学習通信050122
◎「史的唯物論が、社会を考える常識になっている」……。

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十一の一

 これを要するに、人と境遇との間には因果の相互的関係がある。すなわち人は境遇を造り、境遇もまた人を造る。しかしながらそのいずれが本なりやと言えば、境遇は末で人が本である。それゆえ、社会問題の解決についても、私は経済組織の改造という事をば、事の本質上より言えば、根本策中の根本策とはいい得られぬものだというのである。

 しかし私はそう言ったからとて社会の制度組織が個人の精神思想の上に及ぼす影響を無視せんとする者ではない。否むしろ私は人並み一倍、経済の人心に及ぼす影響の甚大なるものなることを認めつつある者の一人で、その点においては私は十九世紀の最大思想家の一人たるカール・マルクスに負うところが少なくない。

 今私はここにマルクスの伝記をくわしくお話しする余裕ももたなければ、またその必要も感じない。しかしいつ読んでもおもしろいのは豪傑の伝記である。すなわちもし諸君が許さるるならば、私はマルクス伝の一鱗を示すがために、ここにマルクスの細君の手紙の一節を抄訳しようと思う。

 「……嬰児のために乳母を雇うというがごときはもちろんできがたきことにて候ゆえ、わたしは胸や背(せな)の絶えず恐るべき痛みを感ずるにかかわらず、自身の乳にて子供を育てることに決心いたし候。しかるに哀れむべき小さなる天使は、不良の乳を飲み過ぎ候いしために、生まれ落ちたる日より病気にかかり、夜も昼も苦しみおり候。彼はかつて一夜たりとも二三時間以上眠りたることこれなく候。……かかるところへ、ある日のこと、突然家主参り……屋賃の滞り五ポンドを請求いたし候いしも、われらはもとよりこれを支払うの力これなく候いしかば、直ちに二人の執達吏入りきたり、わずかばかりの所有品は、べッドも、シャツも、着物もすべて差し押え、なお嬰児の揺床(ゆうどこ)も、泣き悲しみつつそばに立ちいたる二人の娘のおもちゃも、すべて差し押えたることに御座候。」

 これはマルクスの細君が一八四九年にある人に与えた手紙の一節であるが、ここにマルクスの細君というは、マルクスの父の親友なるルードウィヒ・フォン・ウェストファーレンという人の娘である。当時その人がプロシャの官吏としてザルツウェーデルという所からマルクスの郷里のトリエルに転じて来たのは、今からちょうど百年前の一八二八年のことであるが、その時に連れていた二歳になる女の子は、後にマルクスの細君となった人で、すなわち先に掲げた手紙の主である。

この手紙の主は幼にして容色人にすぐれ、かつ富裕なる名家に人となりしがために、名門の子弟の婚を求むる者も少なくなかったのであるが、たまたまマルクスのせつなる望みにより、四歳年下のこの貧乏人の子にとつぎ、かくてこの女は、かの恐るべき社会主義者として早くより自分の祖国を追い出され、またフランスからもベルギーからも追放されて、ついには英京ロンドンに客死するに至りしところの、世界の浪人にしてかつ世界の学者たるカール・マルクスにその一生をささげ、つぶさに辛酸をなめ尽くしつつ、終始最も善良なる妻として、その遠き祖先の骨を埋めつつある英国に流れ渡り、ついに自身もロンドンの客舎に病死するに至りし人である。前に揚げた手紙もすなわちこのロンドン客寓中(かくぐうちゅう)にしたためたものである。    (十二月九日)

十一のニ

 さて私がここにマルクスを持ち出したのは、彼が有名なる唯物史観または経済的社会観という一学説の創設者であるからである。
 彼が一八五九年に公にしたる『経済学批判』の巻頭には同年二月の日付ある彼の序文があるが、その一節には次のごとく述べてある。

