学習通信050113
◎秘密工作のコード名は「FUBELT」……。

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イタリア共産党の場合−「歴史的妥協」から党の変質ヘ

 イタリア共産党の場合は、路線としては同じく社会主義革命路線をとっていましたが、犯された失敗は、内容からいうと、フランスとはまったく対照的なものでした。

 イタリア共産党は、戦後の総選挙の得票率が一貫して二〇%を超え、一九七〇年代にはしばしば二〇%を超える(一九七六年六月三四・四%、七九年六月三〇・四%)という大きな政治的影響力をもっており、ヨーロッパでも「政権獲得にいちばん近い」位置にいる党だといわれていました。一九七六年の総選挙で共産党が躍進したときには、その直後に開かれた第二回サミット(先進国首脳会議)のなかでアメリカ、イギリス、フランス、ドイツの四カ国会議が開かれ、もし共産党が政権に参加したら、イタリアにたいする経済援助を停止する≠ニいう、内政干渉の異例の共同宣言を出したほどでした。

 この党が、一九七二年のチリの悲劇的な経験──軍部のクーデターで民主連合政権が打倒されたこと(同年九月)──に直面して、たいへんな危機感をいだいたのです。そこから打ち出されたのは、同じような悲劇をイタリアで生まないためには、イタリア国民を「二つの戦線」に分断させることがないよう、現に政権をにぎっているキリスト教民主党との連携という政策に転換する必要がある≠ニいう新しい方針でした(同年一〇月発表)。これが、一九七五年の党大会で確認され、「歴史的妥協」の方針と呼ばれました。この党大会は、NATOからの脱退というこれまでの方針をひっこめて、NATO加盟支持の方針への百八十度の転換を決めましたが、それもキリスト教民主党との提携をさまたげる政策的な障害を、共産党の側から取り除くためでした。

 共産党がそういう態度に転換したからといって、相手側が、共産党を仲間として政権に迎えいれるわけではもちろんありません。地方の自治体では、キリスト教民主党・共産党・社会党が共同して行政にあたっているところは出てきましたが、国政はそうはなりませんでした。

 路線転換の五年後の一九七八年、共産党、社会党とキリスト教民主党などイタリアの六つの政党のあいだでようやく「政策協定」が成立し、「歴史的妥協」の一歩前進かと言われたことがありました。イタリア共産党は、これで「議会与党」になった、「統治の党」になったと自己評価をしたのですが、結局、これは、共産党の入閣を認めないまま、「政策協定」で野党としての行動をしばる、ということでしかなく、翌七九年には、共産党は「議会与党」からの脱退を宣言せざるをえなくなりました。しかし、NATO肯定論への転換など、「歴史的妥協」によって生み出された右転換の主な点は、是正されないままに残りました。

 「歴史的妥協」の失敗のあと、イタリア共産党は、一九八〇年代にも、多数派になる道を求めてジグザグの模索を進めますが、どの試みも成功せず、結局、最後に選んだのは、一九九一年、党自身が共産党の名前も科学的社会主義も放棄して、社会民主主義政党への変質をとげることでした。こうして、長い歴史と大きな党勢を誇ったイタリア共産党は、党の多数派は社会民主主義政党(「左翼民主党」)に転身し、共産党の伝統を継ごうとする少数派は分裂して別の党(「共産主義再建党」)をつくるという事態にたちいたったのでした。

 イタリア共産党のこの経験を、革命論的な角度から特徴づければ、社会主義革命路線で国民の多数派を結集することの困難性にぶつかって、現在の政権党との妥協の道を模索し、自らとなえてきた社会主義革命の路線を捨てたばかりか、NATO脱退という当面の基本政策さえ捨ててしまい、ついには党そのものを社会民主主義政党に変質させてしまった過程だと、いうことができるでしょう。

 このように、ソ連の崩壊に先行して、ヨーロッパの資本主義国の二つの大きな党が、それぞれなりの大きな失敗を経験しました。ここには、さまざまな事情がありますが、二つの党が政治的進路でジグザグの模索をくりかえした根底には、革命の路線の上の問題──いわば革命路線の不確かさともいうべき問題があったことは、否定できない点でしょう。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p262-265)

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国際事件ファイル
チリ軍事クーデター
CIAが秘密工作

 三十五年前、南米のチリで、世界で初めて社会主義政権が自由選挙で選ばれた。当時のニクソン米政権は、これにより「ソ連とキューバの勢力拡大」を招き、共産党が強いイタリアなどに「同じ現象が広がる」恐れがあり「米国益への重大な脅威」になるとして、政権打倒に向け秘密工作を展開した詳しい実態が明るみに出た。

 米政府が民間調査機関「国家安全保障公文書館」などの要求を受けて公開した大量の秘密文書から分かった。
 一九七〇年九月、チリ大統領選挙で左派人民連合のアジェンデ氏が得票率約36%で一位になった。同氏は翌月の決選投票に勝てば大統領になるため、ニクソン大統領はヘルムズ米中央情報局(CIA)長官にそれを阻止せよと指示した。

 これ以後、対チリエ作は一貫してキッシンジャー大統領補佐官が主導、CIAに特別チームが設置された。秘密工作のコード名は「FUBELT」で、千万ドル(当時の為替レートで三十六億円)の資金が準備された。
 CIAはチリ軍部の三グループにクーデターの実行を働き掛け、催涙ガス弾や自動小銃、弾薬などを提供した。軍の政治介入に反対のシュナイダー陸軍司令官を誘拐し、アジェンデ派の仕業と見せ掛け、それを口実に軍がクーデターを起こす──というシナリオだった。

