学習通信041219
◎「貧乏神退治の大戦争……」

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四の一

 さて以上述べたるところは、貧乏が児童の発育の上に及ぼす弊害の一斑である。しかるに、元来貧乏が人の肉体及び精神の上に大害を及ぼすという事は、必ずしも小学児童に限られているわけではない。それゆえ、同じ英国について言っても、貧乏を退治するがためには、前に述べたる食事公給条例の趣旨に類したるようの事をば、近ごろは各種の方面にわたり盛んに実行しつつある。私はこれを名づけて貧乏神退治の大戦争という。そうしてこの戦争は、今度の世界戦争以上の大戦争で、たとい今日の世界戦争は近くその終わりを告ぐるとするも、それに引き続き諸国において盛んに行なわるべき大戦争だと信じている。

 しからば前に述べた小学児童に対する食事公給のほかに、同じ英国においてはなお他にはたしていかなる政策を実行しつつありやというに、そは実に各種の方面にわたり、到底これをここに列挙することあたわざれども、ただその一例を示さんがために、前には児童のことにつき述べたれば、ここにはさらに老人のことについて二言を費やすであろう。

 貧乏なる老人の保護のためには、今日の英国には養老年金条例というものがある。これは一九〇八年五月二十八日に下院に提出され、大多数をもって通過し、上院においては種々の議論ありたれども、ついに同年七月三十日に無事通過し、かくて同年十月一目法律として発布さるるに至りしものである。

 私は今くわしくこの法律の規定を述ぶるいとまをもたぬが、またその必要もない。二言にして言えば七十歳以上の老人には国家に向かって一定の年金を請求するの権利ありと認めたること、これがこの法律の要領である。原案には六十五歳とありたれども、経費の都合にてしばらく七十歳と修正されたのである。

今この法律についてわれわれの特に注意すべき点は、年金を受くることをば権利として認めたことである。人は一定の年齢に達するまで社会のために働いたならば、──農夫が五穀を耕作するは自己の生活のためなれども、しかしそのおかげで一般消費者は日々の糧に不自由を感ぜざることを得る、拡夫の石炭を採掘するもまた自己の生活のためにほかならざれども、しかしそのおかげでわれわれは機械を動かし汽車を走らせなどすることを得る、この意味において、夏日は流汗し冬日は亀手(きしゅ)して勤苦労働に役しつつある多数の貧乏人は、皆社会のために働きつつある者である、──年を取って働けなくなった後は、社会から養ってもらう権利があるという思想、この思想をこの法律は是認したものなのである。

それゆえ、たとい年金を受くるも、法律はその者を目して卑しむべき人となさず、またなんらの公権を奪うことなし。これ従来の貧民救恤(きゅうじゅつ)と全くその精神を異にするところにして、かかる思想が法律の是認を経るに至りたる事は、けだし近代における権利思想の一転期を画すべきものである。年金を受くる資格ある者は、年収入三十一ポンド十シリング(約参百拾五円)に達せざる者にして、その受くるところの年金額は収入の多少によりて等差あれども、年収入二十一ポンド(約弐百拾円)に満たざる者は、すべて一週五シリング(一個月拾円余)の割合にてその年金を受く。これがこの法律の規定の大要である。(十月二日)

四の二

 私は英国近時における社会政策の一端を示さんがため、先に小学児童に対する食事公給条例のことを述べ、今また養老年金条例のことを述べおえた。私はなおこれ以上類似の政策を列記することを控えるが、言うまでもなくこの種の施設はいずれも少なからざる経費を必要としたもので、現に養老年金の一例に徴するも、一九〇七年の実数によれば、当時七十歳以上の老人は全国において百二十五万四千人あり、かりにすべてこれらの者に一週五シリングずつを支払うとせんか、その経費の総額は一個年実に壱億六千参百拾万円の巨額に達するの計算であった。

