学習通信0050105
◎「社会の経済的基本要素の構造は、政治的霊界の嵐によって」……。

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世界システム再構築A 戦後60年
 米MIT名誉教授 P・サミュエルソン氏

──中国やインドが急成長しています。世界経済の枠組みが変わるのでしょうか。

 「世界経済を長期的な視点で見ると、(冷戦の終結により)市場機能を使わなければ国が巨大な人口をコントロールできないことが証明された。中国が普通の民主主義をはぐくむかどうか疑問が残るが、賢明なことに市場を使おうとしている。中国が急成長してもマルクスが復活するわけではない」

 「その意味では世界経済の転換というより、一九五〇年から九〇年にかけての日本のプロセスが至る所で繰り返されようとしていると考えた方がいい。日本は低賃金と教育水準の高さを武器に輸出を増やし、米国市場を席巻したが、同じことがもっと大きな規模で中国で起き、インドで始まった。欧州でも東欧に同じ動きがある」

 「米国は日本に追い上げられたが、(生活水準が)低下したわけではない。中国、インドの低賃金は米欧よりも日本にとって大きな脅威だろうが、日本の後退を意味するわけではない。世界経済は前進している」
 ──以下略──
(日経新聞 20050104)

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国際的に重要な意義をもつインド左翼戦線政権の事業

 同志のみなさん。私はいま、レーニンの言葉を引きましたが、今回のインド訪問の期間中、私の頭から離れないレーニンのもう一つの言葉がありました。

それは、レーニンが死の前年に発表した最後の論文の一節です。彼がそのなかで、まだ若い社会主義ロシアが帝国主義に包囲されている当時の世界情勢を分析しつつくりかえし語ったのは、当面の力関係がいかに困難にみえても、世界の前途を最終的にきめるうえでは、「東洋」の被抑圧民族が地球人口の多数をしめており、この多数者がもはや受け身の存在ではなく、世界史の自覚的な参加者になりはじめたという事実こそが重大だ、という問題でした。

そしてその被抑圧民族の有力な一翼をになうものとして、レーニンは、あなたがたのインドの名を幾度もあげました。

 それから六十五年。インドは、受け身の存在どころか、すでに政治的独立をかちとり、非同盟運動の提唱国のひとりとして世界政治のうえでも重要な役割を果たすようになりました。

そして、そのインドで、西ベンガル、ケララ、トリプラの三つの州に、人民を代表する左翼戦線政権が共産党(マルクス主義)を中心として成立し、中央政府の横暴きわまる弾圧にも屈しないで、その存続・再建をかちとっているのです。この三つの州の人口をあわせると、八千三百万にのぼるとききました。この人口は八億のインド全人口からすれば、まだ少数ですが、百六十をこえる世界の国のなかで八千万以上の人口をもつ国は、社会主義国、資本主義国をあわせてわずか十ヵ国しか存在していません。そのことを考えれば、インドの左翼政権がこれだけの規模で存在することの意義は、いっそうあきらかだと思います。

 もちろん、インド人民とインド共産党(マルクス主義)の闘争の前途が、今後いっそう複雑で多難であろうことは、訪問者である私がいうまでもなく明白なことです。しかし、あなたがたが西ベンガルでうちたてまもりぬいてきた左翼戦線政権は、ケララやトリプラのそれとともに、壮大な未来をもっています。

それらは、インド人民の民主的な砦であり、インドの前途をしめす人民的な灯台であるだけでなく、インドが世界政治にしめる位置からいって、国際的にも重要な意義をもつ事業です。私は、このことを最後に強調し、みなさんの事業の成功的な前進を願って、インド共産党(マルクス主義)の同志のみなさん、とくに西ベンガルの同志のみなさんへの連帯のあいさつを結びたいと思います。(「赤旗」1988.1.25-26)
(不破哲三著「インドとデンマーク」新日本出版社 p70-71)

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 さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用的労働の総体──社会的分業──が現われている。社会的分業は商品生産の実存条件である。

もっとも、逆に、商品生産は社会的分業の実存条件ではない。

古インド的共同体では、労働は社会的に分割されているが、生産物は商品になっていない。

あるいは、もっと手近な例をあげれば、どの工場でも労働は体系的に分割されているが、この分割は、労働者たちが彼らの個別的生産物を交換することによって媒介されているのではない。

自立的な、互いに独立の、私的労働の生産物だけが、互いに商品として相対するのである。
(マルクス著「資本論」新日本新書@ p72)

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 直接的な生産物交換は、一面では簡単な価値表現の形態をもっているが、他面ではまだそれをもっていない。

あの形態は、X量の商品A=y量の商品Bであった。直接的な生産物交換の形態は、X量の使用価値A=y量の使用対象Bである。AとBという物は、ここでは、交換のまえには商品ではなく、交換を通してはじめて商品となる。

ある使用対象が可能性から見て交換価値である最初の様式は、非使用価値としての、その所有者の直接的欲求を超える分量の使用価値としての、その定在である。

物はそれ自体としては人間にとって外的なものであり、それゆえ譲渡されうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人々は、ただ、黙って、その譲渡されうる物の私的所有者として、またまさにそうすることによって相互に独立の人格として、相対しさえすればよい。

