学習通信050108
◎「ハラの虫について」……。

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 大学の研究者と話していて、その研究内容と本人の生活態度や心情があまりにかけ離れていることを不思議に思うことがあった。もちろん、「宗教学者は信仰を持つべき」などと言いたいわけではない。ただ、ついさっきまでグローバルな視点から国際政治を語っていた人が、学内の小さな人事問題について不平を漏らしたりするのを見ていると、「研究内容がこれほどまでに個人に影響を及ぼさないのはなぜか」と思わざるをえない。

 研究や仕事と、そのひと個人とは別だ、という意見もあるだろう。私もかつては、そういう考えだった。しかし、自分も十分におとなになり、その社会的立場や発言と本人とのあいだにあまりにも大きなギャップがある人を見すぎたせいか、「大学では社会福祉を説いているのに、家に帰れば土地問題で親戚といがみ合ってるなんて、それはないでしょう」と思うようになってきたのだ。

 それと同時に、こんなことも考えるようになった。社会的な自己と私的な自己とに断絶があるように見える彼らだけれど、本当は両者のあいだにはやはり関係があるのではないか。私的な自己のほうが本来の姿で、それを隠蔽したり、打ち消した気分になったりするために、逆に社会的な場面では立派なことを言ったりやったりしているのではないか。

 これは言うまでもなく、人間の表立った言動の多くは、無意識に潜む葛藤やコンプレックスを防衛するためになされる、というフロイトの考え方にもとづいた、やや意地悪な発想だ。自分では信念や社会的使命を持ってやっているはずのことが、実は個人的なコンプレックスの裏返しにすぎなかった。人間をそう読み解いていくのは、なんとも夢がなくつまらないことである。しかし、そう考えてみるだけで、社会的な顔と私的な顔とがまったく違う人たちのことが、実によく説明できるようになったのも確かだ。

 付け加えると、その人たちは自分の置かれている状況にまったく無自覚であり、しかもたいていの場合は「自分は正しい」と自信を持っている。当然のことながら、空威張り≠ノも似たその自信は、内面に潜む問題の真の解決には役立たない。一度、強気の態度で内面の不安や葛藤を防衛できる、と知った人は、永遠にそれを強めながら続けていくしかない。

 そうこうするうちに私は、相手が自信家であるというだけで、反射的にその人の内面の弱さや隠蔽しようとしているコンプレックスを探そう、とするようになった。すべての自信家を信じられなくなったのである。

 そのうち、個人を超えて社会の単位、国の単位で自信家になっているところ、自信家にならなければいけない、とそれを目指しているところがあることにも気づいた。言うまでもなく、すでに自信家の国、それはアメリカであり、「自信家にならねば」と躍起になっている国、それは日本である。そして日本は、その自信家になるための条件として「愛国心」が必要、と強く考えているようだ。

 国家レベルだけではなく、社会のあちらこちらにも「私は正しい」「私は強い」「自信を持ってこう言いたい」と胸を張り、間違っていると感じられる相手や弱いと思われる人に対して、断固と抗議したり厳しい態度を取ったりする人があふれ始めた。

 そういう自信家たちは言う。これまで戦後日本社会は、あまりに個人の自由を大切にしすぎたために、公の意識が衰退してしまった。いまこそ、個人の欲望にとらわれるのをやめ、必要なら〈私〉を捨てても、国としての自信を取り戻し、公のために考えようではないか、と。

 私には、これは状況をまったく取り違えた結果の間違った判断にしか思えない。問題は、〈私〉を大切にするあまり公の意識を失ったことにあるのではなく、それぞれが本当の意味で〈私〉に向き合ってこなかったことにこそ、あるのではないか。

 いま私たちがしなければならないことは、個々人の内面にある葛藤や不安から目をそむけずにそれを見つめ、それぞれがそのことを自覚した上で克服を試みることなのではないだろうか。

 その証拠に、グローバルな視野でとか国際常識を踏まえてなどと識者が強調すればするほど、若い人の関心はそれぞれの個人の内面にますます向かいつつあるではないか。

 二〇〇四年、どこにでもいる高校生カップルの個人的な恋愛を描いただけの『世界の中心で、愛をさけぶ』が、三〇〇万部を超えるベストセラーになった。「世界の」とタイトルにはあるが、この作品が取り扱っているのは登場人物のごくごく身近な空間と内面だけだ。

 しかし、若い人にとっては、自分と恋人、あとはせいぜい家族や友人だけしかいない等身大の空間こそが「世界」なのだろう。そしてだれもが、私もそのひどく狭い「世界」の中心で愛を叫びたい、と願っており、その「世界」を広げることや「世界」の外で起きていることには関心を持とうとしない。

 多くの人は、そういう若者を見て、〈私〉にばかり拘泥するな、もっと広く社会に目を向けよ、と言うだろう。しかし、事態はその逆で、若い人は(もちろん若くない人も)〈私〉について考え足りないまま過ごしてきたからこそ、いま〈私〉の物語にこれほど熱狂しているのではないだろうか。

