学習通信050123
◎「「うそをつかって真実をのべること」が芸術なのだ」、と。

■━━━━━

詩と真実

 べ二かクレナイか

 「ああ、クレナイさん」と私はいった。すると、電話器から声がした。
 「いいや、ベニです。ベニ・ダイスケ」
 それ以来ずっと私は、このノートにさし絵を書いでくれている紅大介はベニ・ダイスケ、これ以外に真実はないと思いこんできた。
 ところが先日、「クレナイさん」と呼ばれて返事している紅大介を目のまえに見た。

 「すると、誤解してたのかなあ、ベニ・ダイスケだと思いこんでたけど」と私はいった。
 「たしか、本人の口からベニだときいたと思ったんだが、あれは錯覚だったのかな」
 「どっちでもいいんですよ」と紅氏は悠然として答えた。そしてつけくわえた。
 「人生は、誤解と錯覚の連続。これがぼくの人生観ね」
 そこのところをもう少しくわしく説明してはもらえまいか、と私はたのんだ。
 「さあね、毎回どんなふうにしてイラストを書くのかということだったら話せるけど」と紅氏はいった。
 それが氏の人生観とどうつながるのかははかりかねたが、それでいいからどうか、と私はいった。

 「まず、白い紙にむかってすわるんです」
 それはそうだろう、まさか黒い紙にむかって逆立ちするやつもおるまいに、などと思うゆとりは、そのときには、なかった。
 「そしてね、そこに一本の地平線をひくんです。こうして、自分の世界をつくっちゃう。この線、定規でひいてはダメね。スウッと自分の手でひかなきゃ。できるなら、それですべてをおわりたいところ」

 がまあ、そういうわけにもいかないから、そこである場合には本文に助太刀するような絵