学習通信041215
◎「神秘な地下から歴史的必然性の内在的法則によって引っ張られているあやつり人形」……。

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 これに続くミハイローフスキイ氏の歴史的必然性についての考察は興味無いものではない。なぜなら、これは、「われわれの著名な社会学者」(これは、われわれの「文化的社会」の自由主義的代表者たちのあいだで、ミハイローフスキイ氏がヴエ・ヴエ氏とならんで頂戴している肩書きであるが)の思想の実際の中身を、部分的にしろわれわれに示してくれるからである。

彼は、「歴史的必然性の思想と個人的活動の意義とのあいだの衝突」について語っている。社会活動家たちは、彼らが「つくられたもの」で、「神秘な地下から歴史的必然性の内在的法則によって引っ張られているあやつり人形」であるにもかかわらず、自分を活動家とみなしているのは、思い違いである。

この歴史的必然性という思想からは、このような結論が出てくる。だからこそこの思想は「不毛」で、「散漫」なものと呼ばれるのである。ミハイローフスキイ氏がこのばか話──あやつり人形、等々──のいっさいをどこからもってきたか、おそらくどの読者にもわかるとは言えないであろう。問題は、これが、主観的哲学者のお気に入りの十八番の一つ──すなわち、決定論と道徳とのあいだの、また歴史的必然性と個人の意義とのあいだの、衝突という思想であることのうちにある。

彼は、この衝突を道徳と個人の役割とに有利なように解決しようとして、このことについて大量の紙に書き散らし、感傷的で小市民的なたわごとを際限もなくしゃべりたてたのだ。だが実際には、ここにはなんの衝突もない。この衝突は、彼がかくも愛する小市民的モラルの土台を決定論が取り上げてしまうのを恐れた(これには根拠がなくもないのだが)、ミハイローフスキイ氏が考え出したものである。

人間の行為の必然性を確定し、意志の自由に関するたわけたお話を拒否する決定論の思想は、理性をも、人間の良心をも、人間の行動の評価をも、少しも抹殺するものではない。まさにその反対である。決定論的見解のもとでのみ、厳密で正しい評価が可能であり、なんでもかんでも自由意志のせいにすることはなくなる。

同様に、歴史的必然性の思想も歴史における個人の役割を少しもそこなうことはない。全歴史は、疑いもなく行為者である諸個人の諸行動から成り立っている。個人の社会的活動を評価するさいに生ずる現実的問題は、どのような条件のもとでこの活動の成功が保障されるか、また、この活動が相対立する諸行為の大海のうちに沈んでしまう孤立的な行為にとどまらないための保障はどこにあるか、という点にある。

社会民主主義者やその他のロシアの社会主義者がさまざまに解決しようとしている問題も、まさにこの点にある。それは、社会主義体制の実現に向けられている活動が重大な成果をおさめるために、どのようにして大衆を引き入れるべきか、という問題である。明らかに、この問題の解決は、ロシアにおける社会諸勢力の配置や、ロシアの現実がそれによって成り立っている階級闘争などに関する考え方に、じかに、直接に依拠している。

そして、ミハイローフスキイ氏は、まわりを、それも問題のそばを歩き回るだけで、正確に問題を提起し、なんらかの解決を出そうと試みることさえやろうとしないのである。この問題の社会民主主義的解決は、周知のように、ロシアの経済諸制度はブルジョア社会を前提としており、それからの唯一の出口は、ブルジョア体制の本質そのものから出てくるものであり、まさにプロレタリアートのブルジョアジーにたいする階級闘争でありうるだけであるという見解に基礎を置いている。

まじめな批評なら、わが国の制度がブルジョア制度であるという見解か、そうでなければ、これら諸制度とそれらの発展諸法則との本質に関する見解のどちらかにたいして向けられるべきであろう。しかし、ミハイローフスキイ氏は、これらの重要な諸問題に触れようとは、思いもしない。彼は、必然性があまりにも一般的な括弧である等々という無内容な空文句でごまかす方をとるのである。

さよう、ミハイローフスキイ氏よ、もし貴下が、干しヴォーブラのように、まずはじめに内容物をほうり捨てて、そのあとで残った皮にとりかかろうとするならば、どんな思想でもあまりにも一般的な括弧になってしまうであろう! 現代の現実的に重要で、焦眉の諸問題をおおっている、皮のこの部分が、ミハイローフスキイ氏のお好みの分野なのである。そして、たとえば、彼はとくに誇らしげにこう強調している。「経済的唯物論は英雄と群衆の問題を無視するかまちがった解明をしている」。

ご覧のように、まさにどのような諸階級がたたかい、どのような土壌の上に現代ロシアが形づくられているかという問題は、ミハイローフスキイ氏にとっては、きっとあまりに一般的な問題なので、彼はそれを避けていくのである。そのかわり、英雄と群衆のあいだに──この群衆が、労働者であろうと、農民であろうと、工場主であろうと、地主であろうと、おかまいなく──どのような複数の関係が存在するかという問題──このような問題が彼にとってきわめて興味ある問題なのである。もしかしたら、これは「興味ある」問題かも知れない。