これ英国近時の財政が急に膨脹せざるを得ざるに至りしゆえんであって、現に一九〇八年度の予算編成に当たっては、主として海軍拡張及び養老年金法実施のため約壱億五千万円の歳入不足を見るに至ったものである。ここにおいてか時の大蔵大臣ロイド・ジョージはやむを得ず一大増税計画を起こし、土地増価税、所得税、自動車税、煙草税等の新設または増徴を企てたものである。ただその課税おのずから富者に重がりしがゆえに、当時の予算案は議会の内外において騒然たる物論を惹起し、ついにはローズベリー卿をして「宗教も、財産権も、また家族的生活も−万事がすべて終わりである」と絶叫せしむるに至ったものである。

 ロイド・ジョージ氏がかの有名なる歴史的の大演説を試みたのは、実にその時である。当時彼が前後四時半にわたる長い長い演説をまさに終わらんとするに臨み、最後に吐いた次の結語は、これまで私の述べきたった諸種の事情を背景として読む時は、多少当時の光景を活躍せしむるに足るのみならず、また時務を知るの俊傑がいかに貧乏を見つつあるやを知るの一助たるべしと思うがゆえに、──過月氏が軍需大臣より陸軍大臣に転任したるおり、すでに一たびこれを引用したるにかかわらず、──余は本紙の編集者及び読者諸君が、余をして重ねてここにこれを訳戴するの自由を有せしめられん事を懇望する。その語にいわく

 「さて私は、諸君が私に非常なる特典を与えられ、忍耐して私の言うところに耳傾けられたことを感謝する。実は私の仕事は非常に困難な仕事であった。それはどの大臣に振り当てられたにしても、誠に不愉快な仕事であったのである。しかしその中に一つだけ無上の満足を感ずることがある。それはこれらの新たなる課税はなんの目的のために設けられたかということを考えてみるとわかる、けだし新たに徴収さるべき金は、まず第一に、わが国の海岸を何人にも侵さしめざるようこれを保証することのために費やさるべきものである。

それと同時に、これらの金はまた、この国内における不当なる困窮をば、ただに救済するのみならず、さらにこれを予防せんがために徴収さるるものである。わが国を守るため必要な用意をばすべて怠りなくしておくということは、無論たいせつなことである。しかしながら、わが国をしていやが上にもよき国にして、すべての人に向かってまたすべての人によりて守護するだけの慎うちある国たらしむることは、確かにまた同じように緊要なことである。しかしてこのたびの費用はこれら二つの目的に使うためのもので、ただその事のためにのみこのたびの政府の計画は是認せらるるわけである。

人あるいは金を非難して、平和の時代にかくのごとき重税を課することを要求したる大蔵大臣はかつてその例が無いと言う。しかしながら、諸君(全院委員長エモフト氏の名を呼べるも、訳して諸君となしおく)、これは一の戦争予算である。貧乏というものに対して許しおくべからざる戦いを起こすに必要な資金を調達せんがための予算である。私はわれわれが生きているうちに、社会が一大進歩を遂げて、貧乏と不幸、及び必ずこれに伴うて生ずるところの人間の堕落ということが、かつて森にすんでいた狼のごとく、全くかの国の人民から追い去られてしまうというがごとき、よろこばしき時節を迎うるに至らんことを、望みかつ信ぜざらんとするもあたわざるものである。」

 語を寄す、わが国の政治家。欧州の天地、即今戦報のもたらす以外、別に這箇(しゃこ)の大戦争あるを看過されずんば、洪図(こうと)を固むるは諸卿(しょけい)の業(わざ)、この物語の著者のごときはすなわち筆硯(ひつけん)を焼き、退いて書ちに安んずるを得ん。(十月三日)
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p57-62)

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社会保障としての年金はいかに成立したか

 そこで社会保障の一般理論のあらましを、年金問題にからめてお話ししたいと思います。資本主義における社会保障の一般理論から言うと、私がとりわけ今日重要だと思う観点として三点あります。

(1)資本主義の生む生活問題から

 まず第一に、なぜ社会保障がつくられたのか、それは資本主義が生み出す生活問題への対応であるという観点です。それは資本主義である限り、社会保障が必然的に生まれる法則性をつかむことであり、逆にそこには資本主義のもつ限界もあります。労働者たちにとって、あるいは特定政党にとっての都合だけで制度がつくれるわけではありません。

