学習通信041212
◎「貧乏な人たちは一生懸命働かないから貧乏なのか?」……。

■━━━━━

なぜ貧乏なのか

『100人村』はこの恐ろしいまでの不平等を白日の下にさらす。しかし、なぜそうなったのか、どのようにそれが維持されているのか、については何も語っていない。この部分は読者に考えるよう残された。
 しかし、これは全くもって最も重要な問題だ。
 貧乏な人たちは天然資源の乏しいところに住んでいるから貧乏なのか?
 ちがう。世界の極貧層のうちには世界で最も資源豊かなところに住んでいる人たちがいる。そこから途方もない富が豊かな国々へ引き出され、移される。そして、世界の富裕層のうちには比較的資源の少ないところに住み、貧しい国々から資源を輸入して富を維持している人たちがいる。
 貧乏な人たちは一生懸命働かないから貧乏なのか?

 ちがう。概して(仕事中毒の人を別として)、より豊かな人たちはあまり働かない。そして、スーパーリッチは全く働かない。もちろん、金持ち国でもよく働く人たちがたくさんいる。しかし、誰も、貧乏な国のコーヒーやバナナプランテーション、服やスポーツシューズをつくるスウェットショップ(訳者注:低賃金・劣悪な労働条件の工場。「苦汗労働工場」との訳語もある)に比べて、過酷な労働をしているわけではない。
(「世界がもし100人の村だったらA」マガジンハウス編 p106)

■━━━━━

二の二

 今日の英国にいかに多くの貧乏人がいるかという事は、私のすでに前回に述べたところである。今かくのごとき多数の貧乏人の生ずる根本原因はしばらくおき、かりにその表面の直接原因を調べてみるに、たとえば先に述べたヨーク市の研究によれば、第一級の貧乏人の原因別(百分比)は次のごとくである。(ローンツリー『貧乏』縮刷版、一五四ページ)

主たるかせぎ人は毎月規則正しく働いていながらただその賃銭が少ないため……51・9%
家族数の多いがため(四人以上の子供を有する者)……22・16%
主たるかせぎ人の死亡のため……15・63%
主たるかせぎ人の疾病又は老衰のため……5・11%
主たるかせぎ人の就業の不規則のため……2・83%
主たるかせぎ人の無職のため……2・31%

 ことわざにかせぐに追い付く貧乏なしというが、右の表によって見れば、毎日規則正しく働いていながらただ賃銭が少ないために貧乏線以下に落ちている者が、全体の半ば以上すなわち約五割二分に達しているのである。なお四人以上の子供を有する者は、家族数の多いがためにという原因の方に編入されているのだが、もしそれを合計するならば、第一級の貧乏人のうち約七割四分だけのものは、毎日規則正しくかせいでいながら、ただ賃銭が少ないかまたは家族数が多いがために貧乏線以上に浮かび得ぬのである。

そうして主たるかせぎ人の疾病または老衰のために、あるいはその無職のために、あるいは就業の不規則なるがために貧乏している者は、すべてそれらを合計するも全体の一割二分余に過ぎぬのである。

 さらにレディング、ウォリントン、ノルザンプトンの三都市について(スタンレイ市は鉱業地にして事情を異にするのみならず、調査材料少なきがゆえに除外す)、第一級の貧乏人の原因別(百分比)を見るに次のごとくである。(ボウレイ『生計と貧乏』四〇〇ページ)

──略──

 前に引きし『生財弁』という書をひもとけば、「世間を見るに、貧乏も富貴も多くはおのが求めてするところにて、貧乏がすきか富貴がすきかといえば、だれ一人私は貧乏がすきじゃというて出るものはあるまいけれど、かせぐ事をきらいただ銭がつかいたいは貧乏を好むなり」など説いてあるが、著者もし今日に生きて、ローンツリー氏やボウレイ氏の著作を見るに及びたらば、おそらくその言を改むるに躊躇せざるべしと思う。私は去るころ近県のある小学校に行った時、学校から児童に渡されたところの「一日一善」と題する日記帳をもらったが、帰ってからそれを調べてみると、その日記帳の日々の余白へ格言ようのものが印刷してある。その一に

身のほどをしりからげしてかせぎなば
貧乏神のつくひまもなし

という歌があった。また近ごろ『町人身体柱立』(今より約百五十年前明和七年の開版)という本を見ると、(『通俗経済文庫』第一巻に収む)、その中にも同じような意味の歌がある。すなわち

身をつとめ精出す人は福の神
いのらずとても守りたまわん

というのであるが、これらの教訓歌は昔の自足経済時代ならばともかく、少なくとも今日の西洋には通用せぬものである。世間にはいまだに一種の誤解があって「働かないと貧乏するぞという制度にしておかぬと、人間はなまけてしかたのない者である、それゆえ貧乏は人間をして働かしむるために必要だ」というような議論もあるが、少なくとも今日の西洋における貧乏なるものは、決してそういう性質のものではなく、いくら働いても、貧乏は免れぬぞという「絶望的の貧乏」なのである。

 尋常小学読本を見ると、巻の八の「働くことは人の本分」というところに「働くことがなければ食物も買われないし、着物もこしらえられない。人の幸福は皆自分の働きで産み出すほかはない。何もしないで遊んでいるのは楽のように見えるが、かえって苦しいものである」とあるが、日本の事はよるべき正確な調査がないからしばらくおくも、少なくとも今日の英国などでは、これは誤解または虚偽である。

