学習通信050117
◎「いろいろな真理がありうる」というのが真理なら……。

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「なぜ」に答えられない科学

 自然を相手に研究する科学者は、少なくとも机に向かっている間は唯物論者であり、神のことは念頭にない。そして、立ち向かっている自然の謎を解くにあたって、神の助けを得ようとも考えていない。しかし、なぜ、このような美しい法則が成立しているのか、自然の絶妙な仕組みがどのように準備されたかをふと考えるとき、それを神の御技と考える人はいる。

 現在の自然科学の目標は、対象たる物質を所与のものとして、その起源・構造・運動・変化の法則性を明らかにすることにある。たとえば、ニュートンは、木から落ちるリンゴの運動と太陽をめぐる惑星の運動は同じ万有引力によって引き起こされており、その力の強さは距離の二乗に反比例することを明らかにした。

このとき、「万有引力が距離の二乗に反比例していれば、これらの運動が正確に再現できることを証明した」のであって、「なぜ万有引力の法則が距離の二乗則になっているのか、なぜ三乗則ではないのか」を明らかにしたわけではない。もし、万有引力が距離の三乗に反比例する宇宙があれば、その宇宙の構造は私たちの宇宙とはまったく異なっていることだろう。そのような宇宙があっても別に構わないが、「少なくとも、この宇宙では、万有引力は距離の二乗に反比例している」と言っているのに過ぎない。

 つまり、科学者は、「法則がなぜそのようになるのか」という問いに答えようとしているわけではなく、「そのようになっていることを証明しようとしている」だけである。なぜ空間は三次元なのか、なぜ光の速さは秒速で三〇万キロメートルなのか、なぜ電子の質量は五一〇キロ電子ボルトなのか、等々の基本的な問いかけには答えることができない。

「そうなっている」としか言えないのだ。あるいは、「神がそうした」のだと信じ、自然の存在そのものや自然が従っている法則を、神の証と考える科学者もいないわけではない。むろん、自然科学の最終目標はそれらの「なぜ」に答えることにある、とする無神論者の方が多いのだが。
(池内了著「物理学と神」集英社新書 p3-4)

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真理について

 真理! 真理!

 「幽霊の正体見たり枯尾花」という川柳がある。
 宵闇のなかに白く動くものがあって、「あ、幽霊だ」とキモをつぶしかけたが、気を静めてよくよく目をこらすと、なんのことはない、枯れススキがその正体であった、というわけだ。

 「真理」とは、ただしい認識内容をいう。この場合、「枯れススキだ」という認識は真理であり、「幽霊だ」というのは真理ではない。

 最近は、住宅地にススキを見かけることもあまりなくなった。だから、白く動いたのはとりこみ忘れた物干竿のシーツだったということもあるだろう。この場合には、「あれはシーツだ」というのが真理であって、他の認識は真理ではない。一つのものごとについての真理は、つねにただ一つでしかありえない。

 「真理」ということばをこんなふうにつかうと、何か真理の品格がおちるように感じる人があるかもしれないが、真理とはもともとただしい認識内容のこと、ただそれだけをいうのだ。

 「プラウダ」というロシア語は「真理」「真実」と訳される。そしてこれはソ連共産党の機関紙の名前だ。日本におきかえれば『赤旗』というところ。もっとも、最近のソ連の『プラウダ』がつねに真理を語っているかどうか、これはまったく別問題だが。

 ところで、ソ連のある家庭を訪ねた人の話だが、ちょうど母親が子どもを叱っているところにいきあわせた。子どもの尻をたたきながら「プラウダー、プラウダー」といっている。「赤旗! 赤旗!」というわけか、もしくは「真理! 真理!」というわけか。

 じつは、なんのことはない、「ウソをいっちゃいけませんよ、ホントをいいなさい、ホントのことを!」──それが「プラウダ! プラウダ!」だったのだ。

 いろいろな真理?

 こんな話を労働学校でした。ちょうどいわゆる「ロッキード選挙」のころだった。
 ホントのことに二つも三つもあるわけはない。小佐野や児玉や田中をはじめ、政府・自民党の尻をはたきながら、私たちは「真理! 真理!」と叫ぼうではないか。そんなふうに私は話をしめくくった。はたく材料としては『赤旗』をもたっぷりつかったと思う。

 ところが、そのあとの喫茶店交流で、「真理は、はたして一つだろうか」「いろいろな真理がありうるんじゃないか」という意見があちこちからでたという話をきいた。私は考えこまざるをえなかった。

 いわゆる「文化大革命」から「四人組」問題にいたる中国のことが話題になって、「まるで藪の中≠ンたいだ」という発言が出たことがあったのも思いあわされたが、そのためだけとも思えなかった。「いろいろな真理がありうるんじゃないか」という反応には、それを触発した個々の出来事をはなれても、現代青年の意識の一般的な特徴がよく示されているように思えてならなかった。

