学習通信050114
◎「用心深く、何か残っていないかと」……。
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潮流
「ある日/会社がいった。/『あしたからこなくていいよ』……」。そう告げられたとき、人はどう答えるのでしょう▼気になって、石垣りんさんの詩「定年」の、つぎの行に目を移す。「人間は黙っていた。」。なぜだ? 石垣さんは、さらに読者に謎をかける。「人間には人間のことばしかなかったから。」と▼とにかく、「人間」は、つぶやくしかありません。「そんなこといって!/もう四十年も働いて来たんですよ」。石垣さんが銀行に就職したのは、一九三四年、十五歳のときでした。空襲で家を焼かれ、彼女の働きが、体の不自由な父や、義母、弟ら一家を支えました
▼謎ときは、むずかしくありません。「会社」に通じるのは、会社の言葉だけです。「人間」の言葉は通じません。しかし、「人間」の方は、「会社」の言葉をよく聞き分けられるのです。というわけで、「人間」が異議を申し立てたら「会社」がどう答えるか、分かっています。いっても無駄か……▼「たしかに/はいった時から/相手は会社、だった。/人間なんていやしなかっかた。」(詩集『略歴』から)。詩は、ここで終わります。三十年前の作品です。やさしい言葉でぞくっとする詩を書いた石垣さん、昨年暮れ、八十四歳で亡くなりました
▼あきらめているようにみえながら、人の会社化を拒んで「人間」でありつづけた誇りも伝わってくる、「定年」。あらためて考えさせます。では、「会社」を人間化するために、人はどうはたらきかければいいのか、を。
(しんぶん赤旗 050109)
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詩を書くことと、生きること
1
小学生の時から、見よう見真似で、詩を書きはじめました。綴り方の時間に作文を書くのはたのしいことでしたが。それとは別に、散文とは違った形の表現方法、短歌とか、俳句とか、そのころではまだなじみの薄い、詩の形のあることが、私をひきつけました。勝手に教科書以外の、幼年雑誌、少女雑誌を読みあさって、四百字詰原稿用紙、って、どれをいうのだろう、と首をかしげながら、投書規定などを見て、投稿することを覚えました。書きながら、読みながら、出しながら、書きながら、この行為のごく自然なくり返し、いとなみ−。
家は、子供を働きに出さなければならないほど生活に困っておりませんでしたが。母が私の四歳のとき亡くなり、次の母も、やがてまた次の母も死ぬ、というような、少し複雑だった家族関係の中で「母親のないのが、お前のビンボウ」と里方の祖母が、よく私の顔をのぞいてさみしく笑ったものでしたが。その貧乏がもたらした、もろもろの情感は、まけ惜しみではありますが、私にとって、充分豊富なものでした。
私は早く社会に出て、働き、そこで得たお金によって、自分のしたい、と思うことをしたい、と思いました。で、学校を出なかったのは自分の責任で、誰を恨む資格もありません。
高等小学校二年生は、だいたい翌年、働きに出るため、職業紹介所の人が、生徒の希望を聞きながら面接に来たものですが。私は「店員」と答えました。上級の優等生がデパートの食堂につとめて、白いエプロンのうしろを大きな蝶結びにしているのが、とても立派でしたから。
すると若い担当員は、じっ、と私の目を見て「むつかしいよ」と言いました。昭和九年、少女にとってさえ、深刻な就職難の時代でした。私は二つの銀行に振り向けられ、そのひとつに入社いたしました。それ以来三十年余り。今日まで、同じ所で働いています。
余談になりますけれど。はじめて月給をもらったとき、唇から笑いがこぼれてしまって、とてもはずかしかったのを思い出します。皆スマシテいましたから。いま思えば、この時、私と同じようにお金も笑いこぼれていなければならないのでした。なぜなら、私はこのお金で自由が得られると考えたのですが、お金を得るために渡す自由の分量を、知らずにいたのですから。
とにかく、その辺を社会の出発点といたしました。数え年十五歳の春でした。
つとめする身はうれしい、読みたい本も求め得られるから。
そんな意味の歌を書いて、少女雑誌に載せてもらったりしました。とても張り合いのあることでした。
と同時に、ああ男でなくて良かった、と思いました。女はエラクならなくてすむ。子供心にそう思いました。
エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ、と思ったのです。愚か、といえば、これほど単純で愚かなことはありません。
けれど、未熟な心で直感的に感じた、その思いは、一生を串ざしにして私を支えてきた、背骨のようでもあります。バカの背骨です。
