学習通信041226
◎それでもなお喫煙=c…。

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喫煙で死亡 年483万人
 世界の死因12%占める 2000年

 喫煙が原因で二〇〇〇年の一年間に死亡したと考えられる三十歳以上の人は、全世界で四百八十三万人に達し、死因の一二%を占めるとの調査結果を、米ハーバード大のマジド・エザッチ博士らの研究グループが二十五日までにまとめた。

 先進国と発展途上国の死者はほぼ同数だが、途上国ではアジアや西太平洋地域に集中。死因となったのはいずれも心臓血管系の病気が一位、途上国では慢性閉そく性肺疾患(COPD)など呼吸器系疾患の割合が高い傾向が見られた。

 喫煙による死亡数は従来約五百万人とされてきたが、地域や死因別に詳細に推定したのは初めて。研究グループは「地域ごとの喫煙傾向の特徴も踏まえ、途上国などで対策を強化しなければ健康被害はさらに深刻にな
る」と警告している。

 研究グループは、世界保健機関(WHO)が分けている世界六地域を、先進国と発展途上国、子供の死亡率などで、さらに計十四ブロックに細分。喫煙と肺がんに関する研究データなどから、地域ごとに喫煙による死者数を推定した。

 合計四百八十三万人の死者のうち、女性は二割。途上国では死者の集中地域があり、インドなど七力国のブロックと、中国など二十二力国のブロックで、死者がそれぞれ約八十万人に達した。

 先進国での死因は心臓血管の病気が一番多く約百万人。次いで肺がん(約五十万人)、COPD(約三十万人)の順だった。一方、途上国のCOPDの比率は先進国の二倍以上で、他の呼吸器疾患も含め全体の四割を占めた。研究グループは、石炭や動植物出来の燃料で家の中の空気が汚れていると、たばこにより体ヘの影響がより強められる可能性を指摘している。
(日経新聞 夕刊 041225)

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感情と意志について

知・情・意の相互関係

 「知の人」「情の人」「意の人」などといういいかたがある。学者タイプは知の人で、芸術家タイプは情の人、政治家・実業家タイプは意の人だ、というぐあいにいわれる。

 もちろん、知・情・意のはたらきの、とくにどれか一つがきわだって人目にたつタイプということならば、それはあるだろう。しかし、なにか知と情と意とが相互にバラバラに存在しうるかのような、そんな気もちが背後にあるとすれば、それは断然、ただしくないと思う。

 たとえば、情操浅薄、意志薄弱な、そんな「知の人」―学者なんてありうるだろうか。たまにそんなのがありえたとしても、それをまともな学者といえるだろうか。

 「情の人」についても同様だ。知性貧困、意志薄弱な、そんな芸術家なんてありうるだろうか。すくなくとも、まともな芸術家として存在しうるだろうか。

 「意の人」についても同様だ。知性貧困、情操低劣な、そんな政治家なんて──これは政党によってはざらにいそうにも思えるが、そんなのはじつは「意の人」でさえなく、「政治屋」ではありえても「政治家」というには値しない存在であるだろう。

 ──こんな話をある学習会でした。そして、「感情は認識の無意識的な結論」であり「意志は認識の意識された結論」だという戸坂潤のことばをしめくくりとして紹介し、つぎのような説明をくわえた。

 たとえば、ハダシで廊下をあるいていて、グサリと足に古釘をふみぬく。「ア、痛!」と私はとびあがる。この「ア、痛!」は、知か情か意かといえば、まだそんなふうにわけることのできない、意識の原初形態であるだろうが、そこからしだいに知・情・意が分化して発展していく。まず、知(認識)が分化して発展する。「これは相当な古釘だ。ずいぶんさびてもいるらしい。もしかしたら破傷風菌がついているかも」

 そこまで知が発展してくると、おのずから(つまりその「無意識的な結論」として)「心配で心配でたまらなくなる」というぐあいに感情も深化する。すると、その「意識された結論」として、明確な意志が生じる──「なにがなんでも医者にみてもらわなくちゃ。すぐにもみてもらおう。断固みてもらうぞ」というような。

 こんなふうに知と情と意とは、たがいにきりはなしえないものであるはずだ。

認識と感情と行動とはつねに一体であるはずだ

 だから──とさらに私はつけくわえていった。いまこの時期に、地域で職場で学園でなにをする必要があるかということはわかるけれど、どうもその気になれず、足が重たい、というのは、じつはおかしいのではないか、と。

 たとえばここに一人の母親がいて、その目のまえで彼女の子どもが井戸に落ちそうになっているのを見た(認識した)としよう。そのとき、その母親の胸のなかになにがおきるか。「アラ、うちの子どもが井戸に落ちそうになってるわねえ」なんて、冷ややかな認識にとどまっているか。じょうだんではない。とたんに、「アアッ」と、ことばにもならず声にさえならない感情が脳天から足の爪先までかけぬけたと思うと、気がついたときにはもう井戸のそばにすっとんでいて、子どもを抱きかかえているだろう。認識と感情と行動とのあいだに紙一重のすきもないのだ。

 なぜそうなるのかといえば、それは、その母親の認識が、「自分のなによりたいせつな子どもが井戸に落ちそうになっている」という認識だからだ。つまり、自分の問題としての認識であるからだ。それがわが事としての認識である以上、自分の感情がわきおこるのはあたりまえだし、自分の足が動くのもあたりまえだろう。

 とすれば「わかってはいるけれど感情がともなわず、足が動かない」というのは、他人事みたいなわかりかたにとどまっているということではないのか。他人事みたいな認識にとどまっているとすれば、他人事みたいな感情しかおきないのも、それは当然だろう。そしてまた、義理やなにかで二歩三歩、足を動かしはするものの、その動かす足のなんとまあ、他人の足みたいに重たく感じられること、となってくるのも当然だろう。

 つまり、そこでは認識と感情と行動とがバラバラになっているのではなく、他人事みたいな認識と、他人事みたいな感情と、他人事みたいな行動とが、じつにみごとに統一されているわけだ。このように、認識と感情と行動とは、つねに統一されてのみ存在するものだ。

禁煙せざるの弁

 タバコの場合にもそうなんだろうなあ、と私はタバコに火をつけながらいった。タバコはからだによくないと一般的にわかっても、それだけで禁煙はできないだろう。なん度も禁煙を決意したが、やはりダメだった。これは私がとくべつに意志が弱いためではないだろう。

 意志は「とくに理性的≠ネいとなみ」であって、「だからまた意志の弱い人≠ニいわれるのは、意志的側面にのみ欠陥があるわけではない。百万べん意志することを意志≠オても、意志が強くなりはしない」と心理学の本(乾孝・高木正孝『心理学』青木書店)にもあるとおりだ。

 じつは、タバコの害がいわれだしてから、ピタリとタバコをやめた人が、私の直接・間接の知りあいに幾人かいる。気づいてみるとそれはほとんど理科畑の人だ。なぜだかわからなかったが、あるときその一人のことばを伝えきいて、なるほど、とわかった気がした。「タバコ吸いの肺を解剖してみると、じつに汚くすすけてて、とても見られたものじゃない」というのだ。

 なるほど、そうかもしれないなあ、と思う。それを目のあたりにすれば、おのずと嫌悪感がわくことだろう。「もうタバコは吸わぬぞ」というたしかな意志も、そうなればたしかに生じることだろう。

 が、私はタバコ吸いの肺をひらいて見たことがない。だから右の話もけっきょくは、一般論としてわかるだけ、つまり他人事みたいにわかるだけで、それ以上にはでない。だから私は、その後もこうやってタバコを吸いつづけている。たぶんこれからも吸いつづけるだろう。タバコ吸いの肺の解剖なんて、私には見る機会もつもりも、いまのところ、ないのだから。

 そう私は話を結んだ──タバコのけむりをはきだしながら。「これにて一件落着」のはずであった。

集中攻撃

 ところがそうはならなかった。A君がプカプカやりながら、いったものだ。

 「ぼくは水準が低いからね、だからこうやってタバコを吸っててもいいんだけど、先生が吸いつづけてるというのはおかしいね。なっとくできないね」

 「なにを!」と私はいった。「君については許せるが、ぼくについては許せないなんて、そんな差別が許せるか」

 そういったのだが、A君は依然として私を許そうとはしなかった。

 「自分の目で直接見なければほんとうにはわからないなんて、理論ってそんなに無力なものかしらね。先生がそんなこといっていいの? ぼくはいいんだよ。理論水準が低いからね。だけど先生は……」

 こういうからまれかたがいちばん始末に困るんだなあ、と思いながら、私は局面の転換をこころみた。

 「かんじんなことは、タバコ吸いの肺のなかを見るか見ないかではなくて、いずれにしてもいまのぼくが、タバコの害について心からなっとくしてはいないということ、だからこそタバコを吸いつづけてるのだということ。A君だってそうだろう」

 「ちがうね」とA君はいった。「タバコがよくないっていうことを、ぼくはじゅうぶんに認識しているんだ。だからこそやめよう≠ニなん度も決意するんじゃないか。先生だって、じつはそうだろう」

 そこへB子が、自分のようにタバコを吸わないものにとっては、夜汽車などのなかがどんなにつらいか、ということについてながながと発言した。これをわからないとはいわせないぞ、という調子だった。

 「そりゃ、他人にめいわくをかけるような吸いかたはいけないさ。それはやらないよ」といいながら、ああ、今日はまいったなあ、とゲンナリしていた。こんなめにあうんだったら、意地でタバコをやめることにするか、とも思い、いや意地でもやめるもんか、とも思った。

わが禁煙の記

 その私がフッツリとタバコをやめた。やめてからもうひと月をこえた。
 動機は単純だった。タバコは創造的思考に有害という説を読んだためだ。そのころ私は脳についての本をいろいろと読み、とくに大脳右半球と左半球との機能のちがいについて関心をもっていた。その私が関心をもっていたことについての最新の創造的な業績──さきにも引いた角田忠信氏の『日本人の脳』──のなかで、そういう意見にぶつかったのだった。

 いわゆる「りくつで考える」のはもっぱら左半球のはたらきで、「直観」は右半球のはたらき。左半球のはたらきは大事なはたらきだけれども、それだけでは創造的な思考にはならない。創造的思考のためには、左半球と右半球との協力・共同が必要だ。ところが、ニコチンのたすけをかりて左半球への集中をつづけていると、右半球へのスイッチのきりかえがききにくくなって、そのため創造的思考の可能性がとぼしくなる。──およそこういう趣旨だったが、私にはなるほどと思えるふしがあった。

 一〇〇パーセント信じこんだわけではない。が、たとえ一〇パーセントでも五パーセントでも、その可能性があるとわかれば、その認識はそれだけで私に禁煙を断行させるにじゅうぶんだった。思考が創造性を失って、紋切り型の教条主義におちいること、それは私にとって肺ガンにもなににもましてこわいことだったから。

 あまりにも突然にやめたせいか、しばらくは仕事がまったく手につかなかった。どうにも集中できないのだ。とくに文章が書けなかった。この「人生論ノート」をはじめ、かかえている原稿全部がストップし、渋滞、ノロノロ運転ということになって、あちこちにたいへんなめいわくをかけた。それは、かつてないほどの状態だった。

 私は思いあまって編集部にそのことをうちあけた。そしたら、禁煙と人間の意志について書け、といわれた。それで書いている。

 私の理解によれば、こうなるはずなのだ。これまでニコチンの力をかりていた集中を、自前でやれるようになるためには、どうしても一定の時間がかかる。それまでのしんぼうだと思う。

 とはいうものの、周囲がそれをどこまでしんぼうしてくれるかどうか。ついに限度をこえたら、そのときは──まあ、それは書くまい。いまはこの一文が関係各方面の目にとまることをひそかに願っている。

 それから、あのA君やB子、その他そこに同席していたみんなの目にとまることをも。──ねえ、みなさん、ぼくは、インチキをいったわけでは、やはりなかったんだよ!

「わが禁煙の記」その後

 右の文章を書いてから、半年たった。
 じつは、完全な禁煙を保てたのは三ヵ月で、その後、私はまたぞろ、ちょくちょくタバコに手をだすようになった。A君たちの学習会にでかけて、A君にタバコを一本せびるなどというぶざまなことさえやったのだ。

 こうしたぐらつきが生じた原因は、「タバコは創造的思考に有害」という説について、私が体験的にきわめて懐疑的になってきたことにあった。私に禁煙を断行させるもとになった認識が、そもそも五パーセントあるいは一〇パーセントの認識だったということに原因があった、といってもいい。そのていどの認識では、やはり三ヵ月の禁煙というていどの実践をしかもたらさないものらしい。

 が、そのかわり、「禁煙」およびその違反、ということのくりかえしのなかで、タバコがたしかに健康に有害だ、ということについての実感にうらづけられた認識が私には育ってきた。それだけではなく、駅や汽車のなかなどで人の吸うタバコの煙が流れてくると、それがたまらなくいやで、席をはずさずにはおれないという、まったく新しい体験をもしばしばもつようになった。自分がタバコに手をだすときにはそうでないのだから、おかしなものだが、いくらおかしくとも、事実だからしかたない。「嫌煙権」の意味が身にしみてわかるようになった。

 これだけの認識がくわわれば、それはもう、嫌煙の感情、禁煙の断固たる意志をおのずからともなわずにはいないだろう。こう書きながら、残っていた一本を吸ってみた。「へんにエガラッポくて口がよごれる感じだな」と思いながら、三口でもみ消し、口をゆすいだ。「これにて一件落着」のはずだ。

 ねえ、A君、およびその他のみなさん、ぼくは、インチキをいったわけでは、やはりなかったんだよ!
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p191-200)

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◎「これだけの認識がくわわれば、それはもう、嫌煙の感情、禁煙の断固たる意志をおのずからともなわずにはいない」はずなのだが……。