学習通信041225
◎『各人は自分のために、神は万人のために』……。

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 ミハイローフスキイ氏が、自身この回答がどこにあるか知っていたばかりか、他の人々に教えていた時代があった。彼は、一八七七年にこう書いていた。──ジュコーフスキイ氏は、未来に関するマルクスの構成を推測とみなす十分な根拠があったが、彼は「マルクスが巨大な意義を与えている」労働の社会化の問題を回避する、「道徳的権利をもってはいなかった」、と。もちろんだ! ジュコーフスキイは、一八七七年に、問題を回避する道徳的権利をもってはいなかったが、ミハイローフスキイ氏は、一八九四年に、そのような道徳的権利をもっているのだ! もしかしたら、guod licet jovi, non licet bovi〔ジュピターには許されることでも、牛には許されない〕からかもしれない!

 ここで、私は、かつて『オチェーチェストヴェンヌィエ・ザピースキ〔祖国雑記〕』が、この社会化の解釈に関して表明した珍妙事について思い出さずにはおれない。同誌の一八八三年第七号に、ポストローンニイ某氏の「編集部宛ての手紙」が掲載された。この人は、ミハイローフスキイ氏とまったく同じく、マルクスの未来に関する「構成」を推測とみなしていた。この神士はこう論じている。「本質的には、労働の社会的形態は、資本主義の支配のもとでは、数百あるいは数千の労働者が一つの場所で、研磨したり、打ったり、回したり、積んだり、おろしたり、引っ張ったり、さらに多くのその他の作業をおこなったりしている。この制度の一般的性格は、『各人は自分のために、神は万人のために』という成句によって、すばらしくよく表現されている。その場合、労働の社会的形態はどこにあるのか?」

 この人間がどこに問題があるかを理解していたことは、即座にわかる! 「労働の社会的形態」が「一つの場所における労働」に「収束していく」と言っているのだ! そして、最良の、それもロシアの雑誌の一つでこのような途方もない考えを説いたあとで、『資本論』の理論的部分は科学によって一般に認められているということを、われわれに信じさせようとしているのである。左様、「一般に認められた科学」は、『資本論』にたいして多少ともまじめな反論をすることができないので、『資本論』の前に腰をかがめはじめたが、同時にもっとも初歩的な無知をさらけ出し、学校風経済学の古い月並みな言葉を繰り返し続けているのである。ミハイローフスキイ氏が、いつもの習慣でまったく回避してしまった問題の本質がどこにあるかを彼に示してやるために、もう少しこの問題にとどまらねばならない。

 資本主義的生産による労働の社会化は、まったく人々が一つの場所で働いている(それはただ過程の一小部分にすぎない)ことにあるのではなくて、資本の集積にともなって、社会的労働が専門化し、各産業部門における資本家の数が減少し、専門的な産業部門の数が増えることにある。すなわち、多くの細分化された生産過程が一つの社会的生産過程に合流していくことのなかにあるのである。

たとえば、もし手工業的機織りの時代に、小生産者が自分自身で糸を紡ぎ、それを織物に織っていたとするなら、われわれは、少数の産業部門しか持っていなかった(紡績と機織りは一緒になっていた)ことになる。もし、生産が資本主義によって社会化されると、専門の産業諸部門の数が増大し、綿紡績は個別におこなわれ、綿織りも個別におこなわれるし、まさにこの生産の専門化と集積は、新しい部門を生み出し、機械の生産とか、石炭の採掘などを生み出していく。

いまやいっそう専門化された産業の各部門で、資本家の数はいよいよ少なくなっていく。それは、生産者のあいだの社会的関係がいよいよますます強化されていき、生産者たちは一つの全体に統合されていくことを意味している。分散した小生産者たちは、各々一度にいくつかずつの作業をおこない、それゆえに彼らは互いに相対的に独立していた。

たとえば、もし一人の手工業者が自分で亜麻を栽培し、自分で紡ぎ、織っていたとすれば、彼は他の人々からはほとんど独立していたことになる。細分化された、小商品生産者のそのような制度においては(そしてただそこにおいてのみだが)、「各人は自分のために、神は万人のために」という成句が、つまり、市場変動の無政府状態が正当性をもつ。資本主義のおかげで達成された、労働の社会化においては、ことはまったく違ってくる。織物を生産している工場主は、綿紡績工場主に依存し、この後者は、綿花を栽培している資本家である大農園主や、機械製作工場や石炭鉱山の持ち主、などなどに依存している。

その結果、どの資本家もその他のいろいろな資本家たちなしにはやっていけないことになる。「各人は自分のために」という成句は、このような体制にはもはやまったくあてはまらないことは明白な事実である。ここではもう各人はすべての人のために働き、すべての人は各人のために働いている。(神には場所は残されていない。天上のファンタジーとしても、地上の「金の子牛」としても。)体制の性格は完全に変化する。

細分化された小企業の体制が存在していたときには、それらの企業のうちのどれかで、仕事が止まったとしても、それは、社会の成員の少数にしか影響を与えることはなく、全般的な干渉を引き起こすことはなく、それゆえ全般的な注意を引くこともなく、事件にたいする社会的な干渉の契機になることはなかった。

しかし、もし、そのような作業停止が、もはやきわめて専門化された産業部門に向けられ、それゆえほとんど社会全体を相手にして仕事をし、順番として全社会に依存しているような、大企業で起こったとしたなら(私は簡明にするために社会化がその頂点に達した場合を取り上げている)、そのときには、もはやことは社会の残りのすべての企業で停止してしまうのである。

なぜなら、それらの企業は、この企業からのみ必要な製品を受け取ることができ、そこの商品が自分のところのすべての商品を実現できるからである。このようにして、全生産は、一つの社会的生産過程に合流し、他方で、個々の生産は個別の資本家によっておこなわれ、彼の恣意に依存しており、社会的生産物は彼の私的所有にゆだねられていく。

生産形態が、収得形態と妥協しがたく矛盾してくるのは明らかなことではないだろうか? 収得形態は、生産形態に適応せざるをえず、やはり社会的、すなわち社会主義的にならざるをえないことは、明らかではないだろうか? だが機知に富んだ『オチェーチェストヴェンヌィエ・ザピースキ〔祖国雑記〕』の俗物はすべてを、一箇所における労働に帰しているのである。それこそまさに見当違いと言うものである!(私は、ただ物質的過程や生産諸関係の変化を述べたにすぎず、労働者の団結や結集そして組織化には触れなかった。なぜなら、それは派生的な第二義的な現象だからである)。
(レーニン著「人民の友とは」新日本出版社 p86-91)

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 ブルジョアジーは、すべての生産用具の急速な改善により、かぎりなく容易になった交通によって、すべての国民を、もっとも未開な国民をも、文明へとひっぱりこむ。彼らの商品の安い価格は、ブルジョアジーがそれをもってあらゆる中国の城壁を粉砕し、未開人のもっとも頑固な排外心をも降伏させる重砲である。

ブルジョアジーは、すべての国民に、滅亡したくなければブルジョアジーの生産様式を自分のものにするように強制する。ブルジョアジーは、すべての国民に、いわゆる文明を自国に取り入れるように、すなわちブルジョアになるように強制する。一言で言えば、ブルジョアジーは自分自身の姿に似せて世界をつくるのである。

 ブルジョアジーは、農村を都市の支配に従属させた。ブルジョアジーは巨大な諸都市をつくりだし、都市の人口の数を農村のそれに比べてはなはだしく増加させ、こうして人口のいちじるしい部分を農村生活の無知な状態から引きはなした。ブルジョアジーは、農村を都市に依存させたように、未開および半未開の国々を文明諸国に依存させ、農業諸国民をブルジョア諸国民に、東洋を西洋に依存させた。

 ブルジョアジーは、ますます、生産手段、所有および人口の分散をなくする。ブルジョアジーは、人口を密集させ、生産手段を集中し、そして所有を少数者の手に集積した。この必然的な結果は、政治的な集中であった。異なる利害、法律、政府、および関税をもち、ほとんどただ連合しただけの独立した諸地方が、一国民、一政府、一法律、一国民的階級利害、一関視線に結集された。

 ブルジョアジーは、百年たらずの階級支配のあいだに、すべての過去の諸世代を合わせたよりもいっそう大量かつ巨大な生産諸力をつくりだした。諸自然力の征服、機械設備、工業および農業への化学の応用、汽船航海、鉄道、電信、諸大陸全体の開拓、諸河川の運河化、地中からわき出たような全人口──このような生産諸カが社会的労働の胎内にまどろんでいたことを、これまでのどの世紀が予想したであろうか?
(マルクス著「共産党宣言」新日本出版社 p56-57)

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◎「ブルジョアジーは自分自身の姿に似せて世界をつくるのである。」と。

◎「生産形態が、収得形態と妥協しがたく矛盾してくるのは明らかなことではないだろうか? 収得形態は、生産形態に適応せざるをえず、やはり社会的、すなわち社会主義的にならざるをえないことは、明らかではないだろうか?」