学習通信050112
◎「信仰とは、目に見えぬ秩序に順応することにほかならない」と

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はじめに

 わたくしが小谷先生にお目にかかったのは、産経新聞に連載した現代の新しいルポルタージュ『巷の神々』の中で、雪女会教団を、いねば今日の新しい宗教のモニターとして描くために、お話をお聞きする機会を得たことによる。

 小谷先生との邂逅(かいこう)は、わたくしにとって予期した以上の多くのものを与えてくれた。それはいわば、信仰の真髄とも、核ともいえる、超現実の、換言すれば、神秘の事柄を体得できた人間に、わたくしが自身の体験として出会い、同じ人間というステータスで話し合うことで、相手の存在をいわば媒体として、自身の信仰のために求めていた多くの確かな手がかりを得たことだった。

 プラグマティズムの始祖であり、あのプラグマティックな哲学をつくり出した科学者でありながら、だれにもまして真摯に、情熱的に、宗教、あるいは、信仰について研究したウィリアム・ジェームズの言葉のように、信仰とは、目に見えぬ秩序に順応することにほかならない。

 その目に見えぬ力とは、各宗教、各派がそれぞれの言葉で言い表わしているか、いってみれば、われわれをこの地上にこの存在の形で与えたものであり、われわれが合理的に認識し得るわれわれの存在を、空間的、時間的に、はるかに超えたところで、われわれの存在を規定しているものにちがいない。

 ある人はその力の表示をとらえて因縁とよび、ある人はまた神とも仏ともいい、ある人はまたそれを霊魂ともよぶ。われわれは、この自らに付与された合理的な知覚ではとらえることのできない自らの霊というものの存在を予感したり、それを信じたりすることで、その先、そうした霊を通じ、われわれの存在を規定する、目に見えぬ大きな秩序というものへの帰依にたどりつくことができる。
 それが信仰である。

 われわれは、人間の原点に立ちかえり、そこから再出発しなければならない。

 しかし、今日のように、科学、すなわち合理主義というものを、しばしば全能なものと錯覚し、愚かなことに、信仰の対象のごとくにすえてしまった現代人は、実は、科学合理主義を超えた、もっと決定的な力を持つ、目に見えぬ力の秩序というものを悟りにくくなっている。

 われわれは生活の中で、情緒的、情念的信仰を欲することがあっても、欲すれば欲するほど、それを合理的に自らのうちに納得しようとする誤りを犯す。いずれにしても、われわれは納得する形で、信仰の核である霊なり因縁なり、目に見えぬ力の秩序というものをとらえたいのだが、それは、しょせん、教義経典といった言葉を通じてでは自らのうちにしまわれにくい。

 なぜならば、教義の言葉というものは、しょせん、論理でしかなく、言葉を目にし、あるいは聞くということも、われわれの合理主義的な知覚、認知の術のうちの一つでしかない。

 しかし、われわれが、もしわれわれと同じ肉体をもち、自らと同じ時間、空間の中に存在している一人の人間の中に、有無を言わさぬ、まぎれもない形で、そうした目に見えぬ力の現出を見れば、それが神秘であろうと、超現実であろうと、ひとつの体験として、それを自らに帰納しないわけにはいかない。

 なまはんかな知識で頭でっかちになった現代人は、最低自らの体験だけは信じざるを得ない。

 そして、いつの世においても信仰を求める多くの人間は、今日のわれわれのごとき人間でしかないのであって、そうした人間たちに、まぎれもなく、有無を言わさぬひとつの現出、目に見えぬ力の現出として信仰の手がかりを与えるために、今まで多くの聖人が現われ、古びた宗教を再び蘇生させる教祖、教主が現われてきた。

 そうした人間たちの中には、自らの力を自ら錯覚した、あやしげなものも多々あるが、しかしまた同時に、かつてキリスト教をつくり、仏教をつくった傑出した存在との同じ次元に近い、すぐれた人びともいるのである。
(小谷喜美・石原慎太郎「対話 人間の原点」サンケイ新聞 p1-4)

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ヘーゲル法哲学批判

序論

 ドイツにとって宗教の批判は本質的には済んでいるのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である。

 誤謬の天国的なオラーチオ・プロ・アリス・エト・フォーキスがやっつけられたからには、その誤謬の世俗的存在も巻添えをくっているわけである。天国の幻想的現実のうちに、そこに一人の超人を探し求めながら、ただ己れ自身の反映を見出したにすぎない人間は、己が真の現実を探し求める場合、また探し求めざるをえない場合に、ただ己れ自身の虚影のみ、ただ非人間のみを見出そうなどという気はもはやないであろう。

 無宗教的批判の基本はこうである。人間は宗教を作り、宗教は人間を作らない。しかも宗教は、己れ自身をまだ手に入れていない人間か、さもなくば既にまたぞろそれを失った人間か、いずれかの人間の自己意識と自己感情である。

しかし人間というもの、それは抽象的な、この世のそとにうずくまっているものなどではない。人間とはすなわち人間の世界であり、国家であり、世間である。

この国家、この世間が世の中というものの一つの倒錯した意識であるところの宗教を産み出す。けだしそのような国家、そのような世間が一つの倒錯した世の中だからである。

宗教はこの世の中の一般的理論であり、それの百科全書的綱要であり、通俗的な形を採ったそれの論理学であり、それの唯心論的ポアン・ドヌールであり、それの狂熱であり、それの道徳的批准であり、それのもったいぶった補充であり、それの一般的な、慰めと正当化との根拠である。

それは人間性の空想的実現である。けだし人間性はどのような真の現実性をも持たないからである。宗教にたいする闘いは、それゆえにひいては、宗教という精神的芳香をただよわせるあの世界にたいする闘いである。

 宗数的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた生きものの溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片である。

 人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。

 批判は鎖に付いた架空の花々をちぎりとったが、それは人間が無粋な、やりきれぬ鎖を身に付けんがためではなく、むしろ鎖を投げ捨てて活きた花を摘まんがためである。

宗教の批判は人間の迷いを醒ますが、それは彼が醒めた、分別づいた人間として考え、ふるまい、彼の現実を形成せんがためであり、彼が己れ自身をめぐって、したがってまた彼の現実的太陽をめぐって動かんがためである。宗教は人間が己れ自身をめぐって動くことをしないあいだ、人間をめぐって動くところの幻想的太陽にすぎない。

 したがって、真理の彼岸が消えうせたうえは、こんどは此岸の真理を確立することが歴史の任務である。人間的自己疎外の聖像がその正体をあばかれたうえは、こんどは自己疎外の正体をその聖ならぬもろもろの姿においてあばくことが、何よりもまず、歴史に仕える哲学の任務である。かくて天国の批判は地上の批判と化し、宗教の批判は法の批判、神学の批判は政治の批判と化する。
(「マルクス・エンゲルス8巻選書@」大月書店 p9-10)

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◎「宗数的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた生きものの溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片である。」