学習通信050116
◎「かれらは子どものうちに大人をもとめ」……。

■━━━━━

 安心よりも不安をください

 あるとき一人の母親が、私の勤める病院の育児外来に赤ちゃんを連れてきて、こんな質問をしました。
「先生、九ヶ月になる子どもが、寝ながら頭をゴンゴンと後ろにぶつけるしぐさを頻繁にします。少し気になったので、同じころに生まれた赤ちゃんを持つ友人にその話をしたら、『それはきっとあなたのストレスが子どもに伝わっているからよ』と言われ、とても心配です。やはり、ストレスなのでしょうか」

 彼女は、友人から言われた「ストレス」という言葉をしきりに気にしているようでした。
 他にも「虐待」や「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」「トラウマ」といった流行りの言葉に敏感で、子どもに手を上げたくらいで「これは虐待になるのか」と心配そうに聞いてくる母親もいます。
 こんなとき最近の母親は、安堵感をおぼえる言葉を言われるより、心理的原因がどこかにあると指摘されるほうが、かえって安心するように見えることがあります。

 もし私が「赤ちゃんのしぐさにはいろいろなものがあるから、特に気にしなくていいですよ」と言ったとします。するとたいていの母親は、「ちゃんと見てくれない不親切な医者」だと不信感をもつか、はっきりとした原因を明らかにして、納得させてくれるよう求めます。そして、自分が想像していたことを医者が言いあててくれるほうが、彼女たちの期待を裏切らないようで、どこかホッとした表情を見せます。育児に関する「情報」が多すぎるために、ほんの些細なことでも疑心暗鬼にならざるをえないのでしょうか。

 それでは、先ほどの赤ちゃんは、本当に母親のストレスのせいで変な行動をとったのか、そのことから説明することにしましょう。

 自分の存在を認識する

 赤ちゃんは、生まれて二ー三ヶ月もたち首がすわってくると、仰向けではなく、視界の広がる身体を起こした抱き方を要求するようになります。機嫌を損ねて火がついたように泣いていても、身体を起こした姿勢にして抱くと泣きやむことがあるのは、そのためです。

 またそのころの赤ちゃんは、自分の手で顔を触るしぐさをして、しばらくすると手を口に入れたり、右手と左手を合わせたりします。次に、手を伸ばして足をつかんだり、舐めたりするようになります。あるとき自分の手や足を見て、「おや、これは何だ?」と不思議に思うのかもしれません。

 このように赤ちゃんは、手や足を使って身体感覚を発達させ、自分の存在を確かめながら育っていきます。
 その後、目の前の世界だけでなく、自分の後ろにもどうやら世界があるらしいことに気づき始めます。生後九ヶ月から一〇ヶ月ごろのことです。

 実は、赤ちゃんが後ろへ頭をゴンゴンとぶつけるしぐさについては、一〇ヶ月前後の赤ちゃんを持つ母親からよく質問されることです。このしぐさをする時期と、頭や後方を気にする時期がちょうど一致することから、この二つは関係があるのではないか、と私は思っています。だとすると、このような赤ちゃんのしぐさを何でも親のストレスや欲求不満などと結びつけるのは、少し考えすぎでしょう。

 たとえば、生後ニヶ月の赤ちゃんによく見られるしぐさに「指しゃぶり」があります。赤ちゃんの指しゃぶりは、「甘えが抜けない」「お腹が減っている」「ストレス」など、いろいろな理由を私たちに想像させます。事実、「空腹のサインだろう」と考え、研究をしていた学者もかなりいました。

 ただこれについても私は、「赤ちゃんは、口や舌を使って自分の手を知覚しているのではないか」と考えています。このように、赤ちゃんのしぐさには、親の勘違いを招いてしまうものが多く含まれているのも事実なのです。

 発達としてのベビーサイン

 最近、母親たちの間で話題になっているものに「ベビーサイン」があります。言葉を使えない時期の赤ちゃんが、言葉の代わりとなるサインを使って親と「会話」をする方法です。たとえば、腕を左右に大きくゆっくり振ると「ゾウ」、手を合わせると「いただきます」をあらわします。他にも「車」「ボール」「ミルクを飲みたい」といったサインで、親子のコミュニケーションをはかることができます。

 「物まね」や「擬音語」を使った会話は、昔から子育ての中で自然と行われてきましたが、近ごろでは、ベビーサインの「模範例」が本にまとめられ、言葉による意思伝達ができなくても、親子の絆を深める育児ができると注目されています。

