学習通信041201
◎「見かけの運動と実際の運動が異なる場合」……。

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人類の到達を伝える教育と日常
 ─天動説≠信じる子どもたち
   池内 了(名古屋大学教授)

 国立天文台のアンケート調査によって、小学生の40%が太陽が地球の周りを回っていると信じているという結果が報告された。地球が太陽の周りを回っていると周囲の人から教えられず、毎日太陽が東から昇り西に沈む様を見ているだけであるとすれば、太陽が地球の周りを回っていると信じるのは無理ないことである。

 つまり、この調査結果は、日常の教育がどうあるベきかを問うていると思われる。そしてそれは、子どもたちの自然観や宇宙観をどう育てていくかの問題でもある。地動説という宇宙観がどのように成立したか手短に振り返り、あるべき教育について考えてみたい。

証拠なしでも
共有された宇宙観

 コペルニクスが地動説を唱えたのは、観測的事実によったのではなく、天動説では惑星の運動があまりに複雑になり過ぎるためであった。そして、水星や金星が常に太陽のそばに見えることから、それらが太陽の近傍を回っているとする方が都合がよいと考えたのだ。より少ない仮定で、より多くの事実を説明することができるという、「思考の節約」として地動説を構想したと言える。コペルニクスは、地球が太陽の周りを回っている証拠を見つけようとしたが、望遠鏡のない時代で、それは無理であった。

 ガリレオが宗教裁判にかけられたとき「それでも地球は回っている」とつぶやいたことで有名だが、ガリレオとて地動説を示す直接の証拠は手にしていなかった。木星の周りを四つの衛星が回っていることと、金星が月と同じように満ち欠けをするらしいこと、このガリレオ自らが発見した二つの観測的な事実を基にして、地動説を確信してはいたのだが、あくまで確信であって絶対的な真実と主張することができなかったのだ。

 地動説が人々の共有する宇宙観となったのは、一六八七年にニュートンが万有引力を発見し、それによって、ケプラーの三法則(惑星は太陽を焦点とする楕円軌道を描くなどの惑星の運動法則)を過不足なく説明できることを示してからのことであった。

 地球が太陽の周りを回っていることが直接示されたのは一八三八年のこと(星の年周視差=地球が太陽の周りを回ることによって星の見える位置がずれる=の発見)だから、人々は直接の証拠を手にしていなくても、ニュートンの理論が主張することを信じたのである。

 ここに、宇宙観の成立が、いかに人々の世界を見る目によっているかがわかるだろう。世界を解釈するもっとも合理的な考え方として人々によって膾炙(かいしゃ)されれば、直接的な証拠を目にせず、一見予震するかのような現象を目にしても、その宇宙観は人々の共有するものになるのである。

見かけと実際が
異なることを学ぶ

 さて、子どもたちの多くが太陽が地球の周りを回ると信じていることに論を戻そう。その事実は、確固として成立している宇宙観が子どもたちに共有されていないことを意味する。あぜんとする結果ではあるが、さもありなんという気持ちもある。

 第一義的には、太陽系宇宙のようなもっとも基本となるべき事柄を、学習指導要領で割愛してしまった文部科学者の責任が大きい。子どもたちは、何も教えられなければ、見かけの太陽の運動をそのまま認めてしまうからだ。直接的には実感できない地球の運動を想像させ、太陽や月の運動が簡単に説明できることを、せめて小学校四年生くらいまでには教える必要がある。それによって、見かけの運動と実際の運動が異なる場合があることを学ぶことができるだろう。

 もう一つ私が気になるのは、宇宙観はいわば伝承で引き継がれていくものであるにもかかわらず、親や先生と子どもだちとの日常の会話で語られていないということである。「子ども百科」と名の付く本が多数出版され、そこでは地動説が解説され、月の見え方が図示され、恒星の季節変化まで説明されている。今回の調査は、それらの本を囲んでの会話が決定的に欠けていることを示している。科学が日常生活から乖離(かいり)していると思わざるを得ないのだ。

 「理科離れ」がいわれているが、学校の科目で順序立てて教えず、日常で科学を話題にする会話が欠けていては、その解決は無理というものである。
(しんぶん赤旗 2004.11.9)

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今日の科学
  M・L・オリファント

 人間に生まれつきの好奇心は、今日私たちが知っているような物質文明を生みだし、私たちの知識の貯蔵庫にはかりしれぬものをつけ加えた。それは、国民の成熟のていどをあらわす微妙な尺度──ほかに適当なことばがないので、私たちはそれを「文化」とよぶ──に大いに貢献してきた。

ひとくちにいって、この生まれつきの好奇心は、進歩をおしすすめた主要な因子である。近代になってからは、この知識欲は科学の追求のなかにもっとも力づよく表現されている。地理学的世界の探検は今はほとんど完了しているが、ドレークやクックの精神は、原子の内部や、生物を形づくるふくざつな分子を探検する人々の中に、今なお生きつづけている。

 この書物の前の諸章で、科学の思想と実験のさまざまな部門が論ぜられた。それらを通読しておわかりになったことと思うが、過去の業績を研究することによって、それらがどのようにして思考や行動に革命的な変化をもたらしたかということが、あきらかになるのである。

科学の進歩の速さは今ではすばらしく大きいうえに、ほとんど疑う余地なく認められているので、私たちはそれが私たち自身に及ぼす影響を見のがす危険があり、したがってそれが私たちをどこへ導くかを正しく見分けていないかもしれない。私の目的は、自然に関する私たちの知識が増大した結果として、私たちにおこりつつあると信ずることがらをのべることにある。

 以下で私が明らかにしようとするのは、ほとんどの人がかんたんな科学的事実にさえどれほど無知であるか、しかもそれなのに、科学知識のたえまない進歩が彼らの日常生活に及ぼす影響は、どれほど大きなものであるか、ということである。その結果として、大多数の人々の将来、彼らの現在の社会的、政治的見解、彼らのなす行動、などは、彼ら自身の手が全くとどかない諸事実によって決定されつつある。

この状態は非常に危険であって、すべての人々に、何が起っているか、それはどうしてかをもっと十分に気づかせることによって、この状態を匡正することは、未来に対して負う私たちの責務の一つなのである。あとでお分りになることだが、私の意見では、科学の進歩によって生みだされたこの困難に対する一つの解決法は、まことに奇妙にも、科学知識をもっとひろめること、およびもっと大きい速度でそれを人類の福利に利用すること、にある。

つぎに私が指摘したいのは、私たちの心が、科学の進歩がふくむ哲学的な意味によって、どれほどつよく影響されているかということ、ならびに、過去のどれよりも革命的な、ものの見かたの変化が、今日おこりつつあること、である。さいごに私は、科学は誤って用いられないかぎり、国際間の平和と理解を促進するために、人間の発揮しうる最大の力であるという私の確信を披瀝するであろう。

 ちょっと見たところでは、近代科学は、事実と想像との甚だしく錯綜した混合であるようにみえる。注意深く観察されたしかめられた事実、高い精度をもってなされた実験の結果、そしてこれらの大量のデータが明らかにする自然の行動の描写などが、ほとんど同じくらい大量の思弁といりまじって存在している。

星の内部に関する理論的な計算、物理学におけるニュートリノや化学における酵素系などの存在に関する検証できない仮説、動物の行動に関する推測、などといったものは、人をひどくまごつかすような態のものなので、科学者でない人には、何を信じてよいかわからなくなるほどである。だがこのように、冷たい事実から仮説が煮えたつことこそ、科学の精髄そのものなのである。

というのは、推測がそれを実証するための実験を示唆し、それによって真理が徐々により出されるからである。

現存する知識のはんいをこえてひろがる思弁は、人の心をはらはら、浮きうきさせるもので、それをあんまり真剣にうけとったり、事実と信じたりすることさえなければ、人間の知性のはたらきの最もよい例の一つを提供するものである。

これらの推測を行うのは科学の義務であり、そしてそれを実験と観察によりなしうるかぎりの方法でテストし、誤りまたは不完全とわかったものは容赦なく棄てることも、同様にその義務である。科学がどのようにはたらいているかを理解するにあたって、一般男女が経験する困難は、おもに、じつにひどいわけのわからぬことばづかいや不必要な専門術語をつかうこと、科学的証明のふくざつさ、などから生まれるのである。

 ほんとうのところ、私たちが真に理解することは極めて単純なのである。たとえば、「顔面皮膚血管拡張」とはふつうの赤面のことだし、「結晶性合水炭酸ソーダ」とは洗濯ソーダ、「非相対論的二次元空間」とは私たちがその上に幾何の図形をえがくふつうの平面にすぎない。同じように、ふつうの食塩のなかで塩素とナトリウムの原子がどこにあるかを推断するのに手がかりとなる証拠は、ふくざつであり専門的事項でいっぱいだが、原子が立方体の頂点に位置するという事実のほうは、かんたんで得心のいくものである。
(H・バターフィールド、W.Lブラッグ他著「近代科学の歩み」岩波新書 p196-199)

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◎「冷たい事実から仮説が煮えたつことこそ、科学の精髄そのものなのである。というのは、推測がそれを実証するための実験を示唆し、それによって真理が徐々により出されるからである。」と。