は、すべて直接的あるいは間接的に、ルソーの影響下にあるからである。

 この『告白』に第一位を与えるのは、しかし、歴史的先駆という理由のみではもちろんない。その素材、すなわち筆者の存在そのもの、の大きさが決定的である。ほとんど正規の学校教育を受けなかった、ジュネーヴの時計師の子が、彫金工の徒弟をふりだしにさまざまの職業をへて、ついにフランスの思想界、文学界の最高峰にのぼり、貴顕に交わったかと思えば、たちまち断罪されてヨーロッパじゅうを流浪する。

最大の敵意と最大の敬意につつまれて生きたこの思想家は、十八世紀ヨーロッパにおける最大の読者を獲得しただけでなく、死後もその思想はフランス革命を勃発せしめるに足る影響力を失わず、またいまなお世界に作用していることは、キューバのカストロが若いころつねに『社会契約論』をたずさえていたという事実をあげるだけで十分であろう。

主権在民、平等思想、社会主義、ロマン主義、民衆芸術、ヒューマニズム教育、こうしたいわゆる近代を構成するもろもろの要素は、その起源がどこにあるかの考証は別として、すべてルソーを通過することによって新鮮な強度を加えたのである。そのような特異な思想家の自叙伝というだけで、素材としての優位はすでに決定的といえる。

 しかもこの思想家においては、その独創的な思想は、いかに客観的な形において提出されている場合にも、いちいち必ず主体の深い奥底を通って発想されている。ルソーは、哲学者たちは他人のために、おのれの才知を誇るために本を書くが、自分は悩んでいる自分を救うために本を書く、といったが、彼は自己の心情を媒介としないような思想が他人を救いうるはずはないと考えるのである。そこで、ルソーの思想的諸作品は、『告白』の光に照らして読まねばならず、『告白』は思想的諸作品の光に照らして読まねばならぬ、というヴゥーヴイニの指摘した相互関係が生じるのである。
(「ルソー著『告白』 世界文学大系」筑摩書房 p432)

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解説  末川博

 その歩んだ道は、明治、大正、昭和にまたがり、その思想の遍歴は、ジグザクと曲折きわまりなかった河上には、その性格においても行動においても、ずいぶんむらが多かった。そして極端から極端へ変転したり、人の意表に出たりしたことがしばしばである。しかし、その矛盾したようにみえまた対立するように思われる行状や思想のなかにも、一貫するものがなかったわけではない。

河上自身も、それを「真実を求める柔軟な心」というふうにいっているのであって、彼は、終生真実を求め真理を追うてやまない求道の士であったといってよいかと思う。そのことは、この『第二貧乏物語』の「まえおき」で、みずから率直に語っているところによっても知られるであろう。このように、真実を求めて進む過程のなかで、河上は、二つの貧乏物語を公にしている。

 一つは、一九一七年(大正六年)刊行の『貧乏物語』であり、他は、一九三〇年(昭和五年)刊行の『第二貧乏物語』である。前者は、国際的な規模をもって日本の資本主義が急速に進展するにいたった第一次世界大戦のさなか、「朝日新聞」に連載したものをまとめて弘文堂から出版したものであり、後者は、日本の帝国主義がいよいよ露骨になって満州事変を起こすにいたった前年、ファッショ化の強まりつつあるとき、雑誌「改造」に掲載した稿を集めて改造社から出版したものである。

したがって、ひとしく貧乏物語といっても、その間には、歴史的社会的に大きな変転があるとともに、真実を求めてやまない河上にも学問的に思想的に飛躍的な転換があったのだから、二つの貧乏物語は、あるいは脈絡を断ったまったく別異のものとなっているといわねばならぬかもしれない。しかし、それは、みずからいうように、「多年にわたる正直な思索の量的累積がもたらした質的変化の結果である」とみてよいのではあるまいか。

 とにかく、最初の貧乏物語は、大内兵衛博士のいわれるごとく「明治・大正・昭和の学界をたどった求道の戦士の、社会政策学的研究の終点であり、彼の社会主義的研究のスタートである」とみてよいであろう。すなわち、そこでは、いかに多くの人が貧乏しているか、そしてそれはなぜであるか、さらに、どうしたら貧乏を根治することができるか、という現代社会の根幹にふれる問題が提起されているのではあるけれども、これに対する解答は、結局、道徳的な見地から奢侈贅沢の廃止を強調することによって与えられ、わずかに人道主義的な立場で社会政策の考えを加味するにとどまり、マルクスについて、その所論の片鱗を伝えているのにすぎない。