 一方でこんな話もあります。「ベビーサインを取り入れた子は、取り入れなかった子よりも知能が高くなった」「ベビーサインの教室で、すでに能力の格差があらわれている」というものです。一歳そこそこの我が子を見て、「他の子はできるのに」と心を痛めている親もいて、その思い込みの強さに驚いてしまいますが、私が専門としている発達行動学の中でも、実はいくつかのベビーサインが研究されています。

 しかしそこでは、育児書に書かれたベビーサインとは少し違った解釈がされています。最大の違いは、「親が子どもに教えるものではなく、子どもによる自発的なメッセージである」という点です。赤ちゃんが胎児のときから生命を賭けて獲得した力、能力といってもよいでしょう。

 そしてそこには、親に誤解を与えるサインが多く潜んでいます。先ほどの指しゃぶり以外にも、「模倣」「新生児微笑」「泣く」といったさまざまなサインがあります。

 胎児と新生児の「模倣」の違い

 まず「模倣」についてみてみましょう。
 何かを真似るという行動は、人間が言葉や技術を習得する方法として非常に重要です。そしてこの模倣は、生後間もないころから身についています。

 たとえば、生まれたての赤ちゃんに「舌出し」をしてみせると、赤ちゃんはそれを真似て舌を出します。真似をしてくれると育児の疲れも吹き飛んで、親としては非常に嬉しいものですが、ここにも親の勘違いがあるようです。

 発達心理学を研究している金沢大学の池上貴美子教授は、出産予定日よりも早くに生まれてしまった未熟児に、口の部分に穴をあけたヒトの顔の絵を見せる実験をしました。そして、口から舌の形をした紙が出し入れされる様子を見る赤ちゃんの表情を観察したのです。すると、何度も舌の動きを見せられているうちに、未熟児でも舌を出して真似をすることがわかりました。

 この実験がおもしろいのは、「未熟児でも舌を出した」ということです。なぜかというと、未熟児は、受精日数から割り出した出産予定日以前に生まれた、いわば「子宮の外に出た胎児」だからです。ですからこの実験は、人間がお腹の中で、すでに何かの刺激に対して模倣しようとする能力を身につけていることの発見につながりました。

 同時に、同じような実験を生後三ヶ月の満期出産児に行うと、未熟児とは反応に違いがあることもわかりました。未熟児の場合、絵に描いた顔の目や口の位置がバラバラでも模倣する子が多いのですが、生後三ヶ月の満期出産児では、目や口や鼻などが「顔」として並んでいないと模倣しない子のほうが多かったのです。ということは、生まれたばかりの赤ちゃんが親の真似をしたからといって、親の顔を理解したうえで模倣しているかどうかは定かではないのです。

 理由もなく「微笑む」「泣く」

 次の「新生児微笑(生理的微笑)」も、生まれて間もない赤ちゃんに多く見られる有名なしぐさです。私たちは、赤ちゃんが口元を緩めるだけで幸せな気持ちになります。しかし、これも親の解釈とはズレがあります。赤ちゃんは胎児のときからこのような表情をしますが、それは嬉しいわけでも幸せなわけでもないのです。たんに微笑んでいるように見えるだけなのです。

 同じように、「泣く」というしぐさにも、特に意味のないときがあります。
 授乳を例に挙げてみましょう。小児科では、一般的に一ヶ月健診を行っています。これは、赤ちゃんが子宮の外の生活に慣れたかどうか、親が順調に育児をしているかどうかを知る大切な機会です。

 この一ヶ月健診で、最近よく太った赤ちゃんを見かけます。以前私のところに、生後一ヶ月で体重が四・七キロもある子どもがやってきたことがありました。そのことを指摘すると、母親は、「太りすぎですか?」とあまり気にしていないようです。「一日に五〇グラム以上も増えているから、少し多いと思いますよ。お乳はどんなときにあげているの?」と聞くと、赤ちゃんが「泣くたび」にお乳をあげると言います。また、多くの母親と同じように、「与えると必ず吸うから、お腹がすいていると思っていた」と言うのです。

 かつてアメリカでは、授乳時間と量を徹底して守ることが流行していました。日本でも、昔は授乳量や回数を細かく定めたりしていました。しかしその後、揺り戻しがみられ、飲みたいときに飲みたいだけ飲ませるやり方が多くなり、赤ちゃんが泣くたびに与えてしまう親が増えてきました。その結果、赤ちゃんの体重が増加しすぎるという現象が起きてきたのです。