 しかし、一グループが同司令官を殺害してしまったため、工作は失敗、中止に追い込まれた。
 政治工作では、決選投票で保守系の国民党アレサンドリ候補の当選を図ったが、同候補自身が棄権してそれも挫折した。
 結局、十月の決選投票ではアジェンデ氏が圧勝。それ以後米国は、長期的にアジェンデ政権打倒を目指した。

 キッシンジャー補佐官の十一月五日付大統領あてメモは、米国は約十億ドルの対チリ投資を失い、チリの約十五億jの対米債務が不履行となる恐れがあるなどと警告した。
 同月九日付の国家安全保障決定メモ九三号は、政権基盤を弱体化させるため、国際金融機関からチリヘの信用供与を制限し、世界一の生産量がある銅輸出に悪影響を与える策の検討を命じた。

 CIAは軍部や非マルクス主義政治勢力に秘密資金計六百五十万ドルを渡し、関係を維持した。
 チリ経済は悪化、国内情勢は混乱し、七三年九月十一日軍部はクーデターを実行し、成功させた。

 米政府はその数日前から、軍部内の正確な動きを熟知、クーデターは成功すると読んで、直接的には介入しなかった。しかし、それまでもCIAは@対チリ経済封鎖A与党人民連合内の対立扇動B保守系紙メルクリオ紙を通じた反アジェンデ政権宣伝──などの工作を展開。現実には軍部は、米政府がクーデターを支持することを知っていた。国家安全保障公文書館のコーンブルー上級分析官は「米政府はクーデターの環境を形成していた」と指摘する。(共同通信特別編集委員 春名幹男)
(京都新聞 050111)

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チリの独裁者 ピノチェト元大統領
 自宅軟禁から保釈へ 人権侵害の被害者ら強く反発

 【メキシコ市 目菅原啓】チリの軍政時代 一九七三──九〇年)の人権弾圧事件を担当するグスマン判事は十日、殺人・誘拐罪で起訴され、自宅軟禁中の独裁者ピノチェト元大統領(八九)の保釈を認める判断を下しました。

 弁護側は、同元大統領の健康状態が裁判審理に適さないと主張してきましたが、最高裁は四日、この主張を退け、裁判手続き続行を命じ、自宅軟禁が適正であるとの決定を行ったばかりでした。

 判事による保釈決定は、最終的に控訴裁の許可をえなければ実行されませんが、数日中にも許可が下りるとみられています。この場合、元大統領側は二百万ペソ(約三十七万円)の保釈金を支払って、自宅軟禁を解かれることになります。

約3万人拷問

 軍政下のチリでは、アジェンデ人民連合政権支持者や軍政反対を主張する活動家が徹底的に弾圧され、約三千二百人が死亡・行方不明となりました。南米各国の軍事政権と相互協力した弾圧「コンドル作戦」も展開され、最近発表された政府報告によると、チリだけで二万八干人が拷問を受けたことが明らかとなっています。

 ピノチェト元大統領の自宅は、敷地内にプールから教会まであるという豪邸であることから、弾圧被害者の家族らは、自宅軟禁措置そのものにも不満を募らせていました。今回の保釈措置について、同元大統領の弁護側は「チリ国民すべてが有する権利」とのべています。

脱税の容疑も

 同元大統領は米銀行の隠し口座に絡む脱税容疑でも追及されています。地元紙は十日、昨年十一月、この講座から一千四万j(約二千五百万円)が引き出され、同元大統領の家族に渡ったと報じました。
 被害者家族側の弁護士エドゥアルド・コントレラス氏は、保釈中に証拠隠滅を図る恐れのある同元大統領は「社会にとっての危険人物だ」として、保釈決定の撤回を求める立場を明らかにしています。
(しんぶん赤旗 050112)

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ベンセレモス(われらは勝利する)Venceremos
【作詞】クラウディオ・イトゥラ、セルヒオ・オルテガ
【作曲】セルヒオ・オルテガ Sergio Ortega
【訳詞】田中道子・麦笛の会

Desde el hondo crisol de la patria
Se levanta el clamor popular,
Ya se anuncia la nueva alborada,
Todo Chile comienza a cantar.
Recordando al soldado valiente
Cuyo ejemplo lo hiciera inmortal,
Enfrentemos primero la muerte:
Traicionar a la patria !jamas!

Venceremos, venceremos,
Mil cadenas habra que romper,
Venceremos, venceremos,
La miseria sabremos vencer. (bis)

Campesinos, soldados y obreros,
La mujer de la patria tambien,
Estudiantes, empleados, mineros
Cumpliremos con nuestro deber.
Sembraremos las tierras de gloria,
Socialista sera el porvenir,
Todos juntos seremos la historia,
A cumplir, a cumplir, a cumplir.

Venceremos... (bis)

1.祖国の大地深く 叫びがわき起こる
  夜明けが告げられて チリ人民は歌う
  勇敢な戦士を われらはおもいおこし
  祖国を裏切るより 我らは死をえらぶ

  *ベセレモス ベンセレモス
   鎖をたち切ろう
   ベセレモス ベンセレモス
   苦しみをのりこえよう
   ベセレモス ベンセレモス
   鎖をたち切ろう
   ベセレモス ベンセレモス
   苦しみをのりこえよう

2.祖国の労働者よ 祖国の婦人もまた
  学生よ農民よ 我らとともに進もう
  血ぬられた祖国を いつくしみ守り
  銃剣のまえに われらは胸をはる

  *くりかえし

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1971年のチリ・アジェンデ大統領による人民連合政権のテーマソング。現在では「自由チリ復活」の合言葉。連帯の唄として世界中で愛唱されてます。

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◎「ジグザグの模索をくりかえした根底には、革命の路線の上の問題──いわば革命路線の不確かさともいうべき問題があった」……。