学習通信041203
◎「貧乏なる語にはだいたい三種の意味がある」……。

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不平等広がる日本
 階級的支配関係と不可分な格差の拡大
  二宮厚美(神戸大学教授)

 いま日本では、不平等社会日本、格差・差別容認、機会不平等、中流崩壊等を論じる雑誌・書物が目立つようになってきました。社会の不平等や格差をとりあける論調が流行する背景には、現代日本社会で不平等が広がりつつあるという実態があります。

 たとえば、最近の『経済』 (一二月号)は、低所得層、失業者、子ども・老人・障害者等の「社会的弱者」の視点から、この広がりつつある不平等社会日本の実態と小泉政権による政策的推進の逆行性を浮き彫りにしています。

 焦点を明確に
 「何の平等か」

 これとはやや角度は異なるものの、不平等の広がりをとりあげた橘木俊詔編著『封印される不平等』(東洋経済新報社)も、さまざまな角度から現代日本の格差拡大問題を取り上げています。

 ただ、一口に格差・不平等の拡大といってもこの問題を考えていく際には、平等論に鮮明な切り口を開いてみせたA・セン(一九九八年度ノーベル経済学受賞者)が指摘したように、「何の平等か」という焦点を明確にすること、つまり何を基準にして平等・不平等を論じるのかを明らかにしておかなければなりません。たとえば、所得水準を基準にとって国民間の所得格差を問題にするのは、その一例です。

 いまこの所得格差をとりあげてみると、橘木俊詔著『日本の経済格差』岩波新書が実証したように、八〇年代以降、日本の平等神話は崩れはじめ、現在なお所得格差が広がりつつあることが明らかになっています。

 格差の拡大は
 所得以外にも

 最近の厚労省「二〇〇二年所得再分配調査報告書」によっても、世帯単位の所得格差を示すジニ係数(数字が高いほど所得格差が大きいことをあらわす)は、一九九〇年から二〇〇二年にかけて、当初所得ではO・4334から0・4983へ、再分配所得ではO・3643からO・3812へと、それぞれ悪化しています。

 現代日本における格差・不平等の拡大は、所得を基準にした格差のみならず、他の指標を基準にした不平等もあわせて、全般化しつつあるという点に特徴があります。たとえば、就学や就業・昇進等の機会を基準にとった場合にも、不平等の拡大、またその固定化を指摘することができます。

 佐藤俊樹著『不平等社会日本』(中公新書)や橋本健二著『階級社会日本』(青木書店)等は、職業や学歴等で示される社会的地位が、いねば世襲化される傾向にあることを実証し、階層格差が再生産されつつあることを問題にしました。また、莉谷剛彦著『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社)は、学歴格差も世代的に継承される傾向に向かっていることに警鐘を打ちました。

 弱肉強食型を
 政策的に推進

 問題は、現代日本でなぜ不平等が拡大しているのか、という点にあります。結論のみを指摘しておけば、それは現代日本の支配層が優勝劣敗・弱肉強食型の能力主義競争を野放しにするばかりか、政策的に推進してきたからです。

 特に、いわゆる社会的弱者の保護を極力廃止しようとする小泉政権の「護送船団方式の撤廃」策は、国民階層、地域、産業等の弱い部分を見捨て、放置する傾向を強めました。

 このことは、国民内部の不平等の拡大が、実は、現代日本の支配階級による国民の労働・生活に対する支配関係の強化・拡大と結びついて進行してきたものだ、ということを物語っています。

 つまり、現代の格差・不平等の問題は階級的な支配関係と不可分の関係で生まれているものです。したがって、不平等の是正のためには、格差関係だけではなく、支配関係にさかのぼってメスをふるう政策的対処と国民運動が求められると言わなければなりません。
(しんぶん赤旗 20041202)

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一の三

 西洋と日本とにては気候風土も同じからず、また西洋人と日本人とにては人種体質も異なる次第なれば、一概には定めがたけれども、前回に述べしようの方法にて、西洋にては男子の大人にて普通の労働に従事する者は、一口約三千五百カロリーの熱量を有する食物を摂取せば可なりということ、ほぼ学者間の定説である。よりてこれを大体の標準となし、女子ならばいかほど、子供ならばいかほどというように、性及び年齢に応じて、それぞれ必要な食物の分量を決めて行くのである。

