学習通信050109
◎ほくそ笑む人たち……大臣ッ。

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■才能ある人間を活躍させる自由社会を〔中谷〕

 確かに組織と個人のあり方というものは、大きな変化を遂げつつあります。これは多くの人が忘れていることですが、日本だけではなくアメリカでも八〇年代ぐらいまでは組織の時代でした。大企業組織の時代と言われていたのです。ところが、エマージング・テクノロジーが新たな可能性を示し始めたときに、今度は個人の創造能力というものが非常に重要になってきました。

 オーケストラのようにガチッと楽譜が決まっていて、逸脱する余地がほとんどないような形態によるビジネスが主流である状況を大企業の時代だとすると、これからはジャズのセッションの時代です。やる気のある人たちが一緒になって、それこそ乗りで演奏する。ピアノがメロディを奏でたら、今度はサキソフォンがそれに合わせるという即興演奏のような形態です。

 要するにお互いに刺激し合って、もっとおもしろいものがどんどんできてくる。このような互いに刺激し合ってどんどん新しいものを創造するプロセスを、ジョン・ケイオーは「ジャミング」と呼びました。日本で言えば連歌のようなもので、誰かが上の句を詠むと、即興で下の句をつくる。これで新しい歌が創造されるわけです。このようなジャミングこそイノベーションの源泉だと思うのですが、今まさにそのような時代に入ってきたのではないでしょうか。

 そういう意味では、個人がその気になって動き出すと、大きなことができる可能性のある時代と言えるでしょう。しかも、個人としての潜在能力を発揮できるような立場に立った人は、今までの常識では考えられないような成功を収めるという例が、これから数多く出てくることになるでしょう。

 ただ、こういう話をするといつも出てくるのが、「それでは、知恵のある人間が栄えて、知恵のない人間が滅びるじゃないか。いわばアメリカ型社会のような弱肉強食の推奨ではないか」という論調です。

 私はこの論調に基づく、「本当にやる気があって才能ある者でも報酬はほどほどにしておくべきだ」という考え方はおかしいと思います。たとえば、五八パーセントの人が才能を開花させて大きく羽ばたいたとしましょう。確かにその人たちは報われて豊かになるかもしれませんが、その人たちがもたらす付加価値は社会全体に行き渡ることになるのです。逆に、頑張っても報われない悪平等社会では、こういうすごい人たちが出てこない。

 社会政策がしっかりしていれば、能力ある人たちが払ってくれた税金で、普通の人たちをもっと豊かにしていくことができるのです。つまり、インセンティブをできる限り活用して、みんなが元気でおもしろい人生を送れるようにしてあげたほうがパイは大きくなります。その大きくなったパイから何パーセントかをセーフティネットのほうに回していくという政策をとればよいのです。

 競争やインセンティブを否定してしまったら、それは社会主義の国です。もう誰も動かなくなってしまいます。日本社会が今陥っている問題はまさに社会主義病です。私はそれを「モラルハザード症候群」と言っていますが、頑張っても大して報われないと同時に、頑張らなくてもみんなある種の保証を与えられているので、自分がイノベーターになろうとしなくなってしまったのです。下手に動いて目立ってしまうと、先のような論調で叩かれてしまいますし、これを打ち破るにはかなりのエネルギーを要します。それだったら既存のシステムでうまく立ち回っていたほうが無難だと考えるようになってしまいます。

 私は日本経済が低迷しているもっとも大きな原因が、ここにあると考えているのです。

 それに「日本がアメリカみたいになる」と言う人には、何を考えているのかと私は言いたい。

 明治の開国以来、日本は西洋からいろいろなものを吸収してきましたが、それで日本が西欧やアメリカと同じになったでしょうか。文化や価値観、生活習慣など日本とアメリカは大きく異なったままです。日本がアメリカと同じだと言ったら、アメリカ人はきっとびっくりするでしょう。

 一国の文化的伝統というものは、そんなにヤワなものではありません。日本は日本です。決してアメリカにはなりません。
(中谷巌・竹中平蔵著「ITパワー」PHP2000年 P61-64)

