学習通信050107
◎「機械的諸発明が、日々の労苦を軽くしたかは、疑わしい」……。

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 第三に、そして最後に、適切な機械設備を用いるとどんなに労働が容易となり、また短縮されるかは、だれにでもよくわかることであって、なにも例をあげるまでもない。

そこで私は、労働をこれほど容易にし短縮させるすべてのこうした機械類の発明が、じつは分業の結果生じているように思われるということを、ここで述べておくだけにしよう。人は、その精神の全注意を単一の目的に向けているときのほうが、さまざまな事物に分散させておくときよりも、目的達成上、いっそう容易で手っ取りばやい方法を発見する見込みがずっと大きい。

ところで、分業の結果、各人の全注意力は、自然に、ある一つのごく単純な目標に向けられるようになる。そこで、とうぜん期待されることであるが、仕事の性質上改善の余地のあるところでは、労働の個々の部門に従事する人々のうちのだれかが、自分たちの個々の仕事をいっそう容易に手っ取りばやく行なう方法をまもなく見つけだすであろう。労働がごく細分されている製造業で使用される機械の大部分は、もとはといえば、普通の職人が発明したものだったのである。これらの職人たちは、各自が非常に単純な作業に従事していたために、その作業がいっそう容易で手っ取りばやく行なえる方法を発見することに、自然に思いをめぐらすようになる。

このような製造場を何度も訪れたことのある人たちは、たいへんよくできた機械類をしばしば見せられたことがあるにちがいないが、そうした機械類は、このような職人たちが、自分たちの仕事の特定部分を容易にしたりすばやく行なったりするために発明したものなのである。最初の蒸気機関の場合には、ピストンが上下するのにおうじて、ボイラーとシリンダーとのあいだの通路を交互にあけたりしめたりするために、少年が一人いつも使用されていた。

この少年たちのなかに、仲間と遊ぶのが好きな一人の少年がいた。かれは、この通路を開くバルブのハンドルから機械の他の部分へ一本のひもを結びつけておくと、バルブはかれの助けがなくても開閉して、自分は仲間たちと自由に遊んでいられる、ということに気づいた。蒸気機関が最初に発明されて以来、これまでに加えられてきた最大の改善の一つは、このように自分自身の労働を短くしたいと望んだ、一少年の発見だったのである。

 しかしながら、機械類における改善のすべてが、そうした機械の使用を必要とした人たちの発明であったわけではけっしてない。多くの改善は、機械の製作が一つの特別な職業の仕事となったときに、機械製作者たちの創意によってなしとげられた。

またいくつかの改善は、学者または思索家とよばれる人たちによってなしとげられたのであって、かれらは、何事もせずにあらゆる事物を観察することを職業とし、したがってまた最も離れた、しかも異質のものの力をしばしば結合することができる人たちなのである。社会の進歩につれて、学問や思索は他のすべての仕事と同じように、市民の一特定階級の、主要なまたは唯一の職業となり生業となる。

そのうえ、他のすべての仕事と同じように、この職業も多数の異なった分野に細分され、そのおのおのは、学者たちの特別の仲間や階級に生業を提供する。そして学問における仕事のこうした細分は、すべての他の仕事の場合と同じように、技能を増進し時間を節約するものである。それによって各自は、自分たちの独自の分野においてますます専門家となるが、全体としてみるといっそう多くの仕事が達成され、科学的知識の量はいちじるしく増大するのである。
(スミス著「国富論@」中公文庫 p17-20)

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第一三章 機械設備と大工業

第一節 機械設備の発展

 ジョン・スチュアト・ミルは、彼の著書『経済学原理』で、次のように言う──

 「これまでに行なわれたすべての機械的諸発明が、どの人間かの日々の労苦を軽くしたかどうかは、疑わしい」。

 とはいえ、そのようなことは、資本主義的に使用される機械設備の目的では決してない。労働の生産力の他のどの発展とも同じように、機械設備は、商品を安くして、労働日のうち労働者が自分自身のために費やす部分を短縮し、彼が資本家に無償で与える労働日の他の部分を延長するはずのものである。機械設備は、剰余価値の生産のための手段である。

 生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。したがって、まず研究しなければならないことは、なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか、である。ここで取り扱われるのは、大きな一般的な諸特徴だけである。というのは、社会史の諸時代は、地球史の諸時代と同じように、抽象的な厳密な境界線によって区別されていないからである。

 数学者や機械学者たちは──そしてこのことは、ときおりイギリスの経済学者たちによって繰り返されているのだが──道具は簡単な機械であり、機械は複雑な道具である、と説明している。彼らは、ここでは本質的な区別を見ておらず、そして、てこ、斜面、ねじ、くさびなどのような簡単な機械的力能さえ、機械と名づけている。

実際、どの機械も、そのような簡単な諸力能から成り立っている──どんなに仮装され組み合わされていようとも。とはいえ、経済学的立場からは、この説明はなんの役にも立たない。というのは、それには歴史的要素が欠けているからである。

他方、道具と機械との区別を、道具では人間が動力であり、機械では、動物、水、風などのような、人間力とは異なった自然力が動力であるということに、求める人がある。それによると、実にさまざまな生産時代に見られる牛のひく犂(すき)は機械であるが、ただ一人の労働者の手で運転されて一分間に九万六〇〇〇の目を綱むクラウセン式円形織機≠ヘ単なる道具にすぎない、ということになるであろう。それどころか、同じ織機も、手で動かされると道具であり、蒸気で動かされると機械である、ということになるであろう。

動物力の利用は、人類の最古の発明の一つであるから、実際には、機械制生産が手工業生産に先立つ、ということになるであろう。ジョン・ワイアトが、一七三五年に彼の紡績機械を発表し、それによって一八世紀の産業革命を告知したとき、彼は、人間の代わりにロバがこの機械を動かすとは、ひとことも述べなかった──それでもこの役割はロバのものになったが。「指を使わないで紡ぐため」の機械、と彼のもくろみ書は書いていた。

 すべての発展した機械設備は、三つの本質的に異なる部分、すなわち、原動機、伝動機構、最後に道具機または作業機から、成り立っている。

原動機は、全機構の原動力として作用する。それは、蒸気機関、熱気機関、電磁機関などのように、それ自身の動力を生み出すか、または、水車が落水から、風車が風から受け取るなどのように、それの外部の既成の自然力から動力を受け取るか、である。

伝動機構は、はずみ車、駆動軸、歯車、滑車、シャフト、ロープ、ベルト、噛み合い賃銀、さまざまな種類の中間歯車から構成されていて、運動を調節し、必要なところでは運動の形態を転換させ──たとえば直線運動から円形運動に──運動を道具機に配分し伝達する。機構のこの両部分は、道具機に運動を伝えるためにだけあるのであり、それによって道具機は労働対象をとらえ、目的に応じてそれを変化させる。機械設備のこの部分、すなわち道具機こそが、一八世紀産業革命の出発点をなすものである。

道具機は、手工業経営またはマニュファクチュア経営が機械経営に移行するたびごとに、いまなお毎日あらためて出発点となっている。
(マルクス著「資本論B」新日本新書 p643-647)

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◎「機械設備は、剰余価値の生産のための手段である。」