学習通信041218
◎「茶碗から蓋を取るように」……

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唯物史観

若し如何なる小説家もマルクスの唯物史観に立脚した人生を写さなければならぬならば、同様に又如何なる詩人もコペルニクスの地動説に立脚した日月山川を歌わなければならぬ。が、「太陽は西に沈み」と言う代りに「地球は何度何分廻転し」と言うのは必しも常に優美ではあるまい。
(芥川龍之介著「侏儒の言葉・西方の人」新潮文庫 p74)

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 ミハイローフスキイ氏は続ける。「事物の歴史的歩みの本質は、概してとらええないものである。経済的唯物論の学説は、見たところ二つの基柱に、すなわち、生産と交換の諸形態の全規定的な意義の発見と、弁証法的過程の不可論駁性に依拠しているけれども、この学説をもってしても、歴史的歩みの本質はとらえられない」。

 このように、唯物論者は弁証法的過程の「不可論駁性」に依拠していると言うのだ! つまり、唯物論者は、その社会学理論をヘーゲルの三段階法の上に基礎づけていると言うのだ。われわれは、ヘーゲルの弁証法のことでマルクス主義を非難する型どおりの非難に直面しているのである。こういう非難は、すでにブルジョア的マルクス批判家によって、すっかり使い古されたように思われたのだが。

これらの諸氏は、学説にたいして本質に触れることはなにも反論できないので、マルクスの表現方法に飛びついて、この理論の起源を攻撃し、それによって理論の本質をそこなおうと考えたのである。ミハイローフスキイ氏も気がねすることなくこのような手法に訴えている。

彼にとって手がかりになったのは、デューリングに反対したエンゲルスの著作のうちの一章である。エンゲルスは、マルクスの弁証法を攻撃したデューリングに反論して、こう言っている。マルクスは、なんであろうとヘーゲルの三段階法によって「証明」しようとは、かつて考えたことはなかった。

マルクスは現実の過程を研究し、考究したにすぎないのであって、彼は、理論が現実に一致することをもって理論の唯一の基準とみなしたのである。

もし、そのさい、ときになんらかの社会現象の発展が、ヘーゲルの図式、すなわち、命題──否定──否定の否定という図式にあてはまるとしても、そこにはなんの驚くべきこともない。

なぜなら、自然においてはこれは概して珍しいことではないからである、と。そして、エンゲルスは自然史(穀粒の発展)および社会の分野──はじめに原始共産主義があり、次に私的所有、それから労働の資本主義的社会化があるというような実例を引きはじめるのである。

あるいは、はじめに素朴唯物論があり、次に観念論があり、そして最後に科学的唯物論がある、等々というような実例である。

エンゲルスの論証の重点が、唯物論者の課題が現実の歴史的過程を正確にそして正しく描き出すことであることは、誰にも明らかなことである。そして、弁証法に固執したり、三段階法を証明するような実例を選び出したりすることは、ヘーゲル主義の残存物にほかならず、その表現方法の残存物にはかならないことも誰にも明らかなことである。

そのヘーゲル主義から育ったのが科学的社会主義であることもよく知られている。実際、三段階法によってなにかを「証明する」ことは愚かしいことであると、またそんなことは誰も考えたことがなかったと断固として言明されている以上、「弁証法的」諸過程の実例などはどんな意味をもちうるであろうか? これが学説の起源を示していることであって、それ以上のなにものでもないことは明らかではないか。

ミハイローフスキイ氏自身このことを感じていて、理論の起源のせいで、理論を非難することはない、と言っている。エンゲルスの議論のなかに理論の起源以上のなにかを認めるためには、明らかに、ただ一つにしても歴史上の問題が、唯物論者によって、しかるべき事実を基礎にしてではなく、三段階法を仲介にして解決されていることを証明すべきであろう。

ミハイローフスキイ氏はそれを証明する試みをしていたであろうか? 少しもそのようなことはなかった。それどころか、「マルクスはそれほど空虚な弁証法的図式を事実的な内容によって満たしたので、茶碗から蓋を取るように、なにも変えずにこの内容からその図式を取り出すことができる」と、彼自身承認せざるをえなかったのである(ここでミハイローフスキイ氏がおこなっている例外──未来に関する──についてはわれわれはもっとあとで述べることにする)。

そうだとするならば、ミハイローフスキイ氏は、なんの目的であのように熱心に、このなにも変えない蓋にかかずらわっているのだろうか? なんのために彼は、唯物論者たちが、弁証法的過程の不可論駁性に「依拠している」と解釈しているのであろうか? この蓋とたたかいながら、なぜ彼は、実はまったくそうでないのに、科学的社会主義の「基柱」の一つとたたかっているなどと言明するのだろうか?

 もちろん私は、ミハイローフスキイ氏が三段階法の実例をどのように検討しているかをあとづけることはしないであろう。なぜなら、繰り返して言うが、このことは、科学的唯物論にも、ロシアのマルクス主義にもなんの関係もないからである。しかし、それにしても、弁証法にたいするマルクス主義者の態度をこのようにゆがめるどんな根拠がミハイローフスキイ氏にあったのかという問題には興味がある。
(レーニン著「人民の友とはなにか」新日本出版社 p65-68)

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◎「マルクスは現実の過程を研究し、考究したにすぎないのであって、彼は、理論が現実に一致することをもって理論の唯一の基準とみなしたのである。」