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 もともと曰本の税制は、戦後間もない一九四九年にアメリカからのシャウプ勧告によって大枠が決められて現在に至っています。つまり直接税を税の中心ととらえ、なかでも所得税と法人税をその主なものとする税制です(ただし、シャウプ勧告では源泉徴収制度については廃止の方向でしたが、これは日本が拒否しています)。これに基づく日本の税制は、少し前まで所得税に対する累進税率が非常に高い「頑張った人に厳しい税制」でしたが、一九九九年の税制改正で最高税率が五〇%から三七%に引き下げられるなど、かなり改められています。

 ただし、あえていえば、所得に対する累進制度は緩和されているものの、一生涯を通して考えた場合の累進制度はいまだに高い可能性があります。その要因の一つが相続税と贈与税です。

 曰本の相続税や贈与税は最高税率が七〇%と、世界的に見て高い水準にあります。相続税の対象になる資産は、その人が一生かかって蓄えたものです。その蓄える過程では、当然税金を払っていますが、税金を払ったうえで残ったものを子どもに贈与しよう、相続させようとしたときにもう一度税金をとられるわけです。しかもその税率が、きつい累進性になっています。

 さらにこの問題は、家族というものをどう考えるか、という問題にもつながります。一生懸命働くのは、「自分自身がよい思いをしたいから」という面もあると思いますが、そればかりではなく、家族や子どもに何か残したいといった素朴な思いを持っている人もいるはずです。その思いをどの程度重視すればよいのか。この点を重く見るのであれば、相続税は極力軽くすべきだ、という考え方になります。

 ところが、先はどの「機会の平等」という観点からすると、また別の考え方になります。親がお金持ちでその贈与を受けられる子どもは、スタート時点からたくさんの資本を持ってビジネスを始めることができ、お金のない親の子どもはスタート時点から大きなハンディを負うことになります。

これは「機会の平等」の概念からすると不公平だと考えられます。それをある程度是正するために相続税という制度があるともいえるのですが、「頑張った人にやさしい」ということと、「機会の平等」ということの兼ね合いについては、新しい時代にふさわしいように変えていく必要が生じています。
(竹中平蔵著「あしたの経済学」幻冬舎2003年 p60-62)

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「所得格差が小さい国・日本」は幻想?
この一〇年間で所得の差は大きくなっている

「税と所得」(五九ページ)でも触れましたが、日本人は、その九割が中流意識を持っているといわれます。多くの日本人は、自分たちの所得はかなり平等であると考えているのではないでしょうか。

 この点からすれば、それは、今日までの税の累進構造のおかげであり、累進税率は日本の利点だ、ということができます。

 ところが、最近の研究で明らかになってきたのは、これほど強力な累進構造であっても、次第に大きな所得格差がついているという現実です。

 所得が平等かどうかを調べる方法として、ジニ係数という指標を用いることができます。日本の人口は現在、約一億二六〇〇万人ですが、これを所得の一番低い人から順番に並んでもらいます。そして、その累計を出していきます。つまり、一人ひとりの所得を足し合わせていくわけです。

 もしも、一億二六〇〇万人全員が同じ所得とすると、その累計をグラフ化したものは右上がりの直線になります。所得に格差があると、弓形になります。弓形の湾曲が小さいほど所得平等の社会、湾曲が大きいほど所得不平等の社会です。図の三角形の面積に対する弓形の比率をジニ係数といい、これはOから一の範囲になります。

 ジニ係数が小さいほど平等、大きければ大きいほど不平等です。
 下表によると、一九八〇年代の半ばに計ったところ、日本は約〇・三でした。これはかなり平等な社会といってよいと思います。ところが、最近〇・四程度に上がってきたことがわかります。一〇年間で〇・一上がるというのは非常に大きな変化です。

 ジニ係数はデータの出所や微妙な扱い方によって、数値が異なります。そのため、まだまだ専門家の議論が続いていますが、ここで示した数値は、一つの注目される傾向といえます。