 それにしても、貧乏というものについて根本的な疑問を提起したことは、経済学のいわば最初のそして最終の問題にふれている。素朴ないいかたではあるが、真実を求めてやまない河上は、この問題をつきつめて解明するためにさらに学問的な精進をつづけることになった。しかも、『貧乏物語』を新聞に連載し終わった翌年の一九一七年には、プロレタリア革命が成功してこの地上に空前の社会体制をもつソビエト・ロシアが誕生した。この厳然たる現実は、河上を驚嘆せしめるとともに、学問的にも思想的にも河上に強い反省を求めた。

そして貧乏という現象をうわつらからなでまわすのではなくて、そのよってくる社会的な基盤にふれて徹底的な解明をしなければ、問題は解決されないというふうに、思いいたったのであろう。その結果、「私は、現在においてもなお、無意識的には、過去の観念論的空想の残滓を少なからず保菌しているであろうが、しかし意識的には、弁証法的唯物論の見地に立って、マルクス主義レーニン主義を奉じる一学徒として、ここに第二の貧乏物語に筆をとろうとしているのである」という心境に進んだのである。

 こうして、河上は、マルクス・レーニン主義に突き進んでその史観に徹しようと努めたのであるけれども、宮川実君が適切に指摘しでおられるように、(一)一九三〇年ころのわが国におけるこの方面では、ブハーリンの『史的唯物論』の影響が大きかったために、その偏向と誤謬をとり入れているところもあるので、「もし先生が今日生きておられ、みずからこの書物を再版されたならば、この書のこの部分はいくらかの訂正を行なわれたであろう」とも考えられ、また、(二)この『第二貧乏物語』は、「世界に類例のない厳重な検閲制度のもとで公刊された結果、この書のなかでは、理論の展開上本来ならば書かれねばならぬ多くのことが、まったく省略されたり、たんに暗示するだけにとどめられたりしている。たとえば、国家や階級に関する説明がそうである」さらになお、(三)一九二九−三二年の世界大恐慌と第二次世界大戦とをへて新しい段階にはいっている今日からいえば、一九三〇年のこの書は、一時代前のものとなっているともいえるのであるから、もし河上が今日生きていたら、おそらく新しい情勢に即応して、新しい形で第三貧乏物語を書いたであろうとも思われる。

 いずれにしても、戦後の歴史は、世界的にも日本的にも、急激に変転している。そのなかで『第二貧乏物語』がもつ意味は、あるいは最初の『貧乏物語』と等しく、古典としてのそれにすぎぬかもしれない。しかし、河上が独特の筆致で描きだしている理論の体系とそれをつらぬくなにものかは、そのたどりきたった曲折の多い人生行路とあいまって、今日もなお、この『世界教養全集』に加えられるに値せしめているのであろう。なお、ここに収められる『第二貧乏物語』が改造社版における伏せ字の苦難から脱却しえた経緯については、つぎのことを付言しておかねばならない。

 戦前の改造社版では、当時の苛烈きわまる検閲のために××の伏せ字が多くて、読者を悩ますことがはなはだしかったので、一九四九年の三一書房版では、宮川実君の苦心によって伏せ字を埋めていただき、しかも「原文を文字どおりに再生することが容易でない場合には、前後の文脈から想像して、原文の意味と思われるものを挿入した」ほどのお骨おりをしてもらったのである。

ところが、その後、河上の残した書類の整理にあたられた内田丈夫君によって偶然にも、河上自身が「改造社にて印刷に付せられしさいは伏せ字はなはだ多くなりおりしゆえこの原稿保存の要あり」と書いて糊づけをしておいた原稿が見つかった。一九五六年の角川文庫版は、すなわちこれによったのである。そしてこの『世界教養全集』に収められるのは、それであるから、当初の伏せ字からの解放は、河上自身がしたものといってよい。最後に一言、この文中河上と呼びすてにしているのは、私が河上の縁者であるためであることをつけ加えておく。
  一九六一年十二月二十一日
(『世界教養全集』平凡社 p418-421
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──世界の人類がかつて書いた無数の自叙伝のうちから、もしその代表として一つをあげるとすれば、このルソーの『告白』が選ばれるであろうことは、ほぼ確実だといってよい。聖アウグスチヌス、新井白石、ゲーテ、トルストイ、ミル、河上肇、ジッド、その他のすぐれた作品があるにもかかわらず、そうである。──

「貧乏という現象をうわつらからなでまわすのではなくて、そのよってくる社会的な基盤にふれて徹底的な解明をしなければ、問題は解決されないというふうに、思いいたった」……。