学習通信041130
◎「家族が民族に成長し、民族は国家に成長した」……。

■━━━━━

 現状維持論者によってくつかえすべからざる真理としてかたくなに主張され、また今日もなお通説とされている解釈、すなわち、現存の家族形態は古くから存在するものであり、また全社会の文化を害すまいとすれば今後も永遠に存在しなければならないものだという解釈は、研究者たちのかような発見によれば、全然誤りでとうてい保持しがたいものであることがわかる。

太古史の研究の結果、人類のもっとも低い進化段階では両性関係は後世のものとはまったく異なっていて、近代人の目には一つの怪異と見え、破倫の泥沼と思われるような状態をあらわしていたということについて、もはや疑いをさしはさむ余地はなくなった。

人類の社会的進化の各段階は、それぞれそれ自身の生産条件を持つように、それぞれその道徳律をも持つものであるが、この道徳律は単にその社会状態の反映に過ぎない。

道徳的とはそれが風習だということであり、風習とは要するにある時代のもっとも深い本質に、すなわち社会的諸要求に、適合するものの謂いである。
(ベーベル著「婦人論-上-」岩波文庫 p32-33)

■━━━━━

 ミハイロ一フスキイ氏には、もう一つ事実の指摘がある。これがまた一種の逸品なのである! 彼は唯物論を訂正しながら、こう続けている。「血族的諸結合に関して言えば、それは、文明諸国民の歴史においては、生産諸形態の影響の光を受けて、部分的には実際に色あせているが(またまた逃げ口上だ。ただ今度はもっと見え透いている。いったいどんな生産諸形態なのか? 空虚な文句だ!)、しかし、部分的には、それ自身の継続であり普遍化である、民族的結合のなかに解消してしまった」。

だから、民族的結合は血族的諸結合の継続であり、普遍化であるのだ! ミハイローフスキイ氏は、明らかに、社会史に関する自分の諸観念を、中学生に教えられている子供向けの一口話から借りている。このお手本の学説は言っている。

社会組織の歴史は、はじめに家族、どの社会においてもこの細胞(※)があって、次に家族が民族に成長し、民族は国家に成長した、と言うのである。ミハイローフスキイ氏がこの子供じみたたわごとをもったいぶった顔つきで繰り返しているとすれば──他のことはすべておくとしても──彼がロシア史の行程についてさえ、もっとも小さな観念をももっていないことを示しているにすぎない。

古代ルーシにおける血族的生活について語ることができたにしても、すでに中世、モスクワ皇国の時代にはこれらの血族的諸結合がもはや存在していなかったことは、疑いのないところである。つまり、国家は、まったく血族的同盟ではなく、地域的同盟を基礎にしていたのである。地主たちや修道院はさまざまな地域から農民を受け入れていた。このようにして成立していたもろもろの共同体は、純粋に領土的な同盟であった。

しかし、言葉の本来の意味における民族的結合については、当時はほとんど問題にはなりえなかった。国家は個々の「領国」に、一部は公国にさえ分解しており、これらの公国は以前の自治の生き生きとした痕跡や行政上の特殊性を保存し、ときには自分たちの特別な軍隊や(地方の大貴族は自分の軍勢をひきつれて出陣したりしていた)、特別の関税用の境界などを保存していた、等々。

ロシア史の近世(ほぼ一七世紀以降)だけが、すべてそういう地方や領国や公国が一つの全体に実際に事実土融合されたということによって特徴づけられる。この融合を呼び起こしたのは──いとも尊敬すべきミハイローフスキイ氏よ──血族的諸結合でもなく、それらの継続でもなく、普遍化でさえもない。

それを呼び起こしたのは、諸地方間の交換の発展であり、徐々に成長していく商品の流通であり、小さな地方のもろもろの市場が一つの全ロシア的市場へ集中していったことであった。この過程の指導者であり主人公であったのは商業資本家であったので、これらの民族的諸結合の創出は、ブルジョア的諸結合の創出にほかならなかった。

自分のどちらの事実の指摘によってもミハイローフスキイ氏はわが身を打っただけだったので、ブルジョア的卑俗さの見本以外われわれになにも与えなかった。

卑俗さというのは、ミハイローフスキイ氏が相続制度を子供の生産とその心理によって、また民族性を血族的諸結合によって説明したからであり、ブルジョア的というのは、彼が一つの歴史的に特定の社会構成体(これは交換に基礎をもっている)の概念と上部構造を、子供の養育や「直接的な」性的な結合と同じだけ一般的で永遠な概念と誤認していたからである。
※これは、まぎれもなくブルジョア的な思想である。細分化された、小さな家族が支配的になったのは、やっとブルジョア制度になってからである。そのような家族は、有史以前の時代にはまったく存在していなかった。現代の秩序の特徴をあらゆる時代や国民のなかへ持ち込むことほど、ブルジョアの特徴をよく表わしているものはない。
(レーニン著「人民の友とはなにか」新日本出版社 p47-49)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「人類の社会的進化の各段階は、それぞれそれ自身の生産条件を持つように、それぞれその道徳律をも持つものであるが、この道徳律は単にその社会状態の反映に過ぎない。」

◎私たちが日常的にぶつかる壁≠どうみたらいいのだろうか……。例えば子ども問題も「家族バッシング」ですむというのだろうか。愛国心と家族……。