学習通信050118
◎「メディアによる教育(というより洗脳)と」……。

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中流崩壊?「貧富の差はもっとあってよい」で日本がトップ

 「中流崩壊」が論じられ、「不平等社会」が到来した、ともいわれるようになった日本。しかし、電通総研の2001年調査では、生活水準について9段階の中で選択させると真ん中の3段階に丸をする人が、なお8割もいる。「総中流意識」はまだ崩壊するには至っていない。同じ調査は、欧米各国では7割程度にしかならない。

 また、日本では社長と平社員の収入格差が極めて小さいことも知られている。労働者(製造業)と経営トップの年収差は10倍程度でしかないが、アメリカでは30倍以上である(英マネジメント・トゥデー調べ)。10倍程度の年収差で、業績の悪化や不祥事などで責任をとらされるのはたまらない、と思っているトップも多いのではなかろうか。

 このように欧米に比べるとまだまだ「平等」な社会である日本だが、日本人はこれを肯定しているのだろうか。
 今後自国社会の目指すべき方向性として、「貧富の差の少ない社会」が望ましいか、「成果に応じて分配される社会」が望ましいかを選択する質問で、日本では「貧富の差の少ない社会」と回答する比率が年々減少を続けている。2000年、2001年調査では、調査対象国10か国の中で最低の水準となっており、競争社会、自己責任社会の代名詞とも思われるアメリカより低い。人々の意識の面では、日本人は「中流崩壊」が進んでいるのだ。

 逆に比率が最も高いのはインドで、3人に2人が「貧富の差の少ない社会を目指すべき」と回答している。これは、長くインド社会に続き、現代でも(憲法では否定しているものの)強く残存するカースト制度を、国民が意識していることの反映かと思われる。

 一方、「平等社会」とは反対の「成果に応じて分配される社会」を求める比率も、日本では増加傾向にある。2001年調査では、「貧富の差の少ない社会」(平等社会)より「成果に応じて分配される社会」を求める者の方が4倍近くいた。6割がこちらを選択している。

 こうした結果を背景にしてか、今の日本では、「能力主義」「出来高払い」「コンピテンシー」「業績連動型給与」など、成果に応じて分配される社会を連想させる言葉が社会をにぎわせている。「構造改革」を受容する土壌は、すでに十分に出来上がっているようだ。

 リストラが進行し、日本の企業の特徴だった「終身雇用」や「年功序列」が有名無実化してきた昨今の日本だが、不利益をこうむる勤労者の抗議活動がなかなか盛り上がらないように見受けられる。これは、経営者側が周到な準備を行なっていることのほかに、メディアによる教育(というより洗脳)と、日本人の「ものわかりのよさ」が影響しているように考えるのは筆者だけだろうか。
(高橋徹著「日本人の価値観・世界ランキング」中公新書ラクレ p5-9)
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マルクス
1844年の経済学哲学手稿

〔第1手稿〕
労 賃

 労賃は資本家と労働者とのあいだの敵対的闘争によってきまる。資本家にとっての勝利の必然性。資本家は労働者が資本家なしに生きられるよりも長く、労働者なしに生きることができる。資本家たちのあいだの結合は慣習となっていて、効果があり、労働者たちの結合は禁じられていて、彼らにとって悪い結果をもたらす。

そのうえ地主と資本家は彼らの収入に産業上の利益を付け加えることができ、労働者は彼の産業上の所得に地代も資本利子をも付け加えることができない。それゆえに労働者たちのあいだの競争はあんなにもはげしいのである。したがってもっぱら労働者にとってのみ、資本、土地所有および労働の分離は一つの必然的、本質的、かつ有害な分離なのである。資本と土地所有はそのような捨象のうちにありつづける要はないのだが、しかし労働者の労働はそうはいかない。

 労働者にとってはそれゆえに資本、地代および労働の分離は致命的である。

 労賃のための最低の、かつただ一つ必然的な査定額は労働期間中の労働者の生活維持と、なおそれに加えて彼が一家を養いえて、労働者種族が絶滅しないという程度のところにある。通常の労賃はスミスによれば、ただ人間であるというだけのあり方、つまりけだもののようなあり方に合うような最低の額なのである。

 人間にたいする需要は、他のどのような商品の生産の場合もそうであるように、必然的に人間たちの生産を規制する。供給が需要よりもずっと大きいと、労働者たちの一部は乞食状態か餓死におちいる。かくて労働者のあり方は他のあらゆる商品のあり方の条件へ引き下げられているわけである。労働者は一つの商品となったのであって、もしも彼が自分をうまく売りつけることができれば、それは彼にとって一つの幸運なのである。

そして労働者の生活を左右するところの需要は、富者と資本家たちの気まぐれにかかっている。供給の量が需要を上〔まわる〕と、価格を〔構成する〕諸部分、すなわち利潤、地代、労賃のうちの一〔つ〕は価格以下に支払われており、〔これ〕らの諸支払いの〔一部〕は、したがってこの使い方からまぬがれ、かくて市場価格は中心点としての自然的価格〔のほうへ〕ずり寄っていく。

しかし、(1)労働者にとっては労働の分割が大きい場合には、彼の労働に別の方向をあたえることは至難であり、(2)資本家にたいするその従属的な間柄のゆえに、彼がまず不利益をこうむる。

 したがって市場価格が自然的価格へずり寄る場合、労働者の失うところは最も大きく、そして無条件的である。そして自分の資本にある別な方向をあたえることができる資本家の能力こそが、ある特定の労働部門でしか能のない労働者を食いはぐれにさせるか、さもなければその資本家のどんな要求にでも否応なしに従わせるかするのである。

 市場価格の偶然かつ突然の変動は地代にひびくよりももっと、価格のうちの利潤と給料へ分解された部分へひびくが、しかし利潤によりももっと労賃にひびく。上がる労賃があれば、たいていの場合、変わらないままの労賃と、下がる労賃がある。

 労働〔者〕は資本家の儲けとともにかならず儲けるとはかぎらないが、しかし資本家とともにかならず損をする。そういうわけで、資本家が工業上あるいは商業上の秘密とか、独占あるいは彼の地所の有利な位置とかによって市場価格を自然的価格以上のところに保つ場合、労働者には何の得もないのである。

 さらにまた労働の価格は食料品の価格よりもはるかに一定している。しばしばそれは逆比例をなす。物価の高い年には労賃は需要が減るおかげで減り、食料品が上がるおかげで上がる。こうして釣合いがとられる。いずれにせよ一定数の労働者たちは食いはぐらかされる。物価の安い年々には労賃は需要が高まるおかげで上がり、食料品の価格のおかげで減る。こうして釣合いがとられる。

 労働者の今一つの別の不利。
 さまざまな種類の労働者たちの労働の価格は、資本が投下されるさまざまな部門の利得よりもずっとさまざまである。労働にさいして個人的はたらきの自然的、精神的および社会的差異がことごとくあらわれ出て、さまざまに報われるのにたいして、死せる資本のほうはいつも同じ歩調で進んでいって、実際の個人的はたらきにはかかわりない。

 要するに、労働者と資本家が同じく困る場合、労働者はその暮らしに困り、資本家は彼の死せるマンモンの儲けがないことに困るのだということは注意すべきことである。

 労働者は彼の体を養うための食料のためのみならず、また仕事を手に入れるためにも、換言すれば彼のはたらきを現実化しうる可能性、手段のためにも、たたかわねばならない。
(「マルクス・エンゲルス8巻選集」大月書店 p30-32)

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◎「労賃のための最低の、かつただ一つ必然的な査定額は労働期間中の労働者の生活維持と、なおそれに加えて彼が一家を養いえて、労働者種族が絶滅しないという程度のところにある」と……。