しかし、勤労者階級の解放に直接の関係をもっている諸問題の解決にあらゆる努力を傾けていることで、唯物論者を非難することは、俗物科学の愛好者たることを意味する以外のなにものでもない。その唯物論「批判」(この終わりに、ミハイローフスキイ氏は、もう一つ事実を不正確に呈示する試みともう一つのごまかしをやっている。『資本論』はおなじみの経済学者たちによって黙殺されていたという、エングルスの意見の正確さに疑念を表明して(そのさい論拠として引用されているのは、ドイツには多数の総合大学があるという奇妙な見解である!)、ミハイローフスキイ氏は言っている。

「マルクスはこの読者(労働者)層を全然考慮に入れていなくて、学者たちから多少の期待をしていた」。まったく間違っている。マルクスは、学問のブルジョア的代表者たちからは公平と科学的批判とをどれほどわずかしか期持できないかということをすばらしくよく理解しており、『資本論』〔第一巻〕第二版へのあとがきのなかで、このことについてまったく明確に言明している。彼はそこで次のように言っている。「『資本論』がドイツの労働者階級の広い層のなかで急速に理解されたことは、私の仕事にたいするこの上もない報酬である。

経済的諸問題ではブルジョア的見解に立っている人であるマイアー氏は、普仏戦争中に刊行された小冊子のなかで、ドイツ人の世襲財産とみなされていた理論的思考のすぐれた能力が、教養ある階級からはすっかり消え失せ、そのかわり彼ら労働者階級のなかに再びよみがえりつつあるというまったく正しい考えを述べた」。

 ごまかしというのはまたもや唯物論に関するもので、一番目の模型と同じように組み立てられている。「(唯物論の)理論は一度も基礎づけられ、検証されたことがなかった」。これがテーゼである。証明──「エンゲルス、カウツキー、その他若干の人々の著作の、歴史を内容とする個々のすぐれたページは(ブロスの尊敬すべき労作におけると同じように)経済的唯物論というレッテルなしでもすむであろう。なぜなら(「なぜなら」に注意!)、この和音においては経済の調べが優勢であるとはいえ、実際には(原文のまま!)それらのページにおいては社会生活の総体が考慮されているからである」。結論……「科学において、経済的唯物論は自己の正しさを証明しなかった」。

 おなじみの手だ! 理論に根拠のないことを証明するために、ミハイローフスキイ氏はまずはじめにその理論をゆがめ、社会生活の総体が考慮されていないというナンセンスな意図をこの理論になすりつけ──ところが、正反対で、唯物論者(マルクス主義者)は、社会生活の経済的側面だけでなく、そのあらゆる側面を分折しなければならないという問題を提起した最初の社会主義者なのだが──、ついで、「実際には」唯物論者が社会生活の総体を経済によって「立派に」したことを(これは、明らかに、この筆者を打ち破る事実である)確認する。そして、最後に、唯物論は「自己の正しさを証明しなかった」という結論を出すのである。しかし、そのかわりに、ミハイローフスキイ氏よ、貴下のごまかしは立派に自己の正しさを証明した!
(レーニン著「「人民の友」とはなにか」新日本出版社 p57-62)

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歴史の法則性と個人の主体性

 これまで、社会とその歴史について弁証法的な発展法則があることを学びました。いま、私たちは、二一世紀を目前にして、歴史的激動期をむかえています。無党派層を含む広大な国民が、アメリカや財界のいいなりになって悪政をつづける自民党政治にはっきりとノーの意思表示をしめしはじめたのです。多くの国民の意思が政治の転換を要求しているのです。

 そのいっぽうで、こうした大きな変化に確信がもてず、「社会とその歴史が法則的に発展するならば、そこに生きている私たち個人の存在意義はどこにあるのか」「歴史の発展が法則的なものならば、個人がジタバタしてもはじまらない。個人は歴史法則のあやつり人形にすぎないのか」「歴史が法則的に発展してよい社会になるのが必然ならば、個人は努力しないでも待っていればよいことになる」……といった意見があいかわらず根強くあります。

▼発展の法則性と繰り返しの法則性

 これらの意見は、「歴史の法則性という考え方は、個人の意思や意欲を無視し、人間の主体性を否定するものである」という意見にもつながります。しかし、それはまったくの誤解です。社会発展の法則性を認めることは、なんら人間の主体性を否定するものではありません。このような誤解は、「発展の法則性」ということを「繰り返しの法則性」と混同しているところに、まず第一の根拠があります。

 前にも触れたように、発展の法則性は社会現象・歴史現象に多くみられ、繰り返しの法則性は自然現象に多くみられますが、自然現象でも宇宙の進化や地層の形成、生物の進化などのように発展の法則性を含んでいます。しかし、古典力学的な自然現象には、主として繰り返しの法則性が貫いています。