 「余はギゾーのためフランスより追われたるにより、パリーにて始めたる経済上の研究はこれをブリュッセルにおいて継続した。しかして研究の結果、余の到達したる一般的結論にして、すでにこれを得たる後は、常に余が研究の指南車となりしところのものを簡単に言い表わさば次のごとくである。」

 「人類はその生活資料の社会的生産のために、一定の、必然的の、彼らの意志より独立したる関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の発展の階段に適応するところの生産関係に入り込むものである。これら生産関係の総和は社会の経済的構造を成すものなるが、これすなわち社会の真実の基礎にして、その基礎の上に法律上及び政治上の上建築が建立され、また社会意識の形態もこれに適応するものである。すなわち物質的生活上の生産方法なるものは、社会的、政治的及び精神的の生活経過をばすべて決定するものである。」

 右はマルクスのごう牙な文章を──しかもわずかにその一節を──直訳したのであるから、これを一読しただけでは充分に彼の意見を了解することは困難であるが、今これを詳しく解説しているいとまはない。それゆえ、しばらくその原文を離れて、簡単に彼の意見の要領を述ぶるならば、これを次の数言にまとめることができる。

 経済上社会の生産力すなわち富を作り出す力が増加して来ると、それに連れて社会の生産関係または経済組織が変動して来る。しかるにこの経済組織なるものは社会組織のいちばん根本となっているものであるから、この土台が動いてくると、その上に建てられていたもろもろの建築物が皆動いて来なければならぬのであって、すなわち社会の法律も政治も宗教も哲学も芸術も道徳も皆変動して来る。

さらに簡単にいえば、経済組織がまず変わってしかるのちに人の思想精神が変わるので、まず人の思想精神が変わってしかるのちに社会の組織が変わって来るというわけのものではない。これがマルクスの意見のだいたいである。
(河上肇著「貧乏物語」岩波文庫 p120-125)

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マルクスの確立した科学の目が、いまや社会の常識に

不破:さきほど、マルクスの思想とは、自然や社会を見る科学の目だと言ったのですが、マルクスが死んで一一七年たったいま、この科学の目の確かさが、自然科学そのものの発展によって証明されている、ということは、すごいことだと思います。

 マルクス、エンゲルス以後の自然科学の発展、とくに二〇世紀後半の発展というのは、すさまじく巨大なものですが、その発展の一つ一つが、すべてマルクスの唯物論や弁証法の証明になっている。ここにはやはり、一〇〇〇年というモノサシでその偉大さがはかられうるということの、一側面がありますね。

 たとえば、唯物論の問題で言いますと、生命と精神の問題は、観念論の最後のよりどころで、いくら科学だといっても、生命と精神を唯物論で解明することはできないだろう、と言われたこともありました。

 しかし、いまでは、生命現象の根底にDNAという物質がある、そこでの物質(核酸)の配列が、あらゆる生命現象を左右するということは、ほとんど常識になっていますね。生命科学にはあまり詳しくない人でも、DNAと言えばすぐ分かるところまできている。つまり、生命というものを、物質の運動として研究し、理解する地盤がこれだけ発展してきている、ということです。

 人間の精神活動についても同じですね。脳についての科学の最近の発展も、たいへんなものです。NHKテレビの特集などもよくありますが、人間の精神の働きを、脳という、神経細胞のネットワークの活動として解明する、これも将来に向けた仕事はまだまだ多いけれども、人間の精神が脳という物質の活動にあるということ自体に、疑いをさしはさむ人は、ほとんどいなくなっていますよね。

 そういう点で、マルクスが確立した科学の目は、ほんとうにその後の自然科学の発展の豊かな内容をもって、今日に引き継がれているわけです。

山ロ:マルクスの見方がいまや常識的な見方になっているという声は、研究の現場からも聞こえてきます。物理学では、物質をつくっている陽子や中性子など素粒子の研究から、戦後、その素粒子を構成するもっと奥のレベル、クォークの研究に進んできました。クオークは六種類あると想定されていたのですが、六番目のトップ・クォークが九〇年代に見つかりました。