 ちなみにいう、先の大統領タフト氏を総裁とせる米国生命延長協会の校定に成れる『いかに生活すべきか』を見るに、一日一人の所要熱量をば約二千五百カロリーとしてある。すなわちこれに比ぶれば、前に述べたるローンツリー氏らの標準ははなはだ過大に失せるがごとく見ゆるも、かかる差異は、食物と労働との関係を計算に入るると否とによりて生ずるのである。

現に『いかに生活すべきか』には「普通の座業者は一口約二千五百カロリーを要する、しかしからだが大きくなればなるほど、また肉体的労働に従事すればするほど、ますます多くの食物を要する」と断わってある。しかるに貧乏人は、いずれの国においても最も多くの肉体的労働に従事しつつあるものである。これ貧乏線測定の標準とすべき所要食料の分量が、普通人のために設けられたる標準とやや相違するところあるゆえんである。

 思うに所要熱量が労働の多少に大関係を有することは論をまたぬが、試みにその程度を示さんがために、私は左に一表を掲げる。これはフィンランドの大学教授べケル及びハマライネンの二氏が、個々の労働者につきその実際に消費するところの熱量を測定したものである。

──略──

 右の表によりて見る時は、われわれの所要熱量は労働中と休業中とによりて大差あり、また労働の種類によりて大差あることが、きわめて明瞭である。しかして私がここに特に読者の注意を請わんとするは、労働中と休業中とにおける所要熱量の差異であるが、右の表によれば、木挽(きびき)業者のごときは、その労働中の所要熱量は休業中のほとんど五倍ないし六倍に達するのである。

さればこれら労働者の摂取すべき熱量を定むるに当たりては、常にその労働時間の多少を考慮に入るるの必要あるものにて、現に前表における木挽のごとき、一日八時間の労働ならば、その消費総熱量は約五千カロリーなれども、もし労働時間を延長してかりに十二時間となさんか、約七千カロリーを要する計算となるのである。

 労働時間の長短が所要熱量の多少に影響することかくのごとし。しかしてこの点より言えば、日本の労働者は西洋の労働者に比して、からだこそ小さけれ、はるかに多くの労働時間に服しつつあるがゆえに、その所要食料は西洋人に比しはなはだしき差異はながるべきかと思う。

 さて話がつい横道にそれたが、すでに一人前の生活に必要な食物の分量が決まったならば、次にはそれだけの食物を得るのにいかほどの費用がいるかを見なければならぬ。詳しく言えば、所定の熱量を有する食物を得るのに、できうるだけじょうずに、すなわちなるべく安くてしかもなるべく滋養価の多いものを買うことにすれば、一定の物価の下で、およそいかほどの費用がかかるかを調べるのである。そうすれば、一人の人間の生活に必要な食料の最低費用が計算できるはずである。

 かくのごとくにして、食費のほか、さらに被服費、住居費、燃料費及びその他の雑費を算出し、それをもって一人前の生活必要費の最下限となし、これを根拠として貧乏線という一の線を描く。しかしてこの線こそ、実際の調査に当たり、私が先にいうところの第三の意味における貧富の標準となるもので、すなわちわれわれは、この一線によって世間の人々を二類に分かち、かくてこの線以下に下れる者、言い換うればこの生活必要費の最下限に達するまでの所得をさえ有しおらざる者は、これを目(もく)して貧乏人となし、これに反しこの線以上に位しそれ以上の所得を有しいる者は、これを貧乏人にあらざる者と見なすのである。(九月十四日)

一の四

 私はすでに貧乏線の何ものたるやを説明し、従うてまた第三の意味における貧乏人の何ものたるやも一応は説明したわけである。しかしまだその話を続けなければならぬというのは、貧乏線以上にある者とそれ以下にある者とのほかに、あたかもその線の真上に乗っている者があるからである。ここにあたかも貧乏線の真上に乗っている者というのは、その収入がまさに前回に述べたる生活必要費の最下限に相当しつつある者の謂(いい)である。