 一度、〈私〉についてそれぞれが徹底的に向き合わなければ、個人を超えた歴史認識や世界認識など、私たちは持てないのではないか。もちろん、「愛国心」がそれを持たせてくれる、などというのはまったくのファンタジーでしかない。

 偉そうなことを言っているが、これは私のオリジナルな発想というわけではない。岩波文庫版『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)に付けられた丸山真男による著者追悼文(執筆は一九八一年)にも、すでにこうある。

 「(この本の中の「地動説」とは)自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の 位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度もくりかえされる、またくりかえさねばならない切実な「ものの見方」の問題として提起されているのです。(中略)
 つまり、世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあリ方であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ──その意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。」

 積み残したまま発車した〈私〉の問題が、逆に公へと人々の関心を向かわせる。そして、それがただの流行現象や消費行動に結びつくだけではなくて、教育基本法を変え、有事法制を作り、いま憲法までが変わろうとしている。

 それで、果たしていいのか。それを承知の上で、それでも日本にはいま「愛国心」が必要だ、というなら私にはもう、言うべきことばはない。そうなったときに日本に住み続けるかどうかは、それこそ〈私〉の問題だ。

 しかし、そのことに無自覚なまま、保守派と呼ばれる人々が「私は正しい」と自信を深めつつ、「いまこそ愛国心を。いまこそ憲法改正を」と前向きに主張しているのだとしたら、もう一度だけ、考えなおしてほしい。
 そういうささやかな。最後のお願い≠ニして、本書を書いたつもりだ。
(香山リカ著「<私>の愛国心」ちくま新書 p211-216)

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ハラの虫について

ハラの虫の正体はなにか

 「アタマでは納得しても、ハラの虫が承知しない」などという。あの「ハラの虫」の正体はなにか。

 「虫が知らせる」とか「虫が好かぬ」とかいうふうにもつかう、その「虫」について『広辞苑』をひいてみると、「潜在する意識」と説明されている。

 なぜそれを「虫」といったのか。『岩波国語辞典』によれば「体内に虫がいて、それによってさまざまなことがおこると考えた」ためであるという。しかし、朝日新聞家庭部編『ことばの由来』(トクマカジュアルブックス)を見ると、「昔の人が実際に形をそなえた虫≠ェいると考えたかどうかはわからない」そうで、とにかく「虫が知らす≠ノしろ虫が好かぬ≠ノしろ、われわれの心のなかに、なにかえたいの知れない神秘的なものがひそんでいて、それが感じとるのだという考えで、そのえたいの知れないXを虫≠ナいいあらわしたのではないかとも思う」と説明されている。

 とにかく「虫」の正体が、いわゆる潜在意識であるのは、たしからしい。つまり、「アタマでは納得しても、ハラの虫が承知しない」というのは、「理性的に考えた結果はイエスとでても、潜在意識がノーという」ということなのだろう。

ハラの虫のすみかはどこか

 では、その「ハラの虫」はどこにひそんでいるのか。
 「ハラの虫」というからには、ハラにひそんででもいるのだろうか。

 たしかにハラにすむ虫もいる。サナダムシなんかがそうだ。数メートルもの長さになって、腸のなかに寄生している。数千の体節からなりたっているが、その体節の一つひとつが独立して生きる能力をもち、しかもそのなかにあるのは生殖器官だけ、おまけに雌雄同体、という怪物だ。ほっておくと消化不良、全身衰弱をまねくが「ふつうの下剤や虫下しではビクともしない」そうで、「特効薬はザクロの根である」と畑正憲氏の『続々ムツゴロウの博物志』(文春文庫)にある。

 だが、私たちはサナダムシの話をしているのではない。私たちは潜在意識のことを問題にしているのだ。

 潜在意識も意識のうち。そして、あらゆる意識が、脳、ことに大脳のはたらきであることは、現代の常識にぞくする。

 とすれば「ハラの虫」のすみかもアタマ以外ではないことになる。
 すると──「アタマでは納得しても、ハラの虫が承知しない」とはどういうことになるのか。

 答えはつぎのようなことになるらしい──前のほうの「アタマ」は大脳左半球のことで、「ハラの虫」がすむアタマというのは主として大脳右半球のことである、と。

大脳の左右両半球の機能のちがいについて

 ハラの虫の正体をさらにたちいって究明するために、大脳の左右両半球の機能のちがいについてしらべてみた。そして、だいたいつぎのようなことがわかっている、ということがわかった。

 大脳左半球は「言語脳」ともいう。コトバをつかい、時間をかけ、論理のすじみちを一つひとつたどりながら分析的に考えるのは、この左半球のはたらき。これにたいして右半球は「非言語脳」ともいわれ、コトバによらない直観の座である。

 この左右両半球の機能の分化は、私たちがコトバをおぼえだす満一歳ごろからはじまって、三歳くらいになるとかなりハッキリしてくるという。

 右半球のはたらきは、左半球につうじるスイッチがオフになっているかぎり、ハッキリとした意識にはならない。意識の水面下に沈んだまま、というかっこうになる。「いうにいわれぬある感じ」というのは、主として右半球性のものであろう。もっとも、そういう感じが意識にのぼっているかぎり、右半球からの信号がなんらかのかたちですでに左半球に到達していることもたしかなのだろうけれど。

日本人の脳と虫の声

 コトバを「ききわける」というはたらきが左半球のはたらきだということを述べてきた。
 ところで日本人の場合には、虫の声や波の音なども、コトバなみに、はじめから左半球に入力してくるという。これにたいしていま知られているかぎり、ポリネシア諸島の人びとをのぞくすべての外国人の場合、虫の声や波の音などは、機械音やノイズ(雑音)なみに、右半球に入力するそうだ。

 これは日本人の脳が先天的に特殊な生理構造をもっているということではなく、日本語がポリネシア語とともに、母音がおおきなやくわりをはたす言語であることとかかわりがあるらしいのだが、たいへんに興味あることだ。

 以上は、角田忠信氏の『日本人の脳』(大修館書店)によったものだが、潜在意識のはたらきを日本語で「虫」と関係づける理由も、これで見当がつくように思う。

 すなわち、あれこれの潜在意識の存在が意識にのぼるのは、なんらかのかたちでそれが右半球から左半球にうつされた瞬間であろうが、その瞬間にそれが意識されるぐあいは、ちょうどマツムシやスズムシの声をなんらかの意味あるものとして私たちがききわけるようなぐあいであるにちがいないのだ。

意識下の映像

 「刑事コロンボ」シリーズのなかの『意識の下の映像』は、潜在意識に(つまり右半球に)ある信号をおくりこむことによって完全犯罪の実現をねらった行動心理研究所長ケプル氏が、コロンボにそれを見ぬかれ、その手を逆用されて敗北する話であった。

 ところで、じつはケプル氏そこのけの「犯罪計画」が、「日本のCIA」ともいうべき内閣調査室によって「先手先手とうちすすむ」べき「五年、一〇年の長期計画」として、いまから二十五年まえ、国家的スケールにおいて提起されていたのであった。

 その文書は「心理戦の基木問題」と題され、昭和二八・六・四という日付をもつ。私たちはいまそれを、吉原公一郎氏編『週刊文春≠ニ内閣調査室』(晩聲社)のなかで見ることができる。

 これからは「心理戦」の時代である、とそれは宣言し、「爆弾にかわるものはマス・コミュニケーション」であり、「照準は……人間の心の奥深く潜む潜在意識である」と述べながら、その手段、方法を詳述している。そこには「くだくだしい理屈はいらない。

ただ感情にのみ訴えて、できるだけ安直簡明に、同じスローガンをくりかえしきかせるべきである」とか「黒≠烽ヘっきりと毅然たる態度で白≠セと断言すれば、きいているものはあれほど自信ありげにいうのだから灰色ぐらいかと思い、それを断固反復していればついには白だと信じてしまう」という文句さえも記されていた!

大脳右半球のクリーン作戦

 マスコミその他をつうじてながされてくる退廃文化、白を黒、黒を白と「断固反復」する宣伝のたぐいを、私たちはいちいち左半球できちんとうけとめているわけではない。なれっこになっているせいもあり、横目で見ながし、小耳に聞きながし、といった調子ですませている。だから、たいしたことはないと思うと、それがおおまちがいなのだ。

 心理学者にいわせると、左半球で真正面からうけとめれば、批判的にうけとることになるから大きな害はむしろないのだという。反対に、右半球でうけながしていることのほうが、じつはそれをまるごと無批判のまま意識の水面下にほうりこみ、それによって「ハラの虫」を育てることになるから、危険なのだ、という。

 右半球の「クリーン作戦」が必要なのではあるまいか。私たちの「こころ」をかたちづくる「内なる仲間」には、大脳左半球居住性の「仲間」だけではなく、大脳右半球居住性のものもあるのだ。右半球に寄生するあやしげなサナダムシをたたきだせ。

 でないと、左半球でいくらすじのとおった結論をだしても、右半球の異議申し立てに負けてしまうということになる。

 この右半球に住むサナダムシは、ザクロの根では駆除できない。質のいい情報を日常ふだんに右半球にぶちこんでいくことによってのみ、駆除できる。

 いい音楽、いい絵、いい芝居、いい映画、いい文学、いい新聞雑誌に日常ふだんにしたしみ、いい仲間とのつながりのなかで、全身八万四千の毛穴から、いうにいわれぬ人間的なものを日常ふだんにおたがいの右半球におくりこんで、いい「ハラの虫」を育てることが大事だと思う。
(高田求著「新人生論ノート」新日本出版社 p184-190)

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◎「社会的な自己と私的な自己とに断絶があるように見える彼らだけれど、本当は両者のあいだにはやはり関係があるのではないか。私的な自己のほうが本来の姿で、それを隠蔽したり、打ち消した気分になったりするために、逆に社会的な場面では立派なことを言ったりやったりしているのではないか。」