 社会保障は、生活問題に対する国家の社会政策であり、一つの政策目的をもっています。それは他の政策とは違う社会保障固有の目的や本質がある。そうした社会保障のもつ必然性、目的、本質を客観的に明らかにすることが、社会科学としての社会保障論の役割だといえます。

 生活問題はいつの時代にもあるのですが、社会保障が対象とする生活問題は、資本主義がつくりだした生活問題です。その問題の中身は貧困と生活不安です。現在は貧困に陥っていないけれども、何らかの事態に直面し、貧困に陥るかもしれないという不安。年金でいえば、長寿化か進み定年年齢と寿命との期間が長くなると、定年後の生活費を退職一時金でカバーできない。そこから生活不安が生まれます。

 それらの生活問題は、資本主義それ自体がつくり出したものです。社会保障は資本主義が生み出す生活問題に対する国家政策であり、その今日的な形態であることを、まず強調したいと思います。

 ここで私は社会保障「制度」と言わずに、「国家政策」と言っています。「制度」は「国家政策」を具体化するための手段であり、制度自体は政策目的ではない。ですから「制度」のレベルだけから考察すれば、国家政策であることの意味、社会保障の歴史性が見えなくなってしまうのです。

社会保険から社会保障ヘ
 ──発展の三段階

 そして社会保障は生活問題への国家的政策の「今日的な形態」だと言いましたが、歴史的に三段階を経て確立します。

 第一段階は、産業革命から一九世紀後半までの時期で、ここでは生活問題に対して、労働者の自己責任、自助で対応することが強制されました。労働者個人の拠出による労働組合の共済活動が奨励され、国家政策の手段としては救貧制度しかなかったのです。

 ところが第二段階の一八七〇年代になりますと、資本主義は独占時代に入り、生活不安、生活問題が大きく噴出します。大不況、大量失業で、共済制度の掛金を払えない労働者が増え、対応不能に陥りました。そこで導入されたのが、社会保険という制度です。当時は「労働者保険」と呼ばれましたが、イギリスでは一九一一年に疾病保険、失業保険ができました。

 この社会保険の成立で強調しておきたい点は、その費用の半分を資本家が出したことです。それに反対する資本家はいなかったし、反対しても通りませんでした。労働者の自助だけでは限界があり、雇用者、使用者が賃金以外の追加的な社会的負担をして社会保険をつくらなければ、生活問題に対応して機能できなくなった。そこで国家が使用者側に対し産業負担を強制して、社会保険制度が生まれたわけです。

 今、日本の財界は企業の社会保障負担をないがしろにする主張を盛んに行っていますが、なぜ資本家が社会保険の費用の一部を負担せざるを得なかったかという歴史的経過に照らしてもまったくの暴論だと思います。

 そして社会保険ができたら当時の救貧制度の費用が軽減されるという理由で、若干、保険運営のための事務費を国庫から出した国もありましたが、多くの国では労働者を対象にした社会保険の基金に対して、国庫負担はほとんどありませんでした。

 当時、労働者側がこの社会保険に反対した点は、強制加入で国に管理されることに加え、受給の権利性を確保するために労働者にも保険料を義務づけたことです。この労働者側の反対は通りませんでしたが、そこから保険料を強制的に負担させるなら、拠出ができるだけの賃金を最低賃金制度で国として保障しなさい、という要求運動が起こってきます。

 そして第三段階ですが、世界大恐慌、第二次世界大戦を経て、戦後、生存権の保障による社会保障として、確立される時期です。二〇世紀になり、失業や低賃金などによる生活問題が資本主義の体制をゆるがすものに広がり、労働組合、労働者政党の運動が、反ファシズムの運動と結んで進みます。この流れが大戦終結後、自由と民主主義を守るための生存権保障として、生活保障への全面的介入を実現したのです。