その存在を予見した方──日本の物理学者ですが、自分たちは、唯物論と弁証法の考え方、立場に立って研究を進めた結果、かなり早い時期に理論化ができたと、語られていました。

不破:日本の理論物理学では、素粒子論やクォーク理論の先駆的な開拓者である坂田昌一さん以来の伝統がありますからね。

 いま、社会主義を批判する側の人たちは、マルクスの理論について、これをたいへん特殊な、偏見に満ちたものの見方であるかのように言ったりするでしょ。しかし、そう言っているご当人が、じつはマルクスの影響をものすごく受けているという場合が、少なからずあるんですよ(笑い)。

 たとえば、社会を見るときに、「階級」という集団の角度から見る、という社会論が、マルクスの史的唯物論の根幹になっています。マルクスは、そこから分析して、資本主義の社会では、国家は、支配階級(当時はブルジョアジー)の支配の道具だという結論をひきだしました。これは、当時は、それこそ、複雑で多面的な社会現象を、科学の目で奥深く研究し分析したうえでないと、言えない結論だったんです。なにしろ、国家はブルジョアジーの支配の道具だと言っても、ブルジョアジーという集団の組織さえ、目に見える形では存在しない時代でしたから。そういう時代に、社会を見る科学の目の中心に、こういう見方をすえたところに、科学者マルクスの偉大さがあったんです。

 しかし、いまはまったく違っているでしょう。わが党の綱領には、日本を支配しているのは、国内的には独占資本だと書いてありますが、この独占資本は、経団連その他、自分たちの階級の組織を目に見える形でもっています。また、この支配階級が、国家をどのように自分たちの支配の道具にしているかも、企業献金、各種審議会、さらには財界と政権政党との人的なつながりなどなど、具体的な姿を現しています。

だから、マルクス批判派の人たちでも、日本の経済や政治を具体的に論じるときには、階級という言葉は使わないでも、財界と政治とのかかわりを問題にせざるをえない。これは、階級という角度から、政治や経済を見るという史的唯物論が、社会を考える常識になっている、ということなんですね。

 マルクスが一九世紀に確立した科学の目は、二〇世紀に、自然でも社会でも、それだけ大きな力を発揮してきた。そして、いまやその成果をふまえて二一世紀を迎えようとしています。人間の歴史のなかで、いくつもの世紀をこえて、これだけの「偉大さ」をしめしてきた思想というものは、科学の世界にほかにはないわけで、私たちは、二一世紀につながる活動のなかで、大いに発展的に受け継いでゆきたいですね。
(不破哲三著「世紀の転換点に立って」新日本出版社 p13-16)

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◎「マルクスが死んで……いま、この科学の目の確かさが、自然科学そのものの発展によって証明されている、ということは、すごいことだ」と。


◎河上肇が引用するイェニーの手紙とマルクス一家のロンドンでの生活
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 一八五一年五月二十日にイェニーはつぎのように書いている。

「三人の子供をかかえ、四人目の子供が生れようとしている、ということは、何を意味するでしょうか? これを理解するには、あなたがたはこのロンドンの生活条件をお知りにならなければなりません。……住宅料だけで私たちは一ヵ月に四十二ターレル払わねばなりません。このような費用いっさいは、手もちの財産でまかなえたはずでした。ところが、私たちの最後の資金は『新ライン新聞評論』誌の出版につかいはたされました。契約に反してお金ははいってきません。はいってきてもきわめてわずかなものです。私たちはこんな事情でひどい状態におちいってしまったのです。

 あの子が実際どのように生きてきたか、一日の生活状態だけをおしらせしましょう。そうしたら、あなたがたはおそらく、亡命者のうち私たちと同じような暮しをしている人はすくないだろうということを分かってくがさるでしょう。