今日の英国にては、前にも述べしごとく、毎日規則正しく働いていながらわずかに肉体の健康を維持するだけの衣食さえ得あたわぬ者がすこぶる多いと同時に、他方には全く遊んでいながら驚くべきぜいたくをしている者も決して少なくはない。何もしないで遊んでいるのこそ苦しいだろうが、いろいろな事をして遊んでいるのは、飢えながら毎日働いているよりもはるかに楽であろう。欧米の社会に不平の絶えざるも不思議ではない。
(九月十七日)

二の三

 貧乏人の多いのは英国ばかりではない、英米独仏その他の諸国、国により多少事情の相違ありとも、だいたいにおいていずれも貧乏人の多い国である。たとえばハンター氏が米国の状態につき推算せしところによれば、私のいう第二の意味の貧乏人、すなわち各種の慈善団体に属する貧乏人はその数四百万人にて、さらに第三の意味の貧乏人、すなわちこれら慈善団体の恩恵より独立して生活しつつある貧乏人はその数六百万人、これらを合計すれば米国における貧乏人の総数は実に一千万人に達しつつあるという。(ハンター氏『貧乏』一九一二年、第十四版、六〇ぺージ)。

思うにかくのごとき事実は列挙しきたらばおそらく際限はあるまい、しかし私は読者の脱怠を防ぐため、もはやこの上同じような統計的数字を列挙するを控えるであろう。──私はこの物語をすべての読者に見ていただきたいとは思わぬが、しかしもし一度読み始められたかたがあるならば、こいねがわくは筆者の窮極の主張の那辺(なへん)にあるかを誤解せられざらんがため、これを最後まで読み続けられんことを切望する。それゆえ私はできうる限り、読者を釣って逃がさぬくふうをしなければならぬ。

 ただここになお一言の説明を要するは、もし私の言うがごとく英米独仏の諸国にはたしてそうたくさんの貧乏人がおるならば、世間でこれらの諸国をさして世界の富国と称しておるのが怪しいではないかという疑問である。思うにこれらの諸国がたくさんの貧乏人を有するにかかわらず、なお世界の富国と称せられつつあるゆえんは、国民全体の人口に比すればきわめてわずかな人数ではあるが、そのきわめてわずかな人々の手に今日驚くべき巨万の富が集中されつつあるからである。貧乏人はいかに多くとも、それと同時に他方には世界にまれなる大金持ちがいて、国全体の富ははるかに他の諸国を凌駕するからである。

 試みに英、仏、独、米の四個国について富の分配のありさまを見るに、実に左表のごとくである。(昨年刊行キング氏著『米国人の富及び所得』九六ページ)。

 次の表は米国の統計学者キング氏がその近業に載すところである。私はめんどうを避くるがため、氏がいかなる材料をいかに利用することによってこの表を調製するに至ったかの説明を略する。いずれにしても決して正確なものではないが、しかしだいたいの趨勢はこれによってほぼ看取し得らるる。試みにその一斑を説明せんに、右の表のうち、最貧民とあるは、私が先に述べた第一の意味の貧乏人であって、すなわち富者に対する貧乏人という意味である。

この表では、全国民中比較的に最も貧乏なものから数えて、だんだんに上にのぼり、かくて全人口数の六割五分に達するまでの人員をばかりに最貧民としてこれを一まとめにし、さてその人数から言えば全人口の六割五分に相当するだけの者が現に所有しつつある富の分量は、はたして全国の富の何割を占めつつあるやを見たのである。

しかしてその結果は、表に示すがごとく国によって多少の相違はあるが、まずこれを英国について言えば、その六割五分だけの人間が寄り集まって持っている富の分量は、全国の富のわずかに一分七厘(百分の二弱)にしか当たらぬのである。比較的に下層階級の富有な米国でも、同じく全人口中六割五分だけの者が、全国の富のわずかに五分余りしか所有しておらぬのである。

 さて最も貧乏なものから数えてまず全人口数の六割五分を取ったのちは、さらにだんだんに上にのぼって、今度は全人口数の一割五分に相当するだけの人員を一まとめにしてこれを中等の下となし、その次の一割八分に相当する者はこれを中等の上となし、最後に残れるもの、すなわち全国民中最も富めるものにして、人数より言えば全人口数のわずかに二分(百分の二)に相当する部分のものを、同じく一まとめにしてこれを最富者となし、おのおのの所有に属せる富の割合を算出したのである。

 今中等の上を略し、最後の最富者の部分を一瞥するに、人数より言えば全人口のわずかに百分の二に相当するだけのものたるにかかわらず、その所有に属せる富は、英国にあっては全国の富の約七割二分、フランスにあってはその六割強、ドイツにあっては五割九分、米国にあっては五割七分に相当しているのである。

貧富懸隔のはなはだしきこと、かくのごとし。ひっきょう英米独仏の諸国が貧乏人の実におびただしきにかかわらず、世界の富国と称せられつつあるは、古今にまれなる驚くべき巨富を擁しつつある少数の大金持ちがいるためである。
 (九月十八日)
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p26-36)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「思うにこれらの諸国がたくさんの貧乏人を有するにかかわらず、なお世界の富国と称せられつつあるゆえんは、国民全体の人口に比すればきわめてわずかな人数ではあるが、そのきわめてわずかな人々の手に今日驚くべき巨万の富が集中されつつあるからである。貧乏人はいかに多くとも、それと同時に他方には世界にまれなる大金持ちがいて、国全体の富ははるかに他の諸国を凌駕するからである」と。