学習通信041128
◎「正反対の形態、つまり抽象的な一般性という形態」……。
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価値の実体としての社会的労働
A……地方へ遊説に出かけたので、二、三日失礼した。さて過日話を始めるさいに、「剰余価値の話をするにはまず価値について説明せねばならず、また価値というからには商品のことから話を進めねばならぬ」といっておいたが、きょうはいよいよ価値の話をするぞ。
B……マルクスの価値論についてはいろいろな人がいろいろのことを書いているが、どうも十分に合点しかねる。組合の研究会ですぐまにあうように、うんと平易に話してくれ。
A……まずマルクスの言葉を手がかりに、話を進めよう。マルクスは『資本論』の初版で、つぎのようにいっている。「交換価値の実体が、商品の物理的な、すなわち手でつかみうる存在、あるいは使用価値としての商品の存在とは、まったく異なれるものであり、かつ独立のものであることは商品の交換関係を一瞥すればわかるところである。
その交換関係はまさに、使用価値の捨象によって特徴づけられている。けだし、交換価値の方面から観察すれば、ある商品は、ただそれが正当な比率においてさえ存在すれば、どの他の商品ともまったく同じだからである」
B……どうも引用文というやつは耳ざわりになって困るぞ。マルクスの言葉をいちいち引用しないで、自分の言葉で話をしないか。
A……よしよし、それではなるべくひかえよう。しかし話を正確にするには、ある程度まで引用文が必要だ。すこし慣れてみたまえ、的確な引用文があると、話が保証されているようで、なかなか落ちつきのよいものだぞ。……それはそうとして、われわれはすでにつぎの事実を知っている。
「今の世の中では、あらゆる商品の価値は、みな金何円、金何十円というふうに表示されており、かくていかなる商品も、その分量上の割合をさえ適当にすれば価値としてはみな相互に等しい、ということになっている」そしてわれわれはそれを例示するために、バットー万箱も、足袋二千足も、謄写版二十台も、ダイヤ入りの指輪一個も、おのおの金七百円であり、したがって価値としてはたがいにまったく同じだ、という事実を指摘しておいた。
今そのことを指して、マルクスは、「交換価値の方面から観察すれば、ある商品は、ただそれが正当な比率においてさえ存在すれば、どの他の商品ともまったく同じだ」といっているのである。ところで、バットや足袋や謄写版や指輪などの使用価値は、いうまでもなくたがいにまったく異なる。その用途はおのおの異なっており、足袋が謄写版の代用になるわけでもなく、指輪がバットのかわりになるはずもない。かくのごとくその使用価値はたがいに異なるにもかかわらず、しかしそれらのものが適当な比率において存在するかぎり、価値としてはたがいにまったく同じだとされている。
このことは、これらのものが価値として取り扱われるかぎりにおいては、その使用価値の相違はまったく無視され問題外におかれるものだ、ということを意味する。マルクスはそれをさして、「商品の交換関係はまさに使用価値の捨象によって特徴づけられている」というのである。ところで、すでに甲の商品と乙の商品と、その使用価値はどんなに相違していても、一定の割合において価値としてはまったくあい同じだとされる以上、価値の実体が、「商品の物理的な、すなわち手でつかみうる存在、あるいは使用価値としての商品の存在とは、まったく異なれるものであり、かつ独立のものである」ことは、疑うの余地がない。だからわれわれは価値の実体を求めるためには、まず使用価値を無視せねばならぬ。それがすなわち使用価値の捨象(または無視)なるものだ。
B……価値の実体を探求するために、マルクスが蒸溜法を用いて、諸商品の使用価値を捨象したとかいうのは、やはりそのことなのか?
A……そうだ。
B……それなら、マルクスが価値の実体を発明するために手品めいたことをしたというのではなく、彼はただ現実の現象をあるがままに認識しようとしたのではないか?
A……まさにそのとおりだ、だからマルクスはひきつづきつぎのようにいっている。「使用対象あるいは財としては、諸商品は物体的にあい異なれる物である。それらの価値有は、これに反して、それらの統一を形成する。この統一がうまれるのは、自然からではなくして、社会からである。種々の使用価値においてのみ、種々に現われるところの、その共通な社会的実体は──労働なるものである」。
一万箱のバット、二千足の足袋、二十合の謄写版、一個の指輪等々は、物理的にはもちろんたがいに相違しているが、これらの物をいちように、金七百円に値するものとして同一視するのは、人間がその社会的関係においてすることである。だから諸商品の価値としての同一性が生じるのは、「自然からではなくして、社会からである」というのだ。
B……それはわかったが、そのつぎの「種々の使用価値においてのみ種々に現われるところの、その共通な社会的実体は労働である」というのは、なんのことだ?