 古典力学的な自然現象は、天体の運行に典型的にみられるように、文字どおり繰り返される運動なので、そのなかに法則性があることはだれにでもわかることです。この法則性にしたがって、たとえば日食や月食が何月何日の何時何分に起こるとか、ハレー彗星がつぎは何年後に地球に接近するとか、予測することができます。ところが歴史現象においては、そのようにまったく同じことが繰り返されることはなく、歴史上の出来事は一回限リであり、したがって未来の事件を何月何日と予言することはできません。

 この性格の違いを混同して、「自然現象は繰り返すから法則性があるが、歴史は一回限りだから法則性はない」という人がいます。学者でも、観念論の立場に立つ人はそのように考えています。

 しかし、繰り返しの法則性と発展の法則性は異なる性質をもっています。繰り返しの法則性は、原因と結果が一致する規則性をいうにすぎません。たとえば、物体は一の力で押されれば一の力で動きます。引力でも磁力でも、その力の大きさに応じて物体は動きます。したがって、原因がわかれば結果は予測できるというわけです。

 ところが、発展の法則性というのは、原因と結果のたんなる一致ではなく、非常に複雑な事柄であり、原因と結果は複雑にからみあい、相互に作用しあい、あるいは原因は小さいようでも大きな結果が発展として出てくるという関係です。たとえば、社会人口も少なく生産力も文化水準も低い段階から、時代とともに人口も生産力も増大し、文化水準も高まるというように発展します。

 歴史的に発展する事柄は、社会現象であれ自然現象であれ、このように複雑ですから、予測もつきにくいわけです。「歴史には法則性はない」という人が出てくるわけです。しかし、発展する事柄は、何月何日にどうなるという予測も計算もできないけれども、「遅かれ早かれ」かならず起こるという法則性があります。歴史の発展は、各民族によって早い遅いの違いはありますが、たとえば原始社会は「遅かれ早かれ」階級社会へと発展し、あるいは旧い封建社会は「遅かれ早かれ」近代市民社会にならざるをえません。そして現代の資本主義社会はまた「遅かれ早かれ」ゆきづまり、搾取も階級もない社会に発展せざるをえません。これが発展の法則性です。

 なぜそうなるのか、これを明らかにしたのがマルクスとエンゲルスでした。彼らは『ドイツ・イデオロギー』から『資本論』にいたる著作のなかで、歴史発展の法則性を明らかにしました。マルクスたちは、人間の生産労働のあり方が社会の発展段階に照応しており、生産力と生産関係の矛盾が階級闘争を引き起こし、この階級闘争が社会発展の原動力であることをみつけ出しました。この点は第六話で学んだとおりです。

 このように、社会とその歴史の発展は、何年何月何日になにが起こると正確な予測はできないほど複雑な性格のものですが、しかし、現実の矛盾が原動力となって「遅かれ早かれ」、しかも、必然的に変化・発展するという内的法則性が貫いていることは確実です。

▼歴史の法則性と個人の意思・意欲

 つぎに、歴史発展の法則性と個人の主体性との関係を考えてみましょう。
 「歴史発展の法則性は繰り返しの法則性とは異なるものだとしても、法則であるからには個人の主体性をしばることになるのではないか」との疑問をもつ人たちがいます。しかし、歴史発展の法則性は、けっして個人個人の主体性と相容れないものではなく、自分の意思で主体的に行動する多くの個人の行動をとおして、その法則性は働いているのです。古典力学的な自然法則は、個人の意思や意欲とは関係なく、すべての自然物に貫徹し作用します。

 ところが歴史法則(社会法則)は、幾百万、幾千万の人びとの意思や意欲の総和として発現しますから、つまり、一人ひとりの人びとの偶然的で個人的な多様な意思や意欲を包みこみ許容しながら、しかし、社会全体としてはちゃんと法則は貫徹しているというかたちではたらいています。逆にいうと、歴史や社会は個々人の意思や意欲や情熱なしには動かないのであり、ここに各個人が主体性を発揮する余地があります。

 いいかえれば、歴史や社会の法則性は個々人の意思や意欲と無関係にはたらくわけではなく、歴史のなかでの個々人の主体性や役割の発揮をとおして、あるいはすぐれた個人の創意性や奮闘努力をとおして現われ、実現するものだという点が重要だと思います。

 もちろん人間は、勝手気ままに社会とその歴史をつくりかえることはできません。あたえられた条件のなかで、それぞれの時期の客観的諸条件にしたがって提起された問題を解決しようとする個々人の努力によって、歴史はつくられていきます。このような意味で、個人の主体性と歴史の法則性は矛盾し衝突するのでなく、両立するものだといえましょう。
(鰺坂真著「哲学のすすめ」学習の友社 p77-81)

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◎「それは、社会主義体制の実現に向けられている活動が重大な成果をおさめるために、どのようにして大衆を引き入れるべきか、という問題である。」……。

◎「あたえられた条件のなかで、それぞれの時期の客観的諸条件にしたがって提起された問題を解決しようとする個々人の努力によって、歴史はつくられ」る。