学習通信050106
◎「科学が飛躍的に進歩するチャンス」……。

■━━━━━

不可知なる存在否定 人間のごう慢だ
 妖怪描き続ける 水木しげるさん

 闇夜に漂う怪しげな気配、ただならぬ妖気……、見えない世界を想像し、妖怪たちに命を与え、「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」などの傑作漫画が生まれた。水木しげるさんは、「科学で何でも分かると思っている。でも、不可知なる存在を否定するのは人間のごう慢ではないでしょうか」と話す。

 水木さんが魔界≠ノ目覚めたのは四、五歳のころ。近所に往むおばあさん「のんのんぱあ」が、妖怪や幽霊が登場する不思議な話を聞かせてくれた。幼い水木さんは胸を高鳴らせて真っ暗な闇を見詰めていたという。「妖怪は闇にいる存在です。昔のようなランプやあんどんなどの適度な明るさがあると、気配を見せる」

 戦争も体験。激戦地ラバウルで爆撃に遭って片腕を失い、九死に一生を得て復員した。戦後、紙芝居作家、貸本漫画家を経て、「テレビくん」で人気作家に。鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ男、ぬりかべなど今ではおなじみの妖怪が続々と登場していく。

 妖径は水木さんにとって、自然のあらゆるものに宿るアニミズム的な存在だと語る。

 「姿、形がないから、『無』として片付けてしまう。それは科学万能の考え方です。科学で説明できるのは九割程度。残リの一割は不可解で奇妙な領域で、そこに妖怪がいる。そうした説明不可能な現象があるからこそ、神という存在が認められているわけです」。水木流の文明批判とも受け取れる。

 一九七〇年代から世界妖怪冒険旅行を始めた。アジア、アフリカ、メキシコ、欧州など数十カ国に上る。「どこにでも電気が通り、夜がこうこうと明るくなっては妖怪の出番はありません。ところが、ニューギニアでたき火の生活をすると、妖怪の存在を感じる。でも全体像を現さない。水木さんでも半分しか分からないから、苦もんしながら描くんです」。

 絵にした妖怪は千に近い。江戸時代には妖怪を描いた鳥出石嚥(せきえん)らがいたが、水木さんもその系譜につながる現代の妖怪絵師だ。「江戸時代の人たちは妖怪を見たり、触ったりしたかったです。今は日本だけでなく、世界中で妖怪が粗末に扱われている。やがて絶滅してしまうかもしれない。世界の妖怪を残すのは今しかおりません」

 画業は五十年を超えた。その足跡をたどる「水木しげる展」が江戸東京博物館で開催されている。今でも妖怪漫画に余年がない。「頭を妖怪に占領されてしまったようで。八十歳を過ぎても、なかなか楽になりません」。
(京都新聞 050105)

■━━━━━

 本書では、これらの不思議な現象について科学の立場から考えてみることにします。しかし、その前に、「科学」について私がどう考えているかをまとめておきたいと思います。どうしてそうするかというと、実は、私は「科学で何でも解決することができる」と考える「科学万能論者」だと思われている心配があるからです。本当は、私は「科学で何でも解決できる」などとはこれっぽっちも考えていないのですが、世間はそう誤解しているらしいのです。

 ある時、神戸で私の講演会がありましたが、参加したある弁護士さんがこう言いました。

 「女房に『一緒に安斎先生の講演を聴きにいかないか』って言ったら、超能力を科学的に解明する先生だと聞いたとたんに、『私の一番嫌いなタイプ』って言って同行を拒否されました」というわけです。どうも私は、「科学で何でも解決できると過信して、科学万能論をふりまわすガリガリ亡者」ぐらいに思われているらしいのです。
──p2 前書きから──

 日本には、古い言い伝えで、「イワシの頭も信心から」という言葉があります。「これをやれば効果抜群なのだ」と強く信じれば信じるほど、霊験あらたかな御利益があるというわけです。

だから、「手かざしヒーリング・パワー」なる得体の知れないパフォーマンスで五十肩が軽快するといったことはあり得ることであり、そんな程度のことなら放っておいても実害がないと思われますが、客観的な根拠も示さずに「心臓破裂もヒーリング・パワーで治る」などと言われれば、科学者としては捨て置けない問題になるでしょう。放っておけば、人々のあいだに「現代医学は頼るに足らず」という気分をいくぶんか蔓延させ、得体の知れない「手かざしヒーリング・パワー」や「心霊手術」に心傾ける人々を増やすかもしれません。

だから、科学者は真実を調べようと努めます。もしも本当にそのようなことが起こったのなら、それが起こった仕組みを明らかにすれば、いつでもそれと同じ条件を保証してめざましい治療効果を期待できるわけですから、それは革命的な治療方法の発見になるわけです。

 科学にできることは真実にとことん迫ることですが、「真実に迫ること」=「価値あること」と考えるかどうかは別の問題です。それは、科学それ自体からは出てこないのであって、人々の価値観の選択の問題です。そして、また、科学的に真実でないと考えられるものを信じることも人の自由ですから、そこまで科学が踏み入ることはできません。

 本書の精神は、「超能力」や「心霊現象」がらみの不思議現象に科学の目を向け、合理的精神にもとづいて真相の解明に努めることですが、読者の皆さんが、「そんな阿呆なことせんといて」と考えたとしても、それは自由です。本書のメッセージは「科学で扱うことができる命題(科学的命題)については科学的精神を貫くがいい」ということです。

なぜ、そのようなメッセージを送るかと言えば、科学的精神を欠いてオカルトにのめり込む子どもたちや大人たちの姿を見るにつけ、たいへん危険なものを感じるからです。そのことは、以下の事例研究でもいろいろな形で明らかにされるでしょう。

科学と未知現象

 岩波書店の『広辞苑』第三版では、「科学」は次のように説明されていました。

「科学=世界の一部分を対象領域とする経験的に論証できる系統的な合理的認識」
 どうです、すっと、心に入りますか?