A……使用価値という観点からすれば、じつに千種万別であるところの種々なる商品が、価値としてはことごとく金何円、何十円に値するというように、まったく品質の同じものとして取り扱われるのは、なにを共通の標準としてであるかが、今われわれにとっての問題なのだが。すでに述べたようにわれわれが諸商品の使用価値を無視する以上、それら諸商品のからだに残っている属性としては、ただその生産のために人間の労働が費やされているという点のみである。
しかもわれわれはすでに諸商品の使用価値を無視しているのであり、それがタバコであろうが、足袋であろうが、謄写版であろうが、そんなことはまったく問題外においているのだから、それらの物の生産に費やされた労働についても、それがタバコをつくるための労働であるとか、足袋をつくるための労働であるとかいう方面は、やはりこれを問題外においているのであり、ただそれらの物にそれぞれの分量の人間の労働が費やされているという点のみを、問題とするのである。
マルクスが諸商品に共通な社会的実体となしたものは、すなわちかかる性質の労働であり、そしてかかる労働が「種々の使用価値においてのみ種々に現われている」というのである。商品の価値について問題となるのはその商品にただ人間の労働が費やされているという方面だけなのだが、しかしただ人間の労働だというようなものが空に存在するわけではなく、人間の労働は、あるいはタバコをつくるための労働とか、足袋をつくるための労働とかいうように、かならず一定の具体的な形態をもって、それぞれ特殊の原料のうえに加えられ、その結果として、タバコだの足袋だのというものが生産されているのである。「種々の使用価値においてのみ種々に現われている」とは、そのことだ。
B……それはわかったが、しかしその労働をさして社会的実体というのはどういうわけなのだ。
A……問題の中心は、商品は交換によって社会的生産物となるという点に横たわっているのだ。おのおのの商品は、個人労働によって生産されたものであり、個人の所有物である。しかしそれは、これを生産した当人が消費するのではない。もし生産者自身がこれを消費するのなら、それは商品とはならない。商品という以上、それは生産者以外の──すなわち社会の──需要を目当てとして生産されたものでなければならぬ。
だからまた、商品として生産されたすべての生産物は、全面的にその所有者を変更せねばならぬ。しかるに、すでにそれらの物が残らずたがいに交換されるという以上、それらの物は、なんらかの割合において、価値としてはたがいにあい等しとされねばならぬ。たとえば、米と織物と交換されるという以上、ただ漠然と米と織物とが交換されるということはありえない、かならずや米の一定分量──たとえばニ升──と、織物の一定分量──たとえば一反──とが、交換されるのであり、しかるかぎりにおいて、二升の米と一反の織物とは、価値においてあい等しとされるのである。
そしてこのことは、二升の米を生産するために費やされた労働と、一反の織物を生産するために費やされた労働とが、社会的には平等視されるということを、意味するにほかならぬ。かようにして、種々なる生産物を生産するために費やされた労働は、それら生産物自体がたがいに交換されるという現実の社会的過程を通じて、同一品質のものとしての取扱いを受けることになる。
労働のかかる方面は社会的に形成されるのであるから、それゆえにこれを社会的実体というのである。だからマルクスはつぎのようにもいっている。「諸商品の交換価値をそれらのものに含まれる労働時間(労働の分量)で測定するためには、種々なる諸労働それ自体が、無差別な、いちような、単純な労働に、簡単にいえば、質的には同じであり、したがってただ量的にのみ区別される労働に、還元されていなければならぬ。かかる還元は一の抽象のように思われる。だがそれは社会的生産過程(交換過程)のなかで日々成し遂げられる一の捨象である」
B……そうすると、つまりこういうことになるのだな。──今の世の中には商品としてじつに種々さまざまのものが生産されているが、それらはたがいに交換されることにより、なんらかの割合において価値としてはたがいにあい等しとされる。そして、かくされることにより、諸商品に含まれている種々さまざまの労働は、その具体性を無視され、したがってただ単に人間の労働力の支出としての取扱いを受けるわけだが、かかる性質の労働がすなわち商品価値の実体をなすのである。──簡単にいえば、こういうことになるのだな。
A……まったくそのとおりだ。いわば諸個人の種々なる具体的労働が、社会的生産のための労働として、捨象的な、したがって無差別な労働という一色の海に流れこみ、社会的生産の動力として一の元本を形成する。そして社会の必要に応じ、その労働が種々なる生産部門へ配分される。そういうことが根本的の事態だ。