社会保障の目的は生存権保障に

 以上の社会保障の歴史をふまえて大事なことは、同じ国家政策でも、一八世紀の共済制度や労働者保険の時代と今日では政策の目的が違うことです。戦前までの社会保険は、政策対象が労働者だけに限定されていただけではなく、その政策目的も、自助で足りない不足分を社会保険給付で補うという自助の補完策でしかありませんでした。ところが社会保障になりますと、目的は生存権保障です。

その生存権の中身は一定の最低生活の保障となります。また適用範囲も自営業者を合めた全国民を対象とした制度に拡大されました。そして最低生活をこえて、快適な生活を送るのであれば、その部分については個人の自己責任でカバーすることになる。社会保障の目的は、その最低限の生存権保障にあります。

 今度の厚生労働省の年金改革案では冒頭で、「公的年金は、高齢期の生活の基本的な部分を支えるものとして国民生活に不可欠の存在となっている」となっています。「高齢期の生活の基本的なもの」と言って、「最低生活を保障する」とはしていない。つまり生存権保障が明確にされていない。しかし日本の現実をみても、大多数の高齢世帯は公的年金がなかったら生活が成り立たない状態にあるのですから、この改革案の立場は現実を無視したものです。

 実際、社会保障あるいは年金制度が不要であると正面切って言える人はいないはずです。それがなかったら体制がもたない。働けなくなったら、みんな姥捨山に行って死んでしまえば別ですが、それはあり得ない話です。もし今度のような年金改革が進められれば、たとえ小泉政権に変わる自民党政権が出てきたとしても、相当の批判が起こって、それは国民の選挙動向に大きく現れざるを得ないと思います。

(2)自助の限界から出発した社会保障

 私が第二に指摘したいのは、生活の危機、生活問題を生み出したものは何なのか、それは自助の限界であるという観点です。資本主義社会、市民社会の生活原則は自己責任、自助なのです。しかしその自助だけでは生命の再生産ができない、という自助の限界から社会保障は出発しています。

 資本主義の下で、労働者が自助だけで生活ができるには、まず雇用が保障されること、それから賃金が保障されるという二つの前提条件があります。賃金は労働力の価格、つまり労働力の価値を貨幣であらわしたものです。その価値どおりに賃金が保障されるという条件の上で、自助が成り立つわけです。

 しかし資本主義の現実は、この条件を保障しませんでした。大不況による大量の失業者の発生は、社会保険の労働者の拠出を不可能にします。労働力の再生産をまかなうために、生活費の不足分をカバーする社会保障がなければ、労働者の生活苦、生活不安が大きく広がり、資本主義体制それ自体が維持できない。そこから社会保障がスタートしているわけです。

労働力の価値と少子化問題

 今、「労働力の価値」を保障するため、と言いましたが、この「労働力の価値」とは何か、を正確につかむ必要があります。これはマルクス経済学者のなかでも、必ずしも意見が一致していませんが、私の理論からしますと、労働者の現役時代だけでなく老後の生活、かつ生命の再生産のための家族の生活費用を含むのが労働力の価値だと考えます。

 資本主義が発展すると、資本蓄積がすすみ、生産力が高まる結果として財貨は増えていきます。すると当然のことながら生活水準が上がります。退職後の老後の寿命が伸び、教育費も高騰していきます。戦後、資本主義国では住宅費のためのローン、子ども向けの学費などの資金にかかる費用が大きな比重をもつようになりました。これら、一国の文化水準や生活水準を満たすのに必要な要素も、労働力の価値に含まれています。

 すると資本主義の発展とともに高まる労働力の価値の水準で、生命は再生産されなければなりません。もし生理的にギリギリの賃金であるならば、それは労働力の価値以下に切り下げられて支払われていることになります。その場合、資本家は本来受け取る剰余価値(労働者に対して労働力の価値どおりの支払いをしても、資本家の手元に残るはずの価値)を上まわるものを利潤として追加的に取得できます。社会保障は、本来、企業から労働者の生活費として支払われるべき、労働力の再生産費の一部を社会的に再分配させる装置だと言えます。

