学習通信041202
◎「このような生き方をした知識人がいたのだ」と……。

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A……これはちょうどよいとこへやってこられた。やっと荷物をかたづけて、今机へ向かったばかりのところだ。

C……京都から東京へ移られたという話を聞いて、Bのかわりに僕がきたのだ。

A……それはかたじけない。ではさっそく剰余価値の話をしようか?

C……西から東へ百里の道を動いてきた君だ、まだ気持が落ちつくまい。移転についての感想から話を始めたまえ。

A……それもよかろう。──その昔僕が東京を引きあげて京都へ移住したのは、明治四十一年の九月の初めか八月の末ごろであった。その前後のことはなにもかも、はや忘れてしまったが、つぎのことだけは今だにはっきり覚えているよ。当時僕は家族を東京に残して、自分だけがひとまず京都へいった。一夜を宿屋で明かした翌朝、僕は人力車に乗って貸家捜しに出かけた。京都の地理にはまったく不案内であったから、車夫に行く先を尋ねられても、僕はただ大学付近へと答えるほかはなかった。

大学は吉田山の西麓に位置しているが、吉田山をはさんでその東側には、真如堂、黒谷、銀閣寺、法然院等々の名所がある。それで、名所案内をしなれていたであろう車夫は、僕を乗せて神楽坂を登り、まず真如堂の前に出た。僕はその刹那に、こんもりとした森の上に頭を出している五重の塔を見た。その景色がとてもよかった。僕はその瞬間に、しばらくでもこんな所へ住まえたらと思った。偶然にも真如堂の門前に家賃十円あまりの手ごろな貸家が、僕を待ち構えていた。僕は自分の発見したこの最初の貸家をすぐに契約してしまった。

それ以来僕は幾度か居を移したが、西洋へ留学するまではかつてこの真如堂付近を離れたことがない。──こんもりとした森の上に頭を出していた真如堂の五重の塔、その印象はついきのうのもののようにありありと残っているが、数えてみると、それはじつに二十有余年前の夢だ。新橋をたつとき、義兄は僕の肩をたたいて、喧嘩(けんか)してすぐに舞いもどらぬようにと忠告してくれたが、僕は思いのほか長く京都に落ちついていたものだ。

C……京都の生活がそんなに長かったのか?

A……考えてみると、僕はあまりにも長く書斎に閉じこもってていた。しかしそのおかげでマルクス主義を学び、さらにその結果として、ついに書斎にばかりは閉じ龍もりえぬ身となった。大学を退いて後、数カ月の間は、『資本論入門』や『経済学大綱』に筆をとっていたが、官吏としての束縛から解放されていながら、なおかかる生活を維持していることは、僕にはだんだんに耐ええられぬものとなった。

『資本論』第三巻にエンゲルスの題している序文を見ると、彼はこの書の刊行がはなはだしく遅延した理由の一つとして、彼自身が(生前のマルクスと同じように)実際運動のため少なからぬ時間を奪われたことをあげ、かつそのちなみに、彼はつぎのごとく述べているのである。

 「十六世紀におけると同じように、現代のごとき動揺的な時代に、公の諸問題に関する領域では、単なる理論家はただ反動の側に存するにすぎないのであり、またそれゆえにこそ、これらの諸君はけっして真実の理論家ではなく、かかる反動の単純な弁護論者なのである」エンゲルスのこの言葉とともに、僕の忘るる能わざるものは、レーニンの名著『国家と《革命》』の第一版に加えられている欧文である。彼は、この書の第七章として予定されていた「一九〇五年および一九一七年のロシア革命の諸経験」につき、彼が一行だも筆をとりえなかったのは、「一九一七年の十月革命の前夜という、政治的危機によって妨げられた」ためであることを述べ、それにつづいて、さらにつぎのごとくいっているのである。

「かかる妨げは、ただ歓迎するのほかない。……『《革命》の諸経験』に参加するほうが、それについて記述するよりも、より愉快であり、より有益である」レーニンのこの言葉と、エンゲルスのさきの言葉とは、僕が大学在職当時から絶えず気にしていたところなのだ。『資本論』の完成がきわめてたいせつな仕事であることはいうまでもないが、「一九〇五年および一九一七年のロシア革命の諸経験」だって、それにつきレーニン以上の適当な筆者を見出すことは、まったく不可能だ。

しかるにマルクスもエンゲルスもレーニンも、解放運動の実践のためには、その文筆的労作を犠牲にすることを、ただにいとわなかったのみでなく、むしろつねにこれを歓迎していたのだ。〔革命〕的理論なくして〔革命〕的行動はありえないが、しかし百の理論も一の実践に如(し)かずというのが、マルクス主義の原則だ。すでに大学を退き、官吏としての服務規則から解放された僕が、なお依然として書斎にばかり閉じこもり、『資本論』の翻訳やその『入門』の著述などに没頭していることは、マルクス主義の立場から、いかにしてもみずから安んじうべき生活の様式ではない。このことは僕自身にとってあまりに明白だった。

だから当時の僕は、うつうつとしてみずから楽しむことができなかった。散歩の途中、清水寺の境内で、西郷南洲の「相約して淵に役ず後先なし、嵩(あに)図らんや波上再生の縁」という詩碑を、暗い心で仰ぎ見た当時の気持は今もなおありありと脳裏に刻まれている。

C……当時そんなに暗い気持でいたのか?