 そこには、あきらかにプラスの面もある。これはしっかりとおさえておかねばならない。同時に、それと背中あわせに、重大なマイナスの面もある。これもしっかりと見ておかねばならないだろう、と私は思う。

相対主義的「恋愛」プレイ

 まずそのプラスの面についていえば、第一に、「これこそ唯一絶対の真理だ」などと他人からおしつけられても、容易なことではそんなものを信用しないということ。むしろ、そういうおしつけには反発を示す。これは現代青年の民主主義的感覚を示すものとして、高く評価できるだろう。

 第二にそれは、一つの面から見てもっともなことも、別の面から見ればまたちがったふうに見えてくることもありうるはずだという、精神の柔軟性を示してもいるだろう。たやすくものごとを絶対化しないということは、これもきわめてたいせつなことだと思う。

 しかしそれは、その反面に、すべてを相対化するという重大なマイナスを秘めてもいるだろう。恋愛風俗にも、それを見る。

 私はなにも、一人の異性を好きになったがさいご、その思いがかなえられないかぎりこの世のおわり、あとは自殺しか道がないと「絶対的」に思いこむ、そんな恋愛をよしとするものではない。かといって、すべての異性とのつきあいを「相対化」して、だれとでも気軽にデートし、気軽に別れる、そんな「プレイ的恋愛」をよしとするわけにもいかない。そんなものをいくらくりかえしたって、真の愛を知ることは永遠にできないだろう。
 そしてこれは、異性とのつきあいだけの問題ではあるまい、と思う。

ニヒリズムの経路

 「すべてを相対化する」ということは、民主主義との関係でいえば、民主主義と反民主主義との対立をも相対化する、ということになる。これは、民主主義の形骸化にほかなるまい。客観的には、反民主主義のてのひらにのせられてしまうことを意味しよう。

 「すべてを相対化する」ということは、また、「これこそ自分の思想」といえるようなものがない、ということをも意味している。これはすでにニヒリズム(虚無主義)だ。

 もっとも、それははじめのうちは、とりたててそうと意識されてはいない。無意識的なニヒリズ。

 それはさしあたり、どんな思想とも一定の距離をおいて、適当につきあうという軽快なかたちをとる。政治意識でいえば、「支持政党なし層」の意識構造もこれにつうじるものがあるだろう。

 しかし、人間はながいこと、「これこそ自分の思想」といえるようなものなしに生きていくことはできない。人間らしく生きていくことはできない。いのちをかけられるような思想なしには、動物として生きているというだけで、人間として生きているという実感をもつことができないのが、人間というものだ。

 だから、あの無意識的なニヒリズムは、そのままでいると、やがて意識されたニヒリズムヘと成長する。そんなときだ、生きていることが空しく感じられてくるのは。

 しかし、いのちをかけられるような思想のもちあわせはない。ここにおいて、人はひらきなおる──「いのちをかけられるような思想なんて、この世にあるものか。これが真理だ。これがおれの思想だ」と。

 これが自覚されたニヒリズム、本格的なニヒリズムだ。あの軽快なニヒリズムは、こうした本格的なニヒリズムに成長せざるをえない要素をうちに秘めている。

非合理の極致で

 しかし、それでは「いのちをかけられるような思想なんてこの世にあるものか、という自分の思想」にいのちをかけられるか、というと、これはもうなにがなんだかわからない、絶対的矛盾そのもの、非合理の極致みたいなもので、こんな心境のなかにいると、もっとも非合理なものがもっとも魅力的に見えてくるものだ。

 こんなときではなかろうか、きのうまではさえない顔色でくすぶっているだけと見えた若者が、突如として「原理運動」を名乗る勝共連合の狂信的なとりこに変身してしまったりするのは。

 おなじ思想の経路が「革マル」や「中核」その他を名乗る暴力集団にも見られるように思うし、「暴走族」その他にも見られるように思う。そしてこれこそは、ファシズムにつうじる経路ではあるまいか。

 だが、とここでひるがえって考える。「いろいろな真理がありうるんじゃないか」というのは、「いろいろな真理がありうる」と断定しているわけではないのだ。もしそう断定しているのだとすれば、これはそれ自身がときようのない矛盾そのものだ。なぜなら「いろいろな真理がありうる」というのを唯一絶対の真理として主張しているのだから。

 「いろいろな真理がありうる」というのが真理なら、これと対立する主張、つまり真理はただ一つという主張が真理である可能性をも承認しなければならないだろう。とすれば、「いろいろな真理がありうる」ということは否定されねばならなくなる。

 「ただ一つの真理」にいたるための、そして真の民主主義にいたるための経路として、あの青年たちの反応をうけとめたい、と私は思った。
(高田求著「新 人生論ノート」新日本出版社 p227-233)

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◎「現在の自然科学の目標は、対象たる物質を所与のものとして、その起源・構造・運動・変化の法則性を明らかにすることにある」……。