ただそれが、商品生産社会では、生産物の交換という過程を通じて行なわれ、したがって社会的労働の各種生産部門への配分は、生産物の商品としての価値を標準として、詳しくいえば、価値の低い品物の生産からは労働が引きあげられ、価値の高い品物の生産のほうへそれが向けられるという方法によって、実現されてゆく、というだけのことである。
商品の価値を形成する労働は、「実際のところ種々なる諸主体の労働として現われるのではなく、むしろ労働せる種々なる諸個人が労働(社会的労働)そのものの単なる器官として現われるのである」というのは、そのことだ。
B……それでだいぶよくわかってきたぞ。つまり商品の価値というものは自然に存在するのではなく、人間がその生産物を交換しあうという関係をむすんでいればこそ、いろいろな物が金何円、何十円に値するというふうに、いわゆる価値なるものをもつようになるのだな。
A……そうだそうだ。だから交換の行なわれない社会ではいかなる生産物も金何円、何十円というような評価は受けはしない。売買しようにもその相手のないロビンソン・クルーソーが、自分の生産物を金何円、何十円に値するというように、評価してゆくはずはない。
B……商品の価値が超感覚的なものだということも、それが社会的なものである以上当然のことだな。
A……そうだそうだ。
B……過日引用されたマルクスの言葉に、「たとえば人が木材でテーブルをつくるならば、木材の形態は変更される。しかしそれにもかかわらずテーブルは依然として木材であり、ありふれた感覚的な一個の物である。ところが、そのテーブルがいったん商品として出てくるやいなや、それは感覚的であり同時に超感覚的である一つの物に転化する」という言葉があったが、この場合感覚的であるというのは、商品の使用価値を指し、超感覚的であるというのは商品の価値を指すのだな。
A……そのとおりそのとおり。
B……すでに商品の価値が超感覚的なものである以上、それは、目に見ることも手でつかむこともできない。そこで一定の商品の価値を表現するためには、それより他の商品を持ってきて、たとえば、米二升の価値は金一円(すなわち純金二分)に相当するというふうに表現するのだな。
A……それもそのとおりだ。米二升の価値は米二升に相当するといったのでは、意味をなさない。だから米二升の価値を表現するには、米二升に含まれている社会的労働と同じ分量の社会的労働を含んでいるところの、一定分量の他の商品、たとえば二分の金を持ってこなければならぬ。この場合、米二升は金二分と交換されうる。だから米二升の交換価値は金二分(または金一円)というのである。
B……それでだいたい商品の価値とはなんぞやということが理解されたが、しかし最近の「中央公論」に出た二木保幾氏の「マルクスの価値論における平均観察と限界原理との矛盾」とかいう論文をみると、話がまたさっぱりわからなくなる。
A……あの論文なら、なにが書いてあるのかと思って僕もちょっとのぞいてみたが、失礼ながらあれはさっぱりだめなのだ。よほどひまがあるのでなかったら、あんなものは見ないほうが得だぞ。
B……それなら、あれの批判はやめておくか?
A……もちろんのこと。
B……それでは話も一段落だ。きょうはここいらでうちきって、ひとつ茶にしようか。
A……きのう金沢の市議選へ出かけて、長生殿という名物の菓子を同志からもらって帰った。それをひとつごちそうしよう。
B……それはありがたい。
(一九三〇年一月)
(河上肇著「第二貧乏物語」平凡社世界教養全集N p373-378)
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交換価値が労働時間によって規定されるということは、さらにある一定の商品、たとえば一トンの鉄のうちには、それがAの労働であるのかBの労働であるのかには無関係に、いずれも同じ量の労働が対象化されているということ、あるいは、量的質的に一定の使用価値を生産するためには、それぞれの個人が同じ大きさの労働時間を用いるということ、を前提している。
いいかえれば、ある商品のうちにふくまれている労働時間とは、それの生産に必要な労働時間、つまりあたえられた一般的生産諸条件のもとで、同じ商品を新たにひとつ生産するのに必要な労働時間である、ということが前提されているのである。
交換価値を生みだす労働の諸条件は、交換価値の分折からあきらかなように、労働の社会的諸規定、または社会的な労働の諸規定であるが、社会的というのは単純にそうなのではなく、特定の様式においてそうなのである。それは特殊な種類の社会性なのである。
まず最初に、労働の無差別な単純性とは、さまざまの個人の労働が同質であり、かれらの労働が同質なものとしてたがいに関連しあうということであって、しかもこの関連は、あらゆる労働が同質な労働に事実上還元されることによっておこなわれているのである。各個人の労働は、交換価値で表示されるかぎり、同質性というこの社会的な性格をもち、またあらゆる他の個人の労働にたいして同質なものとして関連させられているかぎりにおいてのみ、かれらの労働は交換価値で表示されるのである。