A……まったくそうであった。「相約して淵に役ず後先なし、嵩図らんや波土再生の縁」僕は幾度かこの句を吟じつつ、あの詩碑のほとりを徘徊したものだ。この句によって僕がなにを思い出していたかは君にもわかろう。

C……それはわかるが、しかしどうも話がだんだんセンチメンタルになって感心しないね。

A……それではもうよすが、なんにしても僕は今、労働党の結成を機会に、二十一年余りも根をおろしていた京都を引きあげ、久しぶりにこの東京へ舞いもどってきたので、じつに、雲を払って天日を仰ぐの感じがしているよ。洛東法然院の静けさは、かつて、もっとも僕の心をひいたものだった。すきとおった池の水、巌陰に眠れるコケの色、小さな藁ぶきの阿弥陀堂、太古に似たる静けさのなかに響く木魚の音、それらのものは人をして「一僧年八十、世事いまだかつて聞かず」の句を思い起こさしめるものがある。

僕がもし死んだなら、この法然院をかりて、近親と二、三の親友とだけで葬式してくれ、そして遺骨は黒谷に埋めてくれ、これがあるときにおける僕の願いであったが、今は闘争の巷に死地を求むるの身となった。考えてみると、人生は川の流れのようなものだ。長い間さしたる波瀾曲折もなしに静かに流れていたも、一たび懸崖に臨んで手を放ったら最後、ひどい速力の滝となって落ちるところまでは落ちてしまう。それがなければけっして落ちつかない。僕は今、マルクスについて学んだ者の一人として、はじめて安住の地をえたかに感じる。

過去五十年の間に与えられたものとして受け取った諸条件は、僕の意図で今さらどうすることもできないが、与えられている諸条件の範囲内では、解放運動の実践のため、今後できうるかぎりの努力を試みようと決意している。そうはいうものの、生まれつき弱いうえに、齢も五十を越しているから、どうせなにもできまいが、よろしく頼むぞ。

C……君の志を諒とする、そしてここに同志として歓迎の意を表するぞ。

A……それはありがとう。それではおいおい剰余価値の話を始めるか?

C……まず一服してからにしよう。

A……よしよし。
(河上肇著「第二貧乏物語」平凡社世界教養全集Np379-381)

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まえがき

 私はこの小さな本で、河上肇という大きな人物の全体像のスケッチを試みる。予想あるいは期待している読者層は、これまで河上肇の本を読む機会のなかった人たちである。

 河上肇は一八七九(明治一二)年に生まれ、一九四六(昭和二一年に死去したから、いまから一世紀以上前に生まれ、半世紀足らず前までの七十年近くを、日本で生きた社会科学者である。生涯に年齢数を上まわる多量の本を書き、いわゆる明治末期から、大正期を経て、戦前昭和期にかけて、多くの読者をもち、広大な影響を社会にあたえてきた。没後にも彼の著作はくりかえし出版され、岩波書店から全三十六巻の全集が刊行されている。もっとも有名なのは、恐らく『貧乏物語』と『自叙伝』(ともに岩波文庫)であろう。

そして彼については、日本の社会科学者としては他に例がみられないほど、たくさんの伝記・回想記さらに研究論文が書かれている。そして、東京と(京都を中心とする)関西と郷里山口県との三ヵ所に河上肇記念会が組織され、記念行事の開催や会報の発行がいまもつづいている。最近までは、京都大学経済学部の学生が主催する河上祭が、年中行事としてつづいていた。

 ところで私は、一九二一(大正一〇)年に生まれたから、河上の四十年ほどの後輩である。生前の彼に会ったことはない。太平洋戦争中の学生時代に、名前を聞いたことはあるが、彼の本は当時発売禁止になっていたから、読む機会もなかった。

 私が河上肇に出会ったのは、敗戦直後に、『自叙伝』の読者としてである。しかも偶然の事情で、印刷・出版される前の筆写原稿を私は読んだのである。このとき受けた強烈な感銘を、いまでも忘れることができない。日本の近代史のなかに、このような生き方をした知識人がいたのだ、ということを私ははじめて知った。それからこんにちまで、彼に関心を持ちつづけてきた。かなり本を読んだ。書評などの短かい文章をいくつか書く機会もあった。

 しかし私は、自分を河上肇研究者として意識したことは今までなかった。私は近代日本の社会思想史・社会運動史の研究者として仕事をつづけてきたが、河上肇については愛好者≠ニみずからを規定していた。そしてその立場から、ここではいちいちお名前をあげることは省略するが、数多くの河上肇研究者からたくさんのことを学んできた。