 こちらでは乳母を見つけることはまったくむずかしいので、私は自分の胸や背なかがたえずおそろしく痛むけれど、自分の手でこの子を育てようときめました。しかしこの小天使はかわいそうに私の心配と無言のうれいをほんとにたんとのみほしました。そのためにしじゅう病気ばかりして、昼も夜もはげしく苦しんでふせっていました。

 この子は生れてからずっと、まだ一夜も満足にやすんでいません。せいぜい二、三時間ねむるだけなのです。そのほか、臨終になって、つよいけいれんがはじまりました。ですから、子供はたえず死とあわれな生との間をさまよっていたわけでした。あの子は苦しみのあまりにきつく吸いついて、わたしの乳首はひびがいり、いっぱい傷ついたほどです。子供のちいちゃなふるえをおびたロは、しばしば血に築まっていました。

あるとき、私がこの子といっしょにすわっていると、とつぜん、家主女があらわれたのでした。私たちはこの人に冬じゅうに二五〇ターレルあまりを支払いました。残額は契約によって、その後はこの人にではなく、この人の地主に支払うはずでした。この地主は前に彼女の財産を差しおさえようとした人です。彼女はあらわれるやいなや、契約を破棄し、まだ彼女に借りになっている五ポンドの支払いを要求しました。こんなお金は手もとになかったので、二人の執達吏が私のわずかの財産──寝台、下着、毛布など──いっさい、それに、かわいそうな子供のゆりかごや、せつない涙を流している娘たちのいちばん上等なおもちゃまでも差し押えました。執達吏はなお、二時間後に財産をすっかり持ち去るとおどかします。

──ところで私はそのときもう、寒さでふるえる子供たちと、痛む乳をかかえて、むき出しの床に横だわっているのでした。われわれの友人のシュラムが助けをもとめに急いで町へ行きました。ところが彼が辻馬車に乗りこむか乗りこまぬかに馬が早駆けをしたので、彼は進む方向に走り出すときとび出し、血みどろになって、あわれな子供たちと泣きながら私のすわっている家に運びこまれたのでした。

 あくる日、私たちは家を出なければなりませんでした。寒い雨もよいの日でした。私の夫は新しい住みかをさがしたけれど、四人も子供がいると聞いただけで、誰も貸してくれようとしません。結局私たちはある友だちから救われました。私たちは払わなければならない支払いをしなければなりません。薬屋、パン屋、肉屋、牛乳屋など、昨夜財産差し押えのさわぎにびっくりし、一度に勘定書きをもって私のところへおしよせてきた人たちに支払いをするため、私は自分の寝台を売りはらわねばなりませんでした。売られた寝台は家から持ち出され、馬車に積みこまれました。ところが、そのときはもう日が落ちたあとでした。

イギリスの法律ではこれは禁止されていたので、家主は警官を呼んで、家主の品物も私たちの品物の中にまじることがありうること、私たちがイギリスを立ち去ろうとしているなどと確言しました。五分もたたぬうちに私たちの家の前には二、三百人の人々があつまりました。すべてはチェルシーからきた『群集』でした。寝台はもちかえされ、あくる朝、太陽が出てからはじめて買手にひきわたすことができました。私たちは全財産を売りはらって、最後の一銭まで支払いをしてから、私はかわいい子供たちとただいまのドイツ人旅館の二部屋にうつり、ここで一週間に五ポンド半を払いながら、人間のすまいを見出しているわけです。」

 おどろくべきことは、このようにつらい瞬間にあっても、イェニーがおもに心配したのはマルクスのことであって、彼女は第一に、マルクスをこうした不幸からぬけ出させようとつとめたのであった。

 イェニーは同じ手紙で述べている。「お許しください、親しき友、こちらの生活のたった一日について、このように詳しく記しましたことを。こうしたことは失礼なことだと私は存じております。しかし私のこころはきょう、私たちのいちばん古くからの、いちばん親切な、いちばん信頼する友人に、自分のかなしみを訴えたい思いなのです。しかしあなたは、こうしたこまごました苦しみのために、私がまいってしまったとお思いにならないでください。