 大部分の人には、きっと、「いったい何のこっちゃい?」と感じられるでしょう。とかく定義というものはややこしいものですが、でも、この定義、なかなか素晴らしい。

 『広辞苑』の定義は、三つの部分から成り立っています。

@科学は、「世界の全部」を扱うことはできないのであって、扱えるのは「世界の一部分」である。言いかえれば、科学は私たちが出会うすべての命題を扱うことはできないのであって、扱うことができるのは「一部の命題」に限られるということです。

Aでは、どんな「一部分」を扱うことができるのかというと、それは「経験的に論証できる」命題だと書いてあります。「経験的に論証できる」というのはむずかしい表現ですが、要するに、「実際にその現象を起こしてみて、確かめることができる」という意味、もっと平たく言えば、「事実と照らし合わせて確かめることができる」という意味だと考えていいでしょう。つまり、「科学的命題」ということです。

逆に言えば、正しいか正しくないかが価値観に依存するような命題は科学は扱えず、それらの命題群が「世界の他の一部分」を構成しているということでしょう。

Bしかも、そうした命題についてのさまざまな事実認識は「系統的な合理的認識」であると書いてありますね。「系統的」というのは、全体として統一された体系を形作っているということでしょうし、「合理的」というのは、読んで字のごとく、「理屈に合っている」「論理にのっとっている」という意味でしょう。

だから、認識されたもろもろの事実は、論理的に筋が通っており、全体として統一のとれた体系を成しているということです。あっちの事実とこっちの事実が互いに矛盾しているというのではいけないのです。

 どうです。こう考えてみると、この定義はなかなかよくできていると思いませんか? 「それにしても、学者っていうのは分かりきったようなことをずいぶんむずかしく言うもんだ」と感じられたかもしれません。ある医学研究者に「キス」を定義させたら、「弓状筋肉の収縮状態における構造的並列」と答えたといいます。すごいですね、これは!

 ずっと昔、NHKラジオに「トンチ教室」という番組がありましたが、石黒敬七という柔道家・エッセイストが「カレーライス」を「インド産コショウ振りかけドロドロ飯」と定義したことを思い出しました。この石黒敬七という人は『世界柔道漫遊記』などのエッセイで知られた人ですが、一九五四年のビキニ水爆被災事件のときに、「ビキニとかけてニキビと解く。その心は、シボウ(死亡・脂肪)が多い」とやって、第五福竜丸の乗組員関係者の怒りをかったこともありました。

 では、科学は「経験的に論証できる命題」はすべて解明できるのでしょうか?

 そんな簡単なわけにはいきません。
 科学は、まだまだ遅れていますから、分からないことは山ほどあります。近代自然科学の基を築いたあの偉大なる科学者アイザック・ニュートンは、私たちが知り得たことは、無限の真理の砂浜でいくつかきれいな小石を拾い集めて喜んでいるようなものだと述べました。ニュートン亡きあとも、ニュートンが灯した理性の明かりを頼りに、人間は自然についてずいぶん多くのことを知ってきましたが、それでも真理の大海にくらべれば、人間が知り得たことはごくわずかのことであって、現代科学でも分からないことは山ほどあります。

だから、現代の科学をもってすれば、すべての不思議現象が何の苦もなく解明できるなどと考えるのは一種の迷信であって、きっと今から一〇〇〇年たっても分からないことは山ほど残っているに相違ないのです。
 では、どうすればいいか?

 あわてることはありません。すでに述べたように、「分からないことは、ひきつづき調べればいい」──これが科学の基本姿勢です。それ以上でも、それ以下でもありません。

 ちょっと不思議なことを目の前にすると、よく調べもせずに、不十分な情報にもとづいて「超能力である」とか「超能力でない」とか論争がおこります。ちょっと待ってください。そんなときには、十分に事実関係を調べて、今までに人間が得た知識の体系によって説明できる現象なのか、それとも今までの知識の体系とは矛盾する現象なのか、落ち着いてよ〜く調べてみようではありませんか。

もし、さんざん調べた結果、やはり現代の科学とは矛盾する現象だということが分かったら、素晴らしいことです。そのときこそ、科学が飛躍的に進歩するチャンスです。そんなときには遠慮なくいったん現代科学の体系を捨てて、新たに見つかった事実もうまく説明できるように知識の体系をもう一度組み立て直せばいいでしょう。科学はこれまでもそのようにして進歩してきたのですから、いまさら変わった考え方をとる必要はないでしょう。
(安斎育郎著「科学と非科学の間」ちくま文庫 p25-30)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「認識されたもろもろの事実は、論理的に筋が通っており、全体として統一のとれた体系を成している」と。