学習通信050119
◎「両面を統一していく以外には」……。

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補注T ルソーの学習理論批判

 経験論哲学には、感覚論に傾斜する方向とともに、合理論に傾斜するもうひとつの方向がある。この方向においては、経験を構成する最も根源的な能力は理性であり、この理性は感覚とかかわりなく、人間にとって本質的な諸観念──たとえば、同一律や矛盾律や因果律、静止と運動、延長と持続、一と多、始めと終り、自由と必然の観念、あるいは真偽・善悪・美醜の観念、さらには自我や神の観念といった、人間にとって本質的な諸観念──を生得的にもっており、したがって感覚に依拠することなく、それら諸観念を組み合わせ、そしてそれにことばを付与することによって、ある一定の整合的な知識に達するとされる。

それゆえ、もしこの合理論の立場にたつならば、学習はなんら感覚から始める必要はなく、最初から非感覚的ないし超感覚的知識を学んでもなんの支障もないということになるであろう。また、既成の知識体系を感覚を媒介とせずに、いきなり学んでもかまわないということになるであろう。文化伝達としての教育には正当な根拠があるということになる。現にわたしたちは、このような合理主義的学習を子どもに課しているし、また子どものほうも、十分にそれを受け入れることができていることが、この合理論の正当性を示すなによりの証拠である。

 だがルソーはこのような合理主義的学習を拒否した。なぜなら、ルソーからすれば、このような合理主義的学習は空虚な知識を握造する理性の恣意性を強め、それとともに子どものうちに種々の利己心をかきたてることしかしないように思われたからである。

しかし、たとえルソーが拒否しようとも、もしこの合理論が十分に根拠のある認識論であるとするならば、この合理主義的学習は避けられないであろう。それにより、たしかにルソーの指摘するように、理性の恣意性と利己心の肥大化が強められることになるとしても、である。

 しかしそれにしても、この認識論的矛盾をいったいわたしたちはどう考えたらよいのであろう。

 おそらくわたしたちはこの矛盾を矛盾として受け入れるほかはないであろう。感覚論と合理論はいずれも、わたしたちが経験を深めていくとき必然的に生まれてくる二つの認識論であり、どちらもそれなりに正当性をもっているからである。

したがって当然また、理性から始める学習も、感覚から始める学習とともに、それなりの正当性をもっていることになる。ただしこの場合の最大の課題は、理性の恣意性と利己心の肥大化に陥ることなく、合理主義的学習を展開するにはどうすればよいか、ということである。感覚主義的学習に傾斜しがちなルソーの学習理論を克服しようと思うならば、人はこの課題に答えうるのでなければならない。
(林信弘著「『エミール』を読む」法律文化社 p251-252)

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 それでもむずかしいのは、なぜか

 しかし、本を読んでわかるかわからぬかは、もちろん、つねに本の側にだけ理由があるのではありません。読者の側にもそれなりの理由のあることが多いのです。たとえば、ラッセルを読んで「むずかしい、よくわからない」という人もあるでしょう。また、おそらく禅問答を読んでも、よくわかった気になる人もあるでしょう。むずかしい本を読んで、いや、そもそも本を読んでよくわかる工夫は、読者の質にもなければなりません。その読者の側の条件は、第一には言葉に関し、第二には経験に関しているといってよいでしょう。

 文章による表現は、著者のなんらかの経験を、言葉の組合わせに翻訳して、人に伝えようとすることだ、といっていいと思います。これを読者の側からみれば、言葉の組合わせ、つまり、文章を通じて著者の経験を知るということになります。それはちょうど、自動車を運転する人が交差点で赤い信号を見れば、止まらなければならないということを思いうかべ、青い信号を見れば走りだしてもよいということを考えるのに似ています。

文章はその信号の複雑になったようなものです。赤は「止まれ」、青は「進め」という信号の機能を心得ていなければ、車は運転できません。同様に、言葉がなにを意味しているかを心得ていなければ、本を読んでわかることはできません。しかし、信号の意味を知っているだけで、車を一度も止めたことのない人、走らせたことのない人は、交差点でどうすることもできないでしょう。運転手は信号の意味を知っていると同時に、実行の経験を持っていなければなりません。

同じように、読者は言葉が意味するところを知っているだけでなく、言葉が意味するものがなんなのか、多かれ少なかれ、読者自身の経験に即して知っていなければ、ほんとうに文章を理解することはできないでしょう。

一方に言葉、あるいは象徴があります。他方に経験、あるいは象徴されるものがあります。その二つの要素が、本を読むという行為の二つの大きな柱だといっていいでしょう。
(加藤周一著「読者術」岩波現代文庫 p182-183)

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羅針盤ある人生を

正しい理論がなければ正しい実践もありえない

 たしかに私たちの人生には天気晴朗の日もあれば、嵐の日もあります。それは社会の歩みが亀の歩みのようにのろのろとすすむ時期があるかと思えば、「二十年を一つに」つめこんだかのような激動の時期、これが交互にやってくるというのとよく似たところがあります。それはとくに、社会変革をめざしてその実践に明け暮れする人たちにとってはどうしてもさけることのできない宿命的なものともいえるでしょう。

 私たちの場合もけっして例外ではありませんでした。この本の手紙や日記のなかにも、そうした波らんの大小をかいまみることができるように思います。

 問題はそうした起伏と波らんの瞬間にあって、いつでも目標を見失なうことのないように、変革の思想と行動を堅持することができるかどうかです。堅持できなければ挫折があるだけです。

 そもそも社会変革の実践者たるものの特徴というのはどこにあるのでしょうか。

 それはかんたんな話で、いつも理想の灯をかかげて、それに向かって生きている、ということです。ところがこの理想の灯というのはやっかいなもので、一度点火すればもうあとはいつまでも燃えつづける、というようなものではありません。嵐に吹かれて消えてしまうこともあれば、まただんだん小さく弱くなっていって、やがて消えてしまう場合だってあるのです。

 だから、いつも理想の灯を赤々とさせておくための何かが必要です。油を補給しなければランプは消えてしまうのと同じことです。実は、その油が科学的社会主義の理論で、その補給作業が学習のいとなみにほかならないということです。理論は経験の総括です。その理論を学び、理論を身につけることなしに、正しい実践もありえないのです。

 私たちの青春時代といえば、あの敗戦直後のころのことで、当時は理論などという七めんどくさいものよりも、まず実践あるのみ、というような風潮がさかんでした。学問などというぜいたくなものは世の中が変わってからゆっくりやればよい、というわけです。

 いまから考えてみると、これほど大きなまちがいはありません。第一、高い山をのぼるのに、正確な羅針盤もなしにどうして頂上をきわめることなどできるでしょうか。

 それから、日本のような国の社会変革、それは国民多数の考え方を変えて統一戦線に結集しなければなりません。仲間たちを変え仲間をうんとふやす、このことなしに社会変革などやれるはずがない、ところが仲間を変えようと思えばまず自分自身を変えることが先決です。自分はじっとしていて、それで仲間だけを変える、そんな虫のよいことができるはずはありません。まず自分自身を変える、そうしていっそう前進する、そうして労働者階級としてのしっかりした立場に立つ、このことを階級性を身につけるといいます。

 あのレーニンは、その階級性の徳目に「高い献身、忍耐、自己犠牲、英雄主義、そして必要とあればある程度大衆ととけあう能力(大衆性のこと……引用者)さらに指導の正しさ」などをあげました。が、こうしたものを身につけることは、けっしてたやすいことではありません。とはいえ、私たちもそこに近づくために最大限の努力をしたいものだと思います。

 ところでこうした階級性を身につけるには、どうすればよいのでしょうか。私の考えでは二つの通路があるように思います。

 その第一は、なんといっても階級的な変革の理論、つまり科学的社会主義の理論を学ぶことだと思います。生きるというのはたたかうことです。たたかうためには連帯が必要です。同時に、それを導く羅針盤、つまり正しい変革の理論がなければいけません。ただむやみやたらにやればよい、などというものでないことはあきらかなことです。

 たしかに、理論を学ぶというのは根気のいることで、まるでさいの河原の石づみといっしょではないかと思えることもないではありません。しかし、理想の灯をいつも赤々と燃えたたせておくためには、たえることのない油(科学的社会主義)の補給作業、これが絶対に必要なのです。そういう点では学習というのは一生涯の仕事で、もうこれでよいということはありません。私たちも青春の時代からずっと今日にいたるまで、学習だけはたやすことなくつづけています。それは習慣の一部とさえいえるものになってきているように思います。

 それから、労働者階級としての正しい立場、観点を確立するためのもう一つの通路、それは積極的に実践の経験をつむことです。「百聞は一見にしかず」という諺がありますが、ほんとうにそうだと思います。もちろん私たちの活動はいつもいつもきまって成功するものとはかぎりません。いや、むしろ失敗することのほうが多いかもしれません。大きな失敗、小さな失敗、傷つくことだってある。だけどそういう体験をくりかえしながら反省をつみ重ね、だんだんに多くのものを身につけることができるようになるのです。

 やっぱり泳ぎをおぼえようと思えば、いろいろと解説書を読むことも大切ですが、まず水のなかにとびこまなければだめということです。まず本を読んで──そのことも大切ですが──そうして泳ぎの法則を頭にいれていても、実際にとびこんでみると、はじめはどうしてもプクプクと沈んでしまうでしょう。

 そのことを恐れてはなりません。恐れないで体験をどんどんつむ、そういう姿勢こそが階級性を身につけていくうえでは決定的に重要ではないかと思います。

 これを要するに一口でいえば、理論と実践の統一ということにつきます。つまり科学的社会主義の理論をしっかり学習することと、それを羅針盤として実践をつみ重ねること、この両面を統一していく以外にはありません。

 最初から名実そなわったものがあるわけはありません。階級性というものは、やはり自分で苦労しながらだんだんに身につけていく以外にないということ、どこかにできあいのものがころがっていて、いつでも手軽に手にいれられるなどというものでは絶対にないということです。
(有田光雄・有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版 p237-240)

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◎「一方に言葉、あるいは象徴があります。他方に経験、あるいは象徴されるものがあります。その二つの要素が、本を読むという行為の二つの大きな柱だ」……と。

◎「これを要するに一口でいえば、理論と実践の統一ということにつきます。つまり科学的社会主義の理論をしっかり学習することと、それを羅針盤として実践をつみ重ねること、この両面を統一していく以外にはありません。」