エラクなるための努力は何ひとつしませんでした。自慢しているのではありません。事実だっただけです。機械的に働く以外は、好きなことだけに打ちこみました。
その後、第二次世界大戦がはじまり、敗戦を迎えるのですが。
戦後、女性は解放され、男女同権が唱えられ。結成された労働組合の仕事などもいたしましたが。世間的な地位を得ることだけが最高に幸福なのか、今迄の不当な差別は是非撤回してもらわなければならないけれど。男たちの既に得たものは、ほんとうに、すべてうらやむに足りるものなのか。女のして来たことは、そんなにつまらないことだったのか。という疑いを持ち続けていたので、職場の組合新聞で女性特集号を出すから、と言われたとき、書いたのが次の詩でした。
私の前にある鍋とお釜と燃える火と
それはながい間
私たち女のまえに
いつも置かれてあったもの。
自分の力にかなう
ほどよい大きさの鍋や
お米がぷつぷつとふくらんで
光り出すに都合のいい釜や
劫初からうけつがれた火のほてりの前には
母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。
その人たちは
どれほどの愛や誠実の分量を
これらの器物にそそぎ入れたことだろう、
ある時はそれが赤いにんじんだったり
くろい昆布だったり
たたきつぶされた魚だったリ
台所では
いつも正確に朝昼晩への用意がなされ
用意のまえにはいつも幾たりかの
あたたかい膝や手が並んでいた。
ああその並ぶべきいくたりかの人がなくてどうして女がいそいそと炊事など
繰り返せたろう?
それはたゆみないいつくしみ
無意識なまでに日常化した奉仕の姿。
炊事が奇しくも分けられた
女の役目であったのは
不幸なこととは思われない、
そのために知識や、世間での地位が
たちおくれたとしても
おそくはない
私たちの前にあるものは
鍋とお釜と、燃える火と
それらなつかしい器物の前で
お芋や、肉を料理するように
深い思いをこめて
政治や経済や文学も勉強しよう。
それはおごりや栄達のためでなく
全部が
人間のために供せられるように
全部が愛情の対象あって励むように。
(「石垣りん詩集」思想社 p126-129)
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月給との対話
月給というものをはじめて手にしたのは、一九五二(昭和二十七)年の四月である。三月になんとか大学の法科を卒業して(というより、友人の忠告と援助で、かれらに専門書の大部分とノートを借りて、一年おくれて卒業させてもらったのだ)、なんとか保険会社に入社することができたのだった。ほとんどの会社は、前年のうちに試験はもちろん採用もきめていたから、わたしを入れてくれたのは、三流か四流かわからない生命保険会社だった。
二月に大学で、ポポロ事件とのちによばれるような、学生演劇公演への私服警官侵入とその摘発・抗議の事件があり、五月には、メーデー事件が起きたその年の四月である。サンフランシスコ条約が発効したいわば、戦後史のひとつの画期の年だった。
たしか、八千四百円だったと覚えている。かけソバが三十円、玉子丼が八十円、カツライスが百円の時代で、軍隊下がりの服や靴がまだ街で風変わりというほどではなかったころだ。ラーメンも焼酎も、まだ一杯三十円だったような気がするが、これはもうちょっと上がっていたかもしれない。
わたしは、いまの妻の横浜の家に下宿していた。下宿料は三千円だった。それに、大学卒業のとき、授業料をすっかり滞納していて、それを四年分六千円払うのに、妻の母から借金していたので、その月賦を返した。新しくつくった洋服の月賦を払うと、わずかしか残らなかった。
アルバイトで、ちびちびかせいだことはあったが、それも今日ほど実入りのいい口は少なかったので、その初任給は、はじめてわたしの労働力をまとめて売った手ごたえのあるまとまった金だった。だが、大半が即座に右から左へ流れる破目になって、手ごたえは失望に変わった。
これが月給日の悲哀の知りはじめだった。
月給袋 石垣 りん
縦二十糎(センチ)
横十四糎
茶褐色の封筒は月に一回、給料日に受け取る。
一月の労働を秤にかけた、その重みに見合う厚味で
ぐっと私の生活に均衡をあたえる
分銅のような何枚かの紙幣と硬貨。
この紙袋は重宝で、手にした時からあけたりとじたりする。夜と昼が交替にやってくる私の世界と同じよう
古びた紙幣を一枚ひきぬけば
今日の青空が頭上にぱらりと開いたりする。
街の商店はずらりと並び
間口いっぱい、こぼれるほど商品を積上げているけれど
あれはみんな透明な金庫の中の金
生みたての玉子
赤いりんご
海からあがったばかりにみえる鰯の一山も