 ところで、一九七四年から八七年までの十三年間、京都の大学に勤務するあいだに、私は河上肇に触れる機会にかなり恵まれた。法然院のお墓にも、たびたび散歩をかねてお詣りしたし、御遺族や生存する門下生の方がたにお目にかかる機会もあった。一九七九年秋、京大と法然院と私が居住していたマンションの画廊を会場に催された生誕百周年記念行事に参加するなかで考えついたことを、有志の方がたと相談して実行に移してもみた。

それは、河上肇を過去のひととしてではなく、未来にむけて記念する方法として、彼の作品の音読会を組織することであった。この集団的学習会は、私が京都を離れて東京に戻ってからもつづいているときいた。その成果を私が編集代表者になって、『河上肇「貧乏物語」の世界』と『河上肇「自叙伝」の世界』という二冊の文集にまとめることもできた(ともに法律文化社刊)。

 さて、中国の詩人杜甫が、「人生七十古来稀なり」と詠んだその「古稀」を、私はこの春迎える(「還暦」が満六十歳であるのに対して、「古稀」〔古希とも書く〕は数え年でいいそうだが、私は満七十歳を選ぶ)。日本人の平均寿命が延びたこんにち、人生七十は近来多し、といわれるほどありふれたことになってきたが、河上肇の四十年後輩にあたる私も、彼が日本社会で生きた年数を少し上まわる長さの人生を経験したことになる。その立場から、げんざいの私に河上肇の生涯がどのように見えるか、そのことについてまとめてみたいと思い立った。

 この思いつきの具体化を促してくれたのは、京都時代に友人になった若い版画家であった。一九八九年初夏に、作品の個展をひらくために上京した彼は、梅の若木の植木鉢をみやげに持参してくれた。近所の法然院に子どもさんと散歩に出かけたとき、「河上肇・夫人秀墓」と刻まれた墓石に寄り添って枝をのばしている白梅の老樹の実を拾ってきて、庭に埋めておいたら何年目かに芽が出てきたのだという話だった。その植木鉢の梅は、それから二度の冬をわが家の庭先で越して、目に見えて伸び、いま日ごとに緑を増しているが、そのありさまを、私は目をさますとまず雨戸を繰って毎朝眺めてきた。

 私は執筆の準備にかかった。そこへ、またたまたま、新日本出版社の編集部から、河上肇の評伝を新書判で書いてみないか、というすすめを受けた。これも予想していなかった提案で、新書判の量的制約にこだわってしばらく考えてみたうえで、私は執筆を約束したが、同時に出版の時期についての具体的提案もした。

 それから約一年のあいだ、最優先的に河上肇とつき合ってきた。なにしろ彼は、日本の経済学者のなかではナンバー・ワンという折紙のついている多量の著作を残している。そして、まるで呼吸をつづけているような調子で、日記と書簡と詩歌をたくさん書き残している。さらに、日本の自伝文学の代表作という定評を得ている『自叙伝』を詳密に書き上げている。私はその量と質とに改めて圧倒されながら、きわめて充実した日々を机の前で過した。彼は、「すべての学者は文学者なり。大なる学理は詩の如し」ということばを残しているが、その文章の的確な表現力と香気にはほとほと敬服した。

 結果として私は、彼の生活や意見に舌足らずの論評を加えることを極力控えて、その明快で率直な文章を抜き書きして綴り合わせる作業を試みたにすぎなかったかも知れない。しかし、これが「私の河上肇」です、といって読者に提供してみたい気もする。幸いにこの本に誘われて河上肇に深入りしたいという読者があらわれたら、全集もあるし、専門家の良書も数多くあるので便宜には事欠かない。

 私はこれまで、きわめて貧しい仕事しかしていないが、この本の作業ほど、読むことと書くことに心を奪われて楽しかったことは近来稀であった。もし読者がそれに共鳴してくださるならば最上の喜びであるが、むろん自信は持てないので、河上肇でさえこうだったのだという詩を、お守りに使わせてもらう。

 一言つけ加えるが、生前直接教えを受ける機会を得なかったとはいえ、私にとっては、河上肇先生とか河上さんとか呼びたいひとだ。しかしこの本では、すでに歴史上の人物として河上肇という呼び名で通させてもらった。

  老いて非才を歎く

われもまた
ありし形見ぞとほつ世に (後世に)
物のこさんとねがひしも
筆を執ること四十年
ただ文屑(ふみくず)のみぞうづたかき
墓に入る日も近かからむ
骨をさすりて非才を歎く(才能の乏しいことが残念だ)
     一九四一年八月六日

 一九九一年四月十五日
 古稀を記念して
    塩田庄兵衛

(塩田庄兵衛著「河上肇」新日本出版社 p5-10)

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◎「マルクスもエンゲルスもレーニンも、解放運動の実践のためには、その文筆的労作を犠牲にすることを、ただにいとわなかったのみでなく、むしろつねにこれを歓迎していたのだ。〔革命〕的理論なくして〔革命〕的行動はありえないが、しかし百の理論も一の実践に如(し)かずというのが、マルクス主義の原則だ」と。