学習通信050110
◎「ものを考えるということは、それ自身が過程であって」……。

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 日本語と外国語の違い

 要するに原則としては、必要な本はやさしい本である。その必要でやさしい本を読んで利用することに力を注ぎ、たのしみのための読書、ことに文学の読書は、日本文学で満足する。それを外国文学でおぎなう場合には、主としてえらい小説家の日本語訳を読んですませる──これが多くの人びとにとって、外国語の本に対する一番合理的な態度ではないかと思います。しかし、それならば、相当むずかしい外国語の文章をていねいに読むことが、それ自身役に立たないものであるかどうか。私は、もし、そういうことを好んでする人があり、そのために十分な時間をさくことができるとすれば、それもまた、かならずしもむだな道楽にはならないだろうと考えます。

 その理由は、市場調査の報告書や機械工学の技術書を読んで仕事に役立てるという場合とは違って、外国語の言葉の構造そのものと読者が、いわば向きあうことになるからです。さて、日本語の構造と外国語の構造とは違っていて、もし、その外国語がヨーロッパ語であれば、その違いは、ヨーロッパ文化のなかに長いあいだ生きてきたものの考え方と、日本文化のなかに長いあいだ生きてきたものの考え方との違いをそのまま反映しています。

たとえば、西洋語の構造は、まず主文章を示し、主文章のなかの部分を、関係代名詞を使いながら、あとへゆくほど綿密に分析的に述べてゆくという形をとっています。「私は出かけた」ということがまずあり、その次に、それが「きのう」であって、目的地が「映画館」であったということが説明され、さらに、その映画館がどこにあったか、そこではどういう映画が上映されていたかというような詳細が続きます。

同じことを日本語の文章でいう場合には、その構造が逆になって、まず、映画の名前から出発し、地名があり、それが映画館にかかり、その映画館のところまで読んだのでは、そこへきのう私が行ったのか、行かなかったのかわからず、文章の最後まで読んだときにやっと全体の意味がわかります。「私が行った、映画館へ」という文章は、それをどこかで切って、それぞれその区切ったところまでの意味を持っています。

ところが「映画館へ私がいった」という文章では、「映画館へ」までのところに独立の意味がありません。なぜならば、話し手と映画館との関係がまったくわからないかぎり、どんな映画館にも意味がありえないからです。一方は、全体的な構造の枠から出発して部分におよびます。他方は、部分から出発して全体的な枠に到達しようとします。文章が完結したときには同じであるとしても、その途中の過程はまったく方向が違っているといってよいでしょう。

外国語を読めば、ものの見方が変わる

 ところが、ものを考えるということは、それ自身が過程であって、完全に空間化されて、完結した世界ではありません。だから、本を読むことと絵を見ることとは違います。絵を何時間見ていても、その各瞬間に、私は絵の全体と相対しています。本は何度繰り返して読んでみても、ある瞬間には全体の評価のある部分に接しているので、けっして同時にその全体と相対することはありません。

そういう考えの進む過程は一つの文章のなかにもあり、一つの文章から他の文章への動きのなかにもあります。また、第二章から最後の章ヘの経過のなかにもあります。その過程が違うということは、したがって、ものの考え方が違うということにもなるでしょう。

私たちは、複雑な考えを言葉なしに追うことはできません。数学的な思考が数学的記号を抜きにしては組みたてられないように、人間の考えは、日本語とか英語とかいう言葉の記号の体系を使わずにはあり得ないものです。その記号の体系が違えば考えあまた違う。西洋語の文章の構造と相対するということは、したがって、日本語と違う西洋語の構造にあらわれている西洋式思考の過程と相対するということです。

おそらく、そういう経験から利益をひき出すことのできる人は、大きな利益をひき出すことができましょう。簡単にいえば、部分から全体へという過程に加えて、全体から部分ヘというものの考え方もできるようになるかもしれません。それは思考力、ものを考える力の進歩です。いわば、一次元的な線の上の運動を、二次元的な平面の運動に拡張するようなもので、それは、ほとんどその人の世界を変えるものであるといってさしつかえないでしょう。

そういうことは、単に便不便の問題ではなく、また、そう簡単にできることでもないと思いますが、今後、日本の国がしだいに鎖国心理から抜け出して、世界のなかで自分を主張してゆくためには、そういうことも、じつは専門技術の吸収ということ以上に必要なことになるのかもしれません。