従うてこれらの輩は、その収入の全部をばあげて肉体の健康を維持するの用途にのみあつるならば、かろうじて営養不足に陥ることを免るれども、もしこれと異なり、少しにてもその収入をば肉体の健康を維持するの目的以外に費やすならば、それだけ食費その他の必要費に不足を生じ、その健康をそこのうことになるのである。言うまでもなく、肉体の健康を維持する費用のみがわれわれの生活に必要な費用の全部ではない。たとえば衣服にしても、職業の種類によっては、単に寒暑を防ぎ健康に害なきだけのもので満足しておるわけにはゆかぬ。

また子供がおれば学校にも出さなければならぬ。親の情としてただに子供の肉体を丈夫に育てるのみならず、その精神霊魂をも健全に育てる苦心をしなければならぬ。しかしまさに貧乏線上にある人々は、すべてかくのごとき用途にあつべき余裕をもたぬ者であるから、たといいかに有益または必要なる事がらなりとも、もし肉体の健康維持という目的以外に何らかの支出をするならば、これらの人々はそれだけ肉体の健康を犠牲にしなければならぬのである。煙草(たばこ)を用い酒を飲みなどすれば無論のこと、新聞紙を購読しても、郵便一つ出しても、そのたびごとに肉体の健康を犠牲にしなけれぱならぬのである。

 まさに貧乏線上に乗りおる人々の生活はかくのごときものである。それゆえわれわれは、ただに貧乏線以下にいる人々をもって貧乏人に編入するのみならず、あたかもその線の真上に乗りおる人々をもやはり貧乏人として計上するのである。ここにおいてか、いうところの貧乏人はおのずから分かれて二種類となる。すなわちかりに名づけて第一級の貧乏人というは、前回に述べたるごとく、貧乏線以下に落ちおる人々のことにして、また第二級の貧乏人というは、以上述べきたりしがごとく、まさに貧乏線の真上に乗っている人々のことである。しかしてこれら第一級及び第二級の貧乏人こそ、以下この物語の主題とするところの貧乏人である。

 これによって見れば、私がこの物語でいうところの貧乏人なる者の標準は、その程度が実にはなはだしく低いものなのである。私は、次回から西洋における貧乏人のきわめて多数に上りつつある事を述べようと思うが、私はあらかじめ読者に向かって、その時私の列挙するところの数字はいずれもほぼ以上の標準によるものなることを忘れられぬよう希望しておく。ことわざに、すべて物事を力強く他人の頭に打ち込むためにはこれを誇張するよりもむしろ控えめに言えということがあるが、私は何もそんな意味の政略からわざと話を控えめにするのではない。ただ叙述を正確にするために、従来人々の採用した標準をば、ただそのまま襲踏しようとするに過ぎぬ。

 さて私は以上をもって貧乏なる語に種々の意味あることを明らかにし、ようやくこの物語の序言を終うるを得た。今振り返ってこれを要約するならば、貧乏なる語にはだいたい三種の意味がある。すなわち第一の意味における貧乏なるものは、ただ金持ちに対していう貧乏であって、その要素は「経済上の不平等」である。第二の意味における貧乏なるものは、救恤(きゅうじゅつ)を受くという意味の貧乏であって、その要素は「経済上の依頼」にある。しかして最後に述べたる意味の貧乏なるものは、生活の必要物を享受しおらずという意味の貧乏であって、その要素は「経済上の不足」にある。

 すでに述べしごとく、この物語の主題とするところは、もっぱら第三の意味における貧乏であるけれども、なお時としては、おのずから第一ないし第二の意味の貧乏に言及することもありうる。しかしその時には必ず混雑を避くるために、私は常に相当の注意を施すことを忘れぬであろう。(九月十五日)
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p16-22)

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◎「現代の格差・不平等の問題は階級的な支配関係と不可分の関係で生まれているものです。したがって、不平等の是正のためには、格差関係だけではなく、支配関係にさかのぼってメスをふるう政策的対処と国民運動が求められると言わなければなりません。」