うっかり出した子供の手までうしろに廻すほど
何かが見張っている
銀行の廊下を歩く守衛のような足音が
いつもひびいている道である。
そこで私は月給袋から、また一枚をとり出す
額面を鍵穴にあわせ
うまく、あの透明な金庫をあけさせる
ついでに売る人の口の穴までにこやかにあけはなしながら。
私がラッシュの国電でもみくちゃになれば
この紙袋も日増しにくたぶれ
持主におとらずしわくちゃになる。
そして最後の硬貨も出払った
捨ててもいい、というときに
用心深く、何か残っていないかと中をのぞくといるわ、いるわ
そこには傷んだたたみが十二畳ばかり敷かれ
年老いた父母や弟たちが紙幣の口から
さあ、明日もまた働いてきてくれ
と語りかける。
どうして捨てられよう
ちいさな紙袋に吹けば飛ぶようなトタン屋根がのっていて
台所からはにんじんのしっぽや魚の骨がこぼれ出る
月給袋は魔法でも手品の封筒でもない
それなのに私のそそぎこんだ月日はどこへいってしまったのかそれをさがすときに限り
紙袋はからになって一枚だけ、手の上にのこされる。
石垣りん(一九二〇―)が、『銀行員の詩集』第七集(一九五七年版)に発表した詩である。この当時、わたしはさいしょに就職した保険会社を、転勤拒否で懲戒解雇され、べつの小さな企業内の労働組合の書記をしていた。この作品には、一家をささえて銀行で働く婦人行員の、月給にまつわるくらしの心労と、しずかな急落とが、デリケートにしかも余分な感傷ぬきに語られている。
わたしにしても、さいしょ月給を手にしたあと、月給日から月給日までのあいだを、タメ息でツナ渡りするような毎月がつづいた。そうしたなりわいは、いまでもつづいている。金がハネをはやしてとんで行く日、それを呆然と見まもる日、それが月給日だった。
問題が、日本の労働者のおかれている低賃金にあることは、いうまでもない。それと同時に、働くことの意味が、けっきょくは月給のためでありながら、それがあまりにも少なすぎるという空しさをともなう働きざまが、月給日にあらためて、アタマにくるのだ。
月給の第一は、それでちゃんとくらしていけるかどうかという高い安いの絶対額だ。ちゃんとくらす、というそのちゃんとの中身だって、考えなければならぬ。
ところが、経営者というのは、長年の経験から、それに微妙な差を、つけてみせる。絶対額よりか、他のものとの比較で、喜ばせたり悲しませたり、ハッパをかけたりおどかしたりする。これはなかなかきくのである。
労働組合の賃上げ闘争をなん度かやったけれど、けっきょくはこうした擾乱とのたたかいだったように思う。使っていただいて、そしてお給料をいただく、そういう気分は、それほどはっきりはないにせよ、なかなかそこから自由になれない。
いまでも、このたたかいはつづいている。そして、どこへ行くのか。
こんな詩もある。
ずっとのちのひとびとに(W) ギュビィック
きみたちもよくわかってくれようが むろん
おれたちも 働くのが嫌いだったわけではない
おれたちにも 労働への愛着と尊敬があった
みんなよく じぶんの仕事の話をしたものだ
労働者にとって 機械はなんでもなかった
機械を操作する腕前を見せるのは 楽しかった
例えぱ 労働者は まるで神さまのような身ぶりで
リベットを差し出して ぐるっと廻して見せた
だが そんな手なれた労働のしぐさを愛して
しかも その労働力を買い手に売るのは
ある意味では いっそうつらいことだった
月給いくらで! なんというこの言葉のひびき
そこで君たちに告白したくなるのだ おれたちは
君たちのことを考えて やっと微笑むことができたのだと
(一九五四・二・四)(大島博光訳)
フランスの詩人ギュビィック(一九〇七ー)の連作「ずっとのちのひとびとに」のひとつだ。そのIは「ずっとのちに ちがった労働を知るだろう君たち」と書き出されている。「働くことがまるで祭りのようなもの」となるだろう未来の労働者を「君たち」とよびながら、つぎの世代に語りかけているのである。搾取のない、空しい労働のない、月給の奴隷でない未来の社会(社会主義社会といってもいいだろう)への希望と確信がうたわれている。
しかし、現代にすっかり愛想をつかして、未来に夢をかけているのではない。そうではなくて、ぎゃくに現代が必ずそういう未来へと行きつかざるをえない、行きつかせてみせるというアピールを、同時代の人びとに向けて発しているのである。
(土井大助著「詩と人生について」飯塚書店 p98-105)
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◎「働くことがまるで祭りのようなもの」となるだろう未来の労働者を「君たち」とよびながら、つぎの世代に語りかけている……。