日本はドイツやイタリアよりも不平等。
消費を見ると所得の格差も見えてくる

 所得格差については、他にもある若い学者がジニ係数より単純な方法を用いて調べています。

 簡単にいえば、所得を一段階から一〇段階に分け、まず第一段階の平均値を求めます。次に一〇段階までの各平均値を求め、それぞれの平均値の比率を見るという方法です。

 つまり、上のランクに対する下のランクの比率を見るのですが、これによると日本はアメリカよりもやや平等であるとの結果になりました。ところが、ドイツやイタリアよりも日本のほうがはるかに格差が大きいということがわかりました。要するに、控えめに見ても、日本は特別に平等の国だとはいえなくなっているのです。

 これが意味するところは、この一〇年間のグローバリゼーションやIT革命のなかで、果敢に行動して所得を上げていった個人や企業と、そこから取り残された個人や企業では予想以上の格差がついてしまったということです。

 九割が中流意識を持っている平等な社会、というのはもはや当たりません。日本は普通の国だ、と考えたほうがよいと思います。
 つけ加えていいますと、所得の格差は消費を見るとはっきり実感することができます。

 たとえばマンションを買うというときに、三〇〇〇万円のマンションを買うべきなのか、五〇〇〇万円のマンションを買うべきなのか、一億円のマンション買うべきなのか、細かいことはいろいろと計算をするかもしれませんが、「自分はだいたいこのくらいのマンションが妥当だ」と、何となく自分で判断しているのではないでしょうか。

 つまり人々は、自分の生涯所得について漠然と見通しを持っているものです。もちろん、生涯所得は途中で変わることもありますが、その見通しをもとに、分相応な生活設計と消費水準を決めていることは確かです。

四二歳になると人生のコースを自覚する。
手厚い累進構造でも所得格差は守れない

 ある学者が消費の実態を調べたところ、非常に興味深い結果が出ました。
 日本人の場合、二〇代、三〇代の比較的若い人には、消費のバラツキはほとんど見られませんでした。ところが、ある年齢を境に、たいへんな格差が出てくることがわかりました。その年齢とは四二歳です。四二歳というのは高校を出てから二四年、大学を出てから二〇年です。

 そのくらいになると、何となく自分の人生が見えてくると考えられます。自分の人生は松コースなのか、竹コースなのか、梅コースなのか。あるいは、自分は将来ファーストクラスに乗っていく人生なのか、ビジネスクラスの人生なのか、エコノミークラスなのか。四二歳くらいになるとわかってくるということでしょう。

 今日の日本社会というのは、松コース、つまりファーストクラスに乗る人たちが、予想以上に多くなっています。いわれてみれば思い当たることがいろいろあるのではないでしょうか。

 たとえば、いわゆる超豪華旅館といわれる一人一泊五万円はするような旅館は、一年中どこも満員です。日本郵船が『飛鳥』という豪華客船で、世界一周クルーズを年に一回行っていますが、その予約状況もなかなかのものだと聞きます。

 JR東日本の寝台特急『カシオペア』には超豪華なスイートルームがありますが、一九九九年のカシオペア開通当初、JR東日本がこれを売りものにしたパック旅行を発売しました。青森経由で札幌に行き、札幌に着くと超豪華旅館を渡り歩く。帰りは函館空港から飛行機のスーパーシートで帰ってくる、というプランで料金は一人八八万円。これが売り出した途端にすぐに売り切れたのだそうです。

 信じがたいような話ですが、とくに中高年の消費をよく観察してみると、相当な格差があることに気づくと思います。これだけ手厚い累進構造をもってしても、かくも大きな差がついている。それだけこの一〇年間のグローバリゼーションとIT革命はすさまじかった、ということかもしれません。
(竹中平蔵著「みんなの経済学」幻冬舎 2000年 p74-79)九の六