 年金問題で言えば、平均余命が短かった時代は退職一時金だけで、老後の費用を賄えました。ところが寿命が延び、それだけでは生活できなくなり、一九世紀末に公的年金制度が生まれ、戦後確立していきました。

 こうした労働力の価値の高まりを、労働者個人の自助だけで対応させようとすればどうなるか。私は、現代の端的な現れが少子化問題だと思います。夫婦二人で二人以上子どもを持たないと、長期歴史傾向としては人口は維持できません。五〇年ほど前には、夫婦に子ども二人以下ということは考えられなかった。現在は子どもを育てるにも教育費が比較にならないくらい高くなっている。それに見合う賃金でなければ、少子化につながらざるを得ません。少子化問題は、賃金水準だけが主要な理由ではないにしろ、やはり大きな要因として働いていることは間違いありません。

(3)自助の限界カバーする社会的扶養

 それから三番目に、この自助の限界をカバーするためには、「社会的扶養」の強化が必要になるという観点です。この「社会的扶養」というのは、自助、私的な扶養に対して、その限界をカバーするための使用者、企業と国家財政の社会保障への負担措置をさします。これは社会保険の時代から導入され、社会保障の成立以降、歴史的傾向として社会的扶養部分が増えていきます。

 それはILOの「社会保障の財源構成」の統計から、明らかになります(工藤『資本制社会保障の一般理論』一四八n)。社会保障の財源構成のうち「自助」は被保険者自身の拠出(自己負担などは含まない)を指します。「社会的扶養」は企業、使用者負担と国庫負担、および地方自治体などの負担の合計です。これをみれば社会保障の費用のうち欧州では七〇〜八〇%が社会的扶養で負担されています。日本だけは五五%(八九年)。日本は最低ですけれども、それでも半分以上です。時代とともに、社会的扶養の比率が高まることは避けられません。

 ところが最近の政府側での社会保障の議論では、あたかも自助だけで生活問題に対応できるかのような結論を出しています。国民は搾り出せばもっと出る、出し惜しみをしているのだ、というわけです。その論拠として、若者に比べて、高齢者の方が資産をもっていて金持ちであり、自助能力があると見ています。はっきりはそうは言いませんけれども、そういう結論です。

 そして自助でやっていけない者に対しても、拠出を課すというひどい対策をとっているのも日本の特異な状態です。生存権保障のためには、自助能力がない者に対し無拠出の公的扶助を用意しなければなりません。使用者に負担を求めることが困難な社会福祉や保健衛生の制度も必要になります。それは生活保護とか、失業対策という方向であり、これはイギリスのベヴァリッジ報告の中でも書かれています。ところが日本では国民年金保険料の徴収強化、国民健康保険の保険証取り上げなど、自助能力のない者からも搾り取っている。

 厚生労働省案では、基礎年金の空洞化の問題をあまり触れてないのです。ただ無拠出の者、免除者が多いのが問題で、徴収方法を変えればいいという論議です。

 あらためて私が指摘しておきたいのは、社会的扶養の第一義的な担い手は、企業、使用者であるということです。労働者の生活保障の財源は、雇っている雇用主に負担する責任がある。反対に、労働者以外の層への保障、たとえば生活保護費、社会福祉のための費用については、使用者からとるわけにはいきません。それは国家財政から国庫負担で財源をあてる必然性があります。しかし日本では、後の財源問題で触れますが、その国庫負担を、本来、企業が負担すべき財源、使用者負担の肩代わりに使っています。そのため本来、国庫から当てなければいけない社会福祉などへの財源が大きく圧迫されているのです。
(工藤恒夫・中央大学教授に聞く「資本主義と年金制度」月刊:経済 2004年3月号 p18-24)

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◎「なぜ社会保障がつくられたのか、それは資本主義が生み出す生活問題への対応である」と。

「社会保障は、本来、企業から労働者の生活費として支払われるべき、労働力の再生産費の一部を社会的に再分配させる装置」と。

「自助の限界をカバーするためには、「社会的扶養」の強化が必要になる」と。