役に立たない「日本対西洋」の発想

 観光旅行の通訳という程度の簡単なことではなく、もう少し複雑な通訳をしたことのある人は、だれでも、日本側の議論に翻訳の容易にできるものと、容易に翻訳できないものがあるといいますが、その違いはおそらく議論の形、ものの考え方の方向にかかわっているのでしょう。絶えず部分から出発するのか、場合によっては全体から部分をとらえ直すこともあるのか。

これは単に言葉の問題ではなく、その背景にあるものの考え方そのものの問題です。「東洋と西洋」というような大上段の議論をここに持ちだしたり、また「日本対西洋」というような国民的感情の問題に、この問題をすり変えてみたりすることは、なんの役にも立たないことだろうと私は思います。問題はそういうことではなくて、もし東洋ふうと西洋ふうの考え方の違いがあるとすれば、どちらの考え方が第三者を含めての「世界」によく通じるか、つまり、普遍的な合理的な構造を持っているかということでしょう。

考え方というものは、東洋的だからよく、西洋的だから悪い、あるいは逆に、西洋的だからよく、東洋的だから悪い、ということはけっしてありません。考え方のよしあしは、その考えがどれほど人間に、または少なくとも時代に普遍的であるか、ということによってしか決まらないのです。

 むかし、明治初年に、伝統的漢方医学と、いわゆる西洋医学との優劣について大きな論争が起こったときに、森鴎外は「医学に東洋も西洋もない、じつはただ一つの医学があるだけだ」といいました。その後の日本の医学はそういうことを前提として進んできたし、そういうことを前提として進んできたから、今日の水準にいたったのです。

そこで、もう一度言葉の問題にもどっていえば、外国語を外国語そのもののために勉強することにも、言葉の構造がものの考え方を制約し、ものの考え方が言葉の構造を制約する以上、大きな意味があるといわなければなりますまい。そういう目的のためにも、むずかしい本をとる必要はありません。読む本の文章はやさしければやさしいほどよく、単純であればあるほどよいでしょう。ただ、明晰であることだけが必要です。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p141-146)

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政治文書の理解における法則性に学んで

 もう一つ、なるほどと納得してもらえることをだしておきましょう。
 この冊子の読者に少なくないと思われる共産党員の位置にある人であれば、大抵は経験していることなのですが。

 共産党という組織は国民の運命に責任をもつものとして、変化する情勢をたえず分析し、この国と世界におきていて、国民の運命にかかわることについて、国民の利益の立場にたった科学的な評価を下し、それに対応して組織の任務を規定する、国民にも行動をよびかけるということで、たとえば大会決定とか中央委員会決定というような文書がだされます。共産党員である人たちは、こういうものを一刻もはやく読みこなして、そこでだされている方向にそって、一人一人の活動を展開するということですすんでいこうとするわけです。

 こういうときに、ここで問題になる、ある大切なことがおきてきます。そういう文書は全国のそのときどきの活動の集約として、組織内の民主主義をあらわす面をもっているので、一人一人、あるいは集団の活動をふりかえったり、点検したりする際に、くりかえしよみなおされることになります。情勢や運動の分析についての一人一人の認識が妥当であるかどうかを検討するときとか、任務の中味をつかみなおそうとするときにも、よみかえされることになります。

 そして同じ文書を二度、三度とよみかえしたときの経験を、おもいおこしてみて下さい。一回目と二回目に、そんなに長い月日が経過していないのにもかかわらず、一回目の自分のよみこなし方が、いかに不十分なものであったかを思い知ることが少なくないのではないでしょうか。ある問題についての文書の、あの表現、あの規定は十分だったのかなと思ってよみかえしてみると、自分が文書の表現をよみそこなっていた、そこにはちゃんと妥当な表現があったというような経験をしたことがあるのではないでしょうか。

 五年も一〇年もまえによんだことのある古典をよみかえしてみて感じる、理解の深さのちがいということとはちがう、もう一つ別の問題、一つの文章を一つの同じ時期に二度、三度とよみかえしていくときの、自分の理解の深まりという問題、認識の深まりとひろがりという問題を、わたしたちは感じるのではないでしょうか。

 これは頭のよさがどうかというようなこととはちがう、すべての人間にあてはまる認識の法則という問題です。だれにでもあることです。

 ここまでのべてきたことは、具体的な経験としてはだれでもが知っていることなのですが、それが認識の法則として、まとまった理解として、頭の中にインプットされていないということが多いようです。英語の単語や文章をおぼえるときには、例外なしにくりかえしていたという経験をもっているのですが。