さらに交換価値にあっては、ひとりひとりの労働時間が直接そのまま一般的労働時間としてあらわれ、また個別化された労働のこの一般的性格が、その社会的性格としてあらわれるのである。交換価値で表示されている労働時間は、個々人のそれではあるが、他の個々人とは何の区別もない個々人の、同質の労働をおこなっているかぎりでのすべての個々人の労働時間であり、したがってあるひとりにとって一定の商品の生産のために必要とされる労働時間は、ほかのだれでもが同じ商品の生産についやすであろう必要労働時間なのである。
それは個々人の労働時間であり、かれの労働時間ではあるが、しかしそれはすべての個人に共通な労働時間としてだけそうなのであり、したがってこの労働時間にとっては、それがだれの労働時間であるかはどうでもよいのである。
それは一般的労働時間として、ある一般的生産物で、ある一般的等価物、対象化された労働時間のある一定量で表示される、そしてこの一般的生産物は、ある個人の生産物として直接にあらわれる使用価値の一定の形態にかかわることなく、他のだれかの生産物として表示される使用価値のどんなほかの形態にでも任意におきかえられるのである。
それはただ、このような一般的な大きさとしてだけ社会的な大きさなのである。個々人の労働が交換価値に結実するためには、ひとつの一般的等価物に、つまり個人の労働時間が一般的労働時間として表示されることに、あるいは一般的労働時間が個人の労働時間として表示されることに、結実しなくてはならない。それはちょうど、いろいろな個人がその労働時間をよせあつめ、こうしてかれらが共同に処分できる労働時間のさまざまな量を、さまざまな使用価値で表示したようなものである。
だから事実上、個々人の労働時間は、ある一定の使用価値をつくりだすために、つまり、ある一定の欲望を満足するために、社会が必要とする労働時間なのである。だがここで問題なのは、労働が社会的性格をうけとるばあいの特殊な形態だけである。たとえば、紡績工の一定の労働時間が一〇〇ポンドの亜麻糸に対象化するものとしよう。
そして織布工の生産物である一〇〇エレのリンネルも同じ量の労働時間を表示するものだとしておこう。そのばあい、これら二つの生産物が一般的労働時間の同じ大きさの量を表示しているかぎり、したがってまた等量の労働時間をふくんでいるどんな使用価値にたいしてでも等価物であるかぎり、おたがい同志、等価物なのである。
紡績工の労働時間と織布工の労働時間とが一般的労働時間として、したがってかれらの生産物が一般的等価物として表示されることによってのみ、ここでは、織布工の労働は紡績工のための、また紡績工の労働は織布工のための、一方の労働は他方のためのものとなり、つまり、かれらの労働の社会的な定在がそれぞれのためのものとなるのである。これに反し、紡ぎ手も織り手もひとつ屋根のもとに住み、いわば自家需要のために、家族のうちの女たちは糸をつむぎ、男たちは布を織っていた農村的家父長制的な工業においては、家族という限界のなかで、糸やリンネルが社会的生産物であり、紡績労働や機織労働が社会的労働であった。
けれどもその社会的性格は、一般的等価物としての糸が一般的等価物としてのリンネルと交換されること、つまり両者が同じ一般的労働時間の、どちらでもかまわない同じ意味をもつ表現として、たがいに交換されることにあったのではない。むしろ自然発生的な分業をもつ家族的連関こそが、労働の生産物にそれに固有な社会的刻印をおしたのである。あるいはまた、中世の賦役や現物給付をとってみよう。
ここでは自然形態にある個々人の一定の労働が、つまり労働の一般性ではなくて特殊性が社会的紐帯となっている。あるいはまた最後に、すべての文化民族の歴史のあけぼのにみられるような、自然発生的な形態での共同労働をとってみよう。ここでは労働の社会的性格は、あきらかに、個々人の労働が一般性という抽象的形態をとること、あるいはかれの生産物が一般的等価物の形態をとることによって媒介されてはいない。
個人の労働が私的労働となること、および個人の生産物が私的生産物となることをさまたげ、むしろ個々の労働をただちに社会有機体の一分肢の機能としてあらわれさせるものは、そこでの生産の前提となっている共同体なのである。交換価値に表示される労働は、個別化された個人の労働として前提されている。それが社会的なものとなるのは、その正反対の形態、つまり抽象的な一般性という形態をうけとることによってなのである。
(マルクス著「経済学批判」岩波文庫 p28-31)
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◎「個人の労働時間が一般的労働時間として表示される──それはちょうど、いろいろな個人がその労働時間をよせあつめ、こうしてかれらが共同に処分できる労働時間のさまざまな量を、さまざまな使用価値で表示したようなものである。」……。