──私は生きるためにこのようにたたかっているのは私たちだけではないこと、これでも、私はまだ、あまり多くない幸福者に属していること、それというのは、私の生涯の誇りである愛する夫が、私といっしょにいるからであること、私はそうしたことをよく知りすぎております。しかし私のこころをほんとうにさいなむもの、私の心臓がそのためにほんとうに衰弱したもの、それは、ほんのわずかなもので夫を助けうるそのときに、また、多くの人たちをあれほどよろこんで、好んで助けた人が、この地でこのように孤立無援の立場におちいっているそのときに、このようなつまらぬことで夫をあくせくさせなければならないという、そのことなのです。……

 ……私の夫はきわめておそろしい瞬間にあってさえ、一度も未来にたいする信念を失ったことはなく、いつも陽気なユーモアを失いませんでした。彼が十分に満足した気持でおれるには、ただ元気な私を見ること、やさしい母親のまわりにあつまっている愛する子供たちを見ること、ただそれだけでたくさんなのです。」

 マルクスー家は、市のうちでもいちばん不健康地であるソホーに移らねばならなかった。それというのは、このような大世帯に住宅を貸そうとする者は一人もいなかったからである。一八五〇年から五七年にかけて、彼らははじめちょっとのあいだ、レスター・ストリートの宿屋に住み、つぎにデーゾ・ストリートヘ移った。

 一八五〇年十一月十九日、ここでイェニーが前述の手紙でふれたことのあるギド少年が死ぬのである。マルクスはその唯一の友エンゲルスに宛てて、つぎのように子供の死をつたえている。

「ほんの数行だけ書く。今朝十時に、われわれの小さい爆破の徒党グイドが死んだ。それまでしばしばあった痙攣(けいれん)の発作で、突然に。それより数分前に彼はまだ笑ったりふざけたりしていたのに。まったく突然だった。こちらがどんなようすか想像ができよう。こうしたときに君がいないため、われわれはひじょうにさびしい。」手紙のむすびとして彼はつぎのように友にたのんでいる。「もし気が向いたら、妻のところに数行ほど書いてほしい。彼女はまったくぼうぜんとしている。」

 子供たちのかよわいからだはひどい生活条件に堪えられなかった。小さいものたちを自分の体汁や血潮でそだてたイェニーに、このできごとがどのようにひびいたかは、マルクスのつぎのことばで判断できる(エンゲルス宛ての手紙)。

「彼女はじつにひじょうな興奮と衰弱状態にある。彼女はみずからこの子に肌をやり、いちばんひどい生活条件のもとで、もっとも大きな犠牲を代価としてその生命をあがなってきたのだ。そこへもってきて、かわいそうな子供がたおれたのは、暮しの貧しさの犠牲だという思いだ……」しかしエンゲルス、あるいはマルクスの子供たちが呼んでいたように、アソゲルス〔天使の意味をふくむ〕さえ、この友でさえ、このときにはマルクスー家を不幸から救い出すことができなかったし、不幸にも約束した二ポンドで、彼らを助けにくることさえできなかった。

すなわち、エンゲルスは十一月二十五日付の返書でつぎのように書いている。「ぼくがきょう手紙を書くのはただ、残念ながらきょうはまだ君に二ポンドをおくれないことをしらせるためだ。」

 もしプロレタリアの指導者および理論家としてのマルクスの生活にたいするうとさと、イェニーの世なれないのを考慮に入れるなら、ロンドンでの絶望的な貧窮条件のもとで起ったこうした事件が、家族全部にとってどれほどつらいものであったかは、想像にあまりある。
(ヴィノグラドスカヤ著「マルクス婦人の生涯」大月書店 p128-131)

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◎マルクスの生活に対するうとさ……イェニーの世なれない……、だからこそ、この状態を持ちこたえることができたのだともいえるのか。

おもう。真実は、イェニーが言うように「未来にたいする信念」ではないか。現代の日本でも「真理に生きる」ことが求められている。