しかし、互いに他人であるこのような関係は、自然発生的な共同体の成員にとっては──その共同体が、家父長制的家族の形態をとっていようと、古インド的共同体の形態をとっていようと、インカ国家などの形態をとっていようと──実存しない。

商品交換は、共同体の終わるところで、諸共同体が他の諸共同体または他の諸共同体の諸成員と接触する点で、始まる。しかし、諸物がひとたび対外的共同生活で商品になれば、それらのものは反作用的に、内部的共同生活においても商品になる。諸物の量的交換比率は、さしあたりはまったく偶然的である。

それらの物が交換されうるものであるのは、それらを互いに譲渡し合おうとする所有者たちの意志行為によってである。しかし、そのうちに、他人の使用対象にたいする欲求がしだいに固まってくる。交換の不断の反復は、交換を一つの規則的な社会的過程にする。

それゆえ、時の経過とともに、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。この瞬間から、一面では、直接的必要のための諸物の有用性と交換のための諸物の有用性とのあいだの分離が確定する。諸物の使用価値は、諸物の交換価値から分離する。他面では、それらの物が交換され合う量的比率は、それらの物の生産そのものに依存するようになる。慣習はそれらの物を価値の大きさとして固定させる。
(マルクス著「資本論@」新日本新書 P149-150)

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 たとえば、部分的にはいまなお存続しているあの太古的な小さいインド的共同体は、土地の共同所有と、農業と手工業との直接的結合と固定的分業を基礎としており、この固定的分業は、新たな共同体がつくられるさいに与えられた計画や見取図として役立つ。

この共同体は、自給自足的な総生産体をなしており、その生産領域は、一〇〇エーカーから二、三〇〇〇エ−カーにいたるまでさまざまである。生産物の大部分は、共同体の直接の自家需要のために生産され、商品として生産されるのではなく、それゆえ生産そのものは、商品交換によって謀介されるインド社会の分業全体から独立している。

生産物の余剰だけが商品に転化されるのであり、この余剰の一部もまた、大昔から一定分量が現物地代として流入する国家の手によって、はじめて商品に転化する。インドでは、地方が異なれば共同体の形態が異なる。

もっとも単純な形態では、共同体が土地を共同で耕作し、その生産物を成員のあいだに分配するが、他方、各家族は、家内的副業として糸を紡ぎ、布を織るなどの仕事をしている。

これらの同じような仕事をしている民衆のほかに、一人で裁判官と警察官と徴税官とをかねる「首長」、農耕にかんする計算を行ない、その関連事項いっさいを記帳し登録する記帳係、犯罪者を訴追したり、外来の旅行者を保護して一つの村から他の村に案内したりする第三の役人、共同体の境界を隣接の諸共同体から警護する境界監視人、共同貯木池から農耕用に水を分配する水番、宗教的儀式の職分をつかさどるバラモン、共同体の子供たちに砂で読み書きを教える教師、占星者として播種・(はしゅ)・収穫の時期およびあらゆる特殊農耕労働を行なう日時のよしあしを指図する暦バラモン、すべての農具をつくったり修繕したりする鍛冶屋と大工、村のためにすべての容器をつくる陶工、理髪師、衣類を洗うための洗濯師、銀細工師がおり、ところによっては詩人がいて、ある共同体では銀細工師の代わりをし、他の共同体では教師の代わりをする。

これら一ダースほどの人々は、共同体全体の費用で養われる。

人口が増加すると、新しい共同体がもとからの共同体を見本として未耕地に定住させられる。この共同体の機構は計画的分業を示してはいるが、そのマニュファクチュア的分業は不可能である。

というのは、鍛冶屋や大工などの市場は不変のままであって、せいぜい、村の大きさの相違に応じて、鍛冶屋や陶工が一人でなく二人か三人いるといったぐらいのものだからである。

共同体の分業を規制する法則は、ここでは、自然法則の犯すべからざる権威をもって作用するのであるが、他方、鍛冶屋などのような特殊な手工業者はいずれも、伝統的な仕方に従いながらも、自立的に、自分の作業場ではなんらの権威をも認めないで、自分の専門に属するすべての作業を行なう。

これらの自給自足的共同体は、絶えず同じ形態で再生産され、偶然に崩壊することがあっても同じ場所に同じ名称で再建されるのであるが、この自給自足的な共同体の単純な生産有機体は、アジア諸国家の絶え間のない崩壊と再建ならびに絶え間のない王朝交替といちじるしい対照をなしているアジア諸社会の不変性の秘密をとく鍵を提供する。

社会の経済的基本要素の構造は、政治的霊界の嵐によって影響されないのである。
(マルクス著「資本論B」新日本新書p621-623)

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◎「時の経過とともに、労働生産物の少なくとも一部分は、意図的に交換めあてに生産されざるをえなくなる。」

◎「アジア諸社会の不変性の秘密をとく鍵を提供する。」……と。