 実は生まれて一ヶ月くらいの赤ちゃんの哺乳は、ほとんど「反射的」です。お腹がすいていなくても、口に物を入れられると勝手に吸ってしまいます。

 多くの親が「お腹がすいて泣く」と思っていますが、生後一ヶ月ほどの「泣き」には、空腹でも排泄でもなく、ただ単に泣いている場合があります。理由もなく「泣いて」、本人も与えられると「反射的」に飲んでしまうので、母親はついお乳をあげてしまうことになるのです。

 生まれてすぐの赤ちゃんが理由もなく「微笑む」のと同じように、「泣く」ことも胎児期から備わっている能力なのです。私の観察では、胎児も自発的に泣いていることがわかっています。

 ではなぜ新生児微笑をするのかといえば、ちょっと笑うことで簡単に親の愛情を獲得することができるからです。親の意識を自分のほうに向け、親に養育してもらうためです。

 このように赤ちゃんは、指しゃぶりや模倣、新生児微笑、泣きなどを使って、一生懸命に親とのコミュニケーションをはかろうとしています。それによって親は勘違いする、というより、赤ちゃんの都合のいいように動かされているのです。

 赤ちゃんは思いどおりにならない

 子育て経験のある方なら、「赤ちゃんにも言葉≠ェあれば、もっとスムーズにコミュニケーションができるのに」と思ったことがあるのではないでしょうか。特によく泣く子どもの場合、言葉による意思伝達ができれば、母親のストレスは格段に減るはずです。毎日泣き通しだと、何がしてほしいのか、何が気に入らないのかがわからず、イライラします。

 もし、冒頭で紹介した頭をゴンゴンと打ちつける赤ちゃんが、「最近やたらと頭の後ろのほうが気になってさ」とでもしゃべってくれていれば、母親は、自分のストレスが子どもの異常行動を引き出しているのではないか、と気を揉まずにすんだことでしょう。

 ところがこのごろ、「自分の子どものことがわからない。母親として失格だ」と自己嫌悪に陥る母親が増えているように感じます。また、思いどおりにならないと、必要以上に落ち込んだり苛立ちを感じる親も少なくありません。

 しかし赤ちゃんのいろいろなしぐさを観察していると、「育児というのは、そもそも親の勘違いから始まるのではないか」と思わずにいられないことがたくさん見つかってきました。

「だから、赤ちゃんの気持ちを親が理解できないと悩むのも、育児のための重要なステップなのだ」と思うようになったのです。
(小西行郎著「赤ちゃんと脳科学」集英社 p12-21)

■━━━━━

 子どもを生まれたときからずっと眺めて、時間とともに起こる変わりぐあいを観察しよう。すると、気づくだろうが、心が感官によっていよいよ多く観念をあてがわれるようになるにつれ、心はますます目覚めるようになる。心は、思考する素材を多くもてばもつほど、多く思考する。ある時間たつと、心は、もっとも見慣れて永続的に印銘されてしまった事物を知り初める。

こうして、心は、日々交わる人物をだんだん知るようになって、見知らぬ者と区別する。これは、感官が心に伝える観念を心が把持して識別するようになる実例であり、また、その結果である。そこで、私たちは心がこれらの点でだんだんに向上するようすを観察でき、観念の拡大・複合・抽象や観念についての推理やそれらすべての内省や、いろいろ他の機能を行使するように進歩するようすを観察できよう。これについては後にさらに語る機会があろう。

 してみると、いつ人間は観念をもち始めるかとたずねられるとしたら、初めてなにか感覚するときというのが真の答えだと、私は思う。なぜなら、感官がなにかの観念を伝え入れないうちは心になんの観念もないように見えるから、知性にある観念は感覚と同時だと、私は想うのである。この感覚とは、身体のある部分の印銘ないし運動であって、知性にある知覚を産むようなものである。心が知覚・憶起・考察・推理などと呼ばれる作用で最初にたずさわると思われるのは、外部対象が私たちの感官に行なうこうした印銘についてなのである。
(ジョン・ロック著「人間知性論」岩波文庫 p154-155)

■━━━━━

 人は子どもというものを知らない。子どもについてまちがった観念をもっているので、議論を進めれば進めるほど迷路にはいりこむ。

このうえなく賢明な人々でさえ、大人が知らなければならないことに熱中して、子どもにはなにが学べるかを考えない。

かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p18)

■━━━━━
◎「そこで、私たちは心がこれらの点でだんだんに向上するようすを観察でき、観念の拡大・複合・抽象や観念についての推理やそれらすべての内省や、いろいろ他の機能を行使するように進歩するようすを観察できよう」……。