学習通信041209
◎「連帯性を絶対化する軍隊」……。

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潮流

 一九四一年の十二月八日、関東他方は朝から晴天だったようです。日本軍の奇襲で、太平洋戦争はもう始まっていました▼画家の岡本太郎は、戦争突入を知ると、全身ふるえあがり、家の外にとびだしたそうです。「『ああ、もう日本はダメだ! オレも死ぬんだ』天に向かって叫んだ。光り輝く冬の空。残酷な青さ……」(毎日新聞社『昭和史』I)

▼当日の、初冬の青空の記憶を書きとめている人は、ほかにも少なくありません。ところで、あくる日から庶民は、どんな思いで空をみあげたのでしょう。というのも、新聞やラジオが天気予報を報じなくなったのです。軍が、作戦上の理由から報道を禁じました

▼台風は例外とされました。しかし、行政に暗号で伝えるぐらいで、ラジオ・新聞にはでません。天気ばかりではありませんでした。地震の報道も同様でした。戦争中にも、わが国はあいついで震災にあいました。四三年九月の鳥取地震や、四四年十二月の東南海地震、翌年一月の三河地震です

▼三つの地震だけで、死者・不明者四千六百十二人。なにも知らされないまま、津波に襲われた人もいました。被害の実態も伏せられました。阪神・淡路や新潟中越の大震災の報道に接すると、六十年前までの出来事がうそのようです

▼国の外でも内でも、人の命を鳥の羽毛より軽くみなした侵略戦争。「われらは、全世界の国民が……平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とうたう平和憲法のねうちを、あらためてかみしめます。
(しんぶん赤旗 041209)

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 いったいこれは、どういう訳なのであろうか。少年期から三十の年までの滞仏中、私はたしかに社会生活の現実から浮いていた。世界の隅々からパリに集った多くの芸術家は、所謂、モンバルナツス、モンマルトル人種として、特殊な芸術部落に屯(たむろ)している浮草の存在なのだが、私も、その一片だったのである。

かつては華やかな市民生活の上に、この浮草が美しい花を咲かせたエコール・ド・パリの如き時代もあった。だが、今次大戦前の逼迫した情勢の中で芸術もやはり社会生活と密接な連帯を持たずにはいられなくなった。しかし、浮草はあくまでも浮草で、一般市民の生活感情には同調できないし、また法規や市民のクセノフオビスム(排外思想)は異国人を遮断していたのである。──例えば、外国人は正規の職業につく権利を与えられない。また一部は、アンデジラーブル(国内に居て貰いたくない人)の極印を捺(お)される等々……。

 私はパリ生活十年余りにして、今さらのようにはっきりと、自分が単なるエトランジェであるにすぎないことを自覚した。すでに私の孤独感はたえられないものになった。孤独から脱(のが)れ、社会人として現実生活の上に己を見出すために、母国に帰らなければならないことをひたすらに痛感したのである。

 だが、日本に帰って来ると、意外な試錬が特っていた。五年間の軍隊生活である。連帯性を絶対化する軍隊に於て、私は全然それらしいものを発見することができなかった。

 復員して以来、私は激しく現実生活の上で仕事している。しかし、果してそれによって孤独感から救われたであろうか。

 連帯性を求めて帰国した私は、社会の現実にふれることによって、むしろ孤独者の純粋な苦悩が如何に稀な、尊いものであるかということを覚ったのである。私は先年「苦悩」と題して、いとけない幼児が太陽を花と見、それを求めて絶望するという一篇の詩を書いた。私はここに、真にその名に価する純粋な苦悩を見るのだが、それは前述した一匹の蟻が、己の死と共に宇宙をも消し去るという自己中心主義と同質の、徹底的な孤独である。それらの非社会性・非合理性にこそ、私は芸術の本質的な契機があると考える。

 だが、やはり芸術は単純にエゴサントリックな孤独に安住していたのでは成り立たない。私は近頃「対極主義」という新しい芸術の方法論を提起している。芸術家の純粋な孤独は、その反対極としての現実と対決するために、やはりそれを強力に把握しなければならない。三者を矛盾する両極として立てるのである。

(対極の定め方は、合理・非合理、古典主義・浪漫主義、動・静、吸引・反撥、愛・憎、遠心・求心等、芸術の技術に即してさまざまである。)この二つの極を、妥協させたり混合したりするのではない。矛盾を逆にひき裂くことによって相互を強調させ、その間に起る烈しい緊張感に芸術精神の場があるという考えである。

芸術家はこの対立の場で、烈しく一方の極に己を置くのであるが、その烈しさの故に、反対極からの制約は強大である。ただこれは太陽を求める幼児の無自覚な絶望ではなく、極めて意志的に、己の位置を決定するのだ。それによってのみ純粋は貫かれ、芸術は可能となる。この決意こそ、私の芸術の信条なのである。

 私は日本に帰って来て以来、極めて広範囲に人々とふれることに努力している。ジャーナリスト、小市民、プロレタリアート等々、さまざまの方面の人と交る。それを私は、作品活動同様に重要なことだと思っているからである。それなのに、一日中多勢の人とふれあって帰宅し、夜ひとりぼっちになると、結局、誰にも逢わなかったという空しい感じで、心身ともに虚脱してしまう。逢っているときには、それでも何となく感じられていた連帯感が、結局、夢想にすぎなかったのだと思えてしまうのである。

 私は淋しさのあまりに、そんなとき、家の猫をつかまえて来てひねくりあげる。猫は歯をむいて怒る、いじめれば鳴く。可哀そうに思い、謝罪の意を表し、食物をやると、はじめは疑い深いようすだが、やがて馴れ馴れしくすり寄ってくる。この猫に、私は少しも愛情を感じてはいない。醜い野良猫である。だが、夜もふけて、一室に彼と共に坐していると、私は激しく彼にヒューマンなつながりを感じてしまうのである。私の生活にふれる誰よりも彼は人間なのである。

いったい、人間が云々する生活とは何だろうか。おそらく人間自身、それを識ったためしはないのではないか。まして、生活の信条などという文句はナンセンスである。そんなものがあったとしたら、差し当り、猫にでも喰わしてしまえばよかろう。
(岡本太郎著「藝術と青春」知恵の森文庫 p100-103)

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◎「この猫に、私は少しも愛情を感じてはいない。醜い野良猫である。だが、夜もふけて、一室に彼と共に坐していると、私は激しく彼にヒューマンなつながりを感じてしまうのである。私の生活にふれる誰よりも彼は人間なのである」と。