学習通信041206
◎結婚式を無事すました有里さんと広光くん……へ。

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終 章

 紅葉の盛りの北海道を、私は千歳空港から札幌市内へ向かっていた。外気からは想像のつかないほど、午後の日差しで暖まった車内で、私は厚着させすぎていた薫子(ゆきこ)の上着を覗かせていた。高速道路の両脇には、子供の頃に見た、英国の絵本のさし絵から抜け出たような見事な紅葉がせまっている。私はそれを薫子に見せながら、
 「きれいでしょう。冬になる前に、葉っぱがみんなこんなにきれいな色に変わるのよ」
 と教えていると、
 「今年はあんまりキレイじゃなかったすね。まだあったけえ日が多いから」
 とタクシーの運転手さんが言った。東京にいる私にとっては、こんなに素晴らしい紅葉だけれど、
「急に寒くなった日の紅葉が、いちばんキレイなんすよ」
 ということだった。
 薫子とは、八ヵ月になる私の子供だ。

 勇敢に私を救ってくれたベビーは意外にも女の子で、今年の二月十八日、あの時と同じNYHで元気に産声を上げた。

 Dr・パンターに、
 「See you next March(では来年の三月に)」
 という言葉に万感をこめて別れたのが去年の九月だったが、五ヵ月後、予定日よりも二週間早い二月十八日に、私はイエローキャブで彼と病院に向かった。ごく少量の破水だったが.せっかちな私は心が躍った。数ヵ月付き合ってきた大きなお腹と離ればなれになってしまうのもなんだかもの淋しい気もしたが、私は出産という、女にとってこの上ないイベントを、言葉では表現できないほど楽しみにしていたのだった。だから、七ヵ月だか八ヵ月だか、早産でも安全ゾーンに入ってからは、いつもひそかに、
 「もう、出てきてもいいのよ」
 とこっそりお腹に向かって話しかけては、なんでも杓子定規の彼のやり方に反してしまい、怒られていた。

 しかし、その声が聞こえたかのように、ベビーは二週間ほど早く、少しだけ壁をつついて私たちにその準備が整ったことを伝えてくれた。あとは、すべてがスムーズに運んでいった。いわゆる、お産≠ヘ四時間半で終了したが、私にとってはあらゆることがエキサイティングで劇的で、付き添った彼も、ドクターも、看護婦たちも、誰もが生き生きしていて魅力的に見えた。一つの生命の誕生に立ち会えたことは本当に素晴らしかった。その時は放心して、自分でわが子を抱いた瞬間も、霧につつまれたような記憶しか残っていないが、腕に残ったあのどこまでも柔らかく、はかない感触は、紛れもなく私の分身だった。

 その薫子と、私は今、こうしてここにいる。北海道に来たのは、私と彼がイタリーにいる間にオープンした「ユリエ・ニタニ」の札幌店を見にいくためであった。ビジネスの方は、私が日本にいようといまいと、懐妊していても出産していても、これも私の分身であるスタッフが、私のテイストを把握した上で、確実に展開してくれていた。私はブレーンに恵まれていた。でも、どんなに優秀なブレーンがいても、薫子にミルクはあげてくれない。仕事のかわりは務まっても、母親のかわりは誰もできないということが、この八ヵ月間で十分すぎるほど分かっていた。

 ──でも、仕事は私にとって欠くべからざる要素であることも知っていたので、その点て悩みながら日々を送っていた。だからこうして、時には本州より一足早い北海道の紅葉を、薫子に見せたりすることにもなる。もちろん、店に連れていくわけにはいかないので、市内のホテルには、ベビーシッターが私たちを待っている。私はそんな忙しさの中にいた。
(二谷友里恵著「愛される理由」朝日文庫 p218-221)

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母としての一年間
 『婦人公論』一九一七年五月号

 女性として最も本質的なものだと一般からもまた学者たちによってさえ言われている母としての生活にさまざまな杞憂や、おそろしさや、重過ぎる責任感や、何処とない迷惑さ、厭わしさや、それでいて不思議な希望、期待、今まで想像もつかなかった喜び、またそれがまだどうしても自分自身のこととは思われないような一種の驚異、思いがけなさ、こう言うような矛盾だらけな感情が一緒に入り混った複雑な心を抱いて、たじろぎながらしかし否応なしに突き入れられてからもう一年四ヵ月になります。

その間に私の子供は随分驚くべき成長を見せました。私が四谷の家を引き払って退院後のO氏〔奥村博史〕をみとるため産後の肥立ちを待ち兼ねて、この海辺へ移って来ましたのはちょうど昨年の冬紀元節の午後のことでしたが、その時背中で眠り通して来た泣くよりほかに術のなかった生後ニヵ月の嬰児は、今はもう父母を知り、父母を呼び父母を慕い、また大抵の要求は幼児特有の言葉を通じて不完全ながらも発表することが出来、行きたい処には自分自身の力で自由に行くことも出来るまでになりました。

 この子供の成長と共に、私の中の母の愛も次第に成長し変化し来ったことは疑いないことです。

──略──

 母の愛は私の心に、最初は無能無力な自身の力でどうすることも出来ない、その上私をほかにしてはこの世において誰れもほんとうには世話してくれるもののない可愛そうなもの、頼りないものに対するむしろ憐れみとでも言いたいような愛として、同時にそれに対する保護の感情ないしは責任感として現われて来ました。

そしてそれが犠牲的な、忘我的な、無条件にただもう可愛くてならないというような情愛となるまでには或る時が必要でした。即ちそれは少くとも子供がよく笑うようになってからのことで、更にそれ以上、母を認め、母を特に慕うようになってから、言わばふたりの間にいろいろなそうして特殊な感情の交流がはじまってからのことでなければなりませんでした。

或る学者は母の愛は保護の感情や頼りなきものに対する愛、即ち同情とは全然性質の異ったものとして区別されなければならないと言っています。あるいはそうなのかも知れません、厳密に分析して見れば。しかしここではそんな問題を論ずる必要はないでしょう。

──略──

 しかし時としてこう考える私もやはり他の一面においては母としての生活ばかりで到底満足していることは出来ないのでした。それは私たちの物質的生活の必要が私にそれを許さないばかりでなく、個人としての私自身の内部の要求もまた私にそれを許してはくれないのでした。私は前に私の中に新たに発現して来た母の愛が、私の中のエゴイズムを忽ち追いやったと言いました。しかしこれも決して絶対的の意味ではなかったことをここでお断りして置かねばなりません。

 実際母の仕事というものは、私がここで言うまでもなくお子さんをお育てになった事のある方はとうに御承知でしょうか、全く想像以上の細々しい注意と間断なき気配りとを必要とする、昼夜を通じて休みない無数の不規則な雑務の連続であります(子供が少し成長して独り遊びが出来るようになり、更に進んでは幼稚園または小学校に通うようになればよほど母の仕事の性質も違ってくるでしょうが)。

そしてこの仕事は私をどんな境地に陥れたでしょう。それはかつて経験したことのないほどの疲労と、頭の混乱と、睡眠不足からきたいやが上にも過敏になる神経の悩みと、絶えず追われているような落着のない気ぜわしさと、とりとめのない腹立しさと、淋しい焦燥とでありました。私はそこに充実した生甲斐ある自我の生活を、高められ、深められ、広められた自我の歓びを感ずることが出来ませんでした。私は自分の生命が、自分の存在が稀薄になったことを感ぜずにはいられませんでした。

そしてこういう精神的萎縮を意味するヒステリカルな状態を自分の上に見出したということは私にとってはかなり大きな悲しみでありました。殊にこの自分を愛人の上に投げ付けることをしない自分も子供の上にはどうかすると無慈悲に投げ付けるようなことのあった場合には、一層の悲しさと、恥かしさと罪のない子供を不愍に思う情とで私の眼は涙で一杯になったりしました。私は初めはこれを不馴れな体的労働のための肉体の過度な疲労からきているとばかり思っていました。

けれど事実はそれよりもむしろ私自身の中のエゴイズムの絶えざる反逆のため、詳しく言えば私の個性の要求が思うままに満されないため、即ち孤独の中に静思する時を奪われたこと、勉強や仕事の上に大きな制限が否応なしに置かれたことなどから来た不平、不満、焦慮のためだった事です。なお仕事の出来ないところから自然結果してくる貧乏、その貧乏の圧迫ということも確かに手伝っていたでしょう。そして私は或る瞬間には子供を呪いました。かと思うと次の瞬間には婦人の個性と才能とその経済的独立生活とを呪いました。

そして私に私自身の抑えがたい、強い欲望がなかったら、また私に生活の上の責任がかかっていなかったら、そして終日子供と一緒に遊び暮すことにすべての満足が得られたら、また境遇もそれを許したら、私はどんなにかのびやかな、平和な、楽しい日を送ることが出来るであろう、と同時にこれは子供にとってもどれほど幸福なことか知れないであろうなどと安易を求める疲れた心が弱々しい考をたどっていることなどもありました。

しかしこの私の個性のさまざまな要求も見えない自然の秘密が母である私の心に植えた子供に対する私の愛を私が抑制し、もしくは否定して子供を他人の手に渡すことが出来ないのと同じように否それ以上この母の愛は、子供を持たなかった頃、あれほど子供の出来ることを厭っていた私を今はこういう子供の幾人をもつことさえ辞さないほどに強められて来たと同じように、やはり何ものをもってしても抑圧し尽すことも、否定し終ることも出来ないものなのでした。

 この意味から母としてのここ一年あまりの私の生活はエゴイズム(個人主義)とアルトルイズム(他愛主義)の絶えざる争闘であったとも言われるでしょう。

 私がその初めにおいて私の恋愛を肯定したのは、私にとってはそれが自我の主張であり、発展であったことはいうまでもないことでした。しかるにこの自我の主張であり、発展であった恋愛は実は人生の他の一面である他愛的生活に通ずる一つの門戸であったのです。やがて私の前には愛人に対する自分によって、次に子供に対する自分によって他愛主義の天地が自然と開展して来ました。そして私は自分の生活の上にいろいろな矛盾を経験しなければなりませんでした。

しかし今私はこれをただ単に人生の矛盾だとばかり見てはおりません。この矛盾もやはり私をもっと広い、もっと大きい、もっと深い生活に導いてくれる一つの門戸なのだろうと思っています。そして人間生活の妙味というものは今私の生活の上ではともすれば相容れない要素であるかのように見える人生のこの二方面の真の調和統一に見出さねばならないのであろうと思っています。

 最後に母としての婦人の経済生活即ち母と職業問題というようなことについていろいろ感じさせられたことを簡単に附け加えてこの稿を結ぶ考えでしたけれど、少し長くなりそうですし、〆切も来てしまいましたから他の機会を待つことにいたしました。
 (〔大正〕六、四、五)
(「平塚らいてう評論集」岩波文庫 p94-105)

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◎「相容れない要素であるかのように見える人生のこの二方面の真の調和統一に見出さねばならない」と……奥村さんもその実践者として進むのだと思います。