 さて、それでは以上のような「文章による認識の深まりにおける一般的な法則」──くりかえすことで理解は深まる──ということを確認しておいて、『資本論』の世界にもどっていくことにしましょう。

全体をくりかえしてみるとどうなるか

 ここに一つの膨大なむつかしい文章があるということであれば、あるいはこの章、この節、このパラグラフ、さらにはこの一行、この数行がよくわからないということであれば、それをはじめからおわりまでくりかえしくりかえしよんでみて下さい。

 わたしに師匠として対して『資本論』学習をみちびいてくれた人は、「なんぼわからんいうても、一〇回もよんだらわかるよ」といいのこしてくれました。それでもわからない文章が『資本論』にはあるようですが。それは別の機会にあつかうことにして、ここでは「くりかえし」ということを二つにわけて考えるみることにしましょう。

 一つは全体をとおして、あともどりせずによみきってしまうというやり方をくりかえすという方法です。二度目にとりかかる人は、一回目のときとは全く比べものにならないほどわかるところがふえていること、自分が目にみえるようにはっきりと成長していることがわかってびっくりするはずです。

 なによりもまず、わかるところとわからないところがはっきりしてきます。一回目はそれがはっきりしないということになるのが普通です。わかるところとわからないところがはっきりするということは、一つの大進歩です。そうなれば、そのところに的をさだめて、それを一つ一つ「つぶして」いくことで一層ふかい理解へとむかうことができます。

 またわかったつもりになっていたところが、じつはそうでもなかった、その文章やパラグラフにこめられていた意味を、一段と深く理解することができるようになるということが、自分でもはっきりしてきます。

 三回目、四回目とすすんでいくと、全体像がみえてきます。全体のくみたて、各編、各章、各節の相互の関係がつかまれはじめます。「すでにのべたように」と書かれてあることは、どこにあるかがわかってきます。ここだけはどうしても自分の力にあまるなというところが、鮮明になってきます。

 こうなるともう、一種のおもしろさ、つぎつぎとわかってくることからくるよろこび、かしこくなっていくことのたまらないしあわせ、そしてもうやめられない、とまらないということになります。『資本論』にふりまわされるのではなく、『資本論』に対して主体を確立するということになってくるのではないでしょうか。

 一〇回もやると、もう『資本論』の現物を手にしなくても、第一巻でいえば、第一篇から第七篇までのくみたて、そしてその中にどんな章が入っているのか、節はどうなのか、その相互の関係はどうかということが、自分の頭のなかにはいっていて、スラスラと口からでてくるというようなところまでいきます。この問題はここにあるだけではなく別のところにもあるということまで、わかってきます。

 そしてそこまでくると、この知識の全体が、職場ごとや国民経済全体での資本の運動を考えるときに、動員されることになります。いまとマルクスの時代のちがいで、問題はどうかわっているかもわかります。そしてその判断が大体はずれていなかったということになることが少なくありません。

 さらには、ここはむつかしいところではなくて、はじめからスラスラとよめていたと思ってすすんできていたところに、一つの大きな落し穴のようなものがあって、わかったつもりでいたのにマルクスのいいたかったことをまるっきりよみおとしていたというようなことがでてきて、びっくりすることがあります。そしてこの大作の一行一行は、どんなにわかりやすく書かれているようにみえるところでも、おろそかによみすごすことのできないような、文字どおり凝集された内容がこめられていることをつねに自覚して、よんでいかなくてはならないという、そういう決心をあらたにすることになります。

 なお誤解をさけるためにのべておきますが、わたしたちのまわりには一回よみきってしまうだけで、『資本論』の全体像も部分も、あらかたつかんでしまうことのできた人がいますので、五回とか一〇回とかというのは、どこでもここでもあてはまることではないようです。
(吉井清文著「どうやって『資本論』をよんでいくか」清風堂書店 p69-75)

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◎「簡単にいえば、部分から全体へという過程に加えて、全体から部分ヘというものの考え方もできるようになるかもしれません。それは思考力、ものを考える力の進歩です。いわば、一次元的な線の上の運動を、二次元的な平面の運動に拡張するようなもので、それは、ほとんどその人の世界を変えるものであるといってさしつかえないでしょう。」

◎「この知識の全体が、職場ごとや国民経済全体での資本の運動を考えるときに、動員されることになります。」