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 余ひそかに思うに、アダム・スミスの誤謬の第一は、氏自ら「経済学の大目的は一国の富及び力を増加するにあり」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、三五ぺージ)と言えるによっても明らかなるがごとく、もっぱら富の増加を計ることのみをもってすなわち経済の使命なりとなせし点である。けだし富なるものは元来人生の目的──人が真の人となること──を達するための一手段にほかならざるがゆえに、その必要とせらるる分量にはおのずから一定の限度あるものにて、決して無限にその増加を計るべきものではない。

これと同時に、これを社会全体より見れば、富の生産が必要なると同じ程度において、その分配が当を得ていることが必要である。もしその分配にして当を得ず、ある者は過分に富を所有して必要以上にこれを浪費しつつあるにかかわらず、ある者ははなはだしくその必要を満たすあたわざるの状態にありとせば、たとい一国全体の富はいかに豊富に生産されつつあるも、もとより健全なる経済状態といい難きものである。

しかも富の生産をばその分量及び種類に関しこれを必要なる程度範囲に限定し、かつその分配をして最も理想的(平等というと異なれり)ならしめんとするがごときことは、現時の経済組織をそのままに維持し、すべての産業を民業にゆだね、かつ各事業家をしてもっぱら自己の利益を追求するがままに放任しおきたるのみにては、到底その実現を期しうべきものではない。

 アダム・スミスの誤謬(ごびゅう)の第二は、貨幣にて秤量(ひょうりょう)したる富の価値をば、直ちにその人生上の価値の標準としたことである。氏は一国内に生産せらるる貨物の代価を総計した金額が多くなりさえすれば、それが社会の繁栄であって、これよりよろこぶべき事はないと考えたのである。

しかして世間の事業家は、別に国家から命令し干渉することなくとも、ただ自己の利益を追求するがために、互いに競争してなるべく値段の高く売れる貨物を作り出すに決まっているから、もしわれわれが社会の経済的繁栄を計らんとするならば、すべてこれを私人の利己心の最も自由なる活動に一任しておくに限ると考えたのである。

 しかし、すでに中編にて説明したるがごとく、最も高く売れる物が生産されて行くという事は、ただ社会の需要が最もよく満足されて行くという事に過ぎない。しかるにいわゆる需要とは、購買力を伴うた要求ということである。ただ金持ちの要求というだけのものである。しからば単に需要によりてのみ一国の生産力を支配し行くことの不合理なるは言うまでもない。

第一に、要求のあるに任せてこれを満たすということは、必ずしも社会公共の利益を計るゆえんではない。おおぜいの者の要求のなかには、これを満たすことが本人のためになんらの益なきのみならず、他人のためにも害を及ぼすものが少なくない。次に、各種の要求のうち、そのいずれを先にすべきやを定むるに当たっても、単に需要の強弱(すなわちその要求者の提供しうる金額の多少)をもってのみその標準となさんとするは、分配の制度にして理想的となりおらざる限り、決して理想的に社会の生産力を利用するゆえんの道でない。

 以上述べたるところは、個人主義の理論上の欠点である。もしそれ、現代経済組織の下における利己心の束縛なき活動が、事実の上において悲しむべき不健全なる状態を醸成し、かくて一方には大厦高楼(たいかこうろう)にあって黄金の杯に葡萄の美酒を盛る者あるに、他方には襤褸(らんる)をまとうて門前に食を乞う者あるがごとき、いやしくも皮下多少の血ある底(てい)の者が忽(かいこ)として見て過ぐるあたわざる幾多悲惨の現象をいかにわれらの限前に展開しつつあるやの実状に至っては、余すでにこの物語の上編においてその一斑を述ぶ。

請う読者自ら前後を較量して、今の世に経済組織改造の論のようやく勢いを得んとすることの決していわれなきにあらざるを察知されん事を。(十二月一日)
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p105-107)

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◎「一方には大厦高楼(たいかこうろう)にあって黄金の杯に葡萄の美酒を盛る者あるに、他方には襤褸(らんる)をまとうて門前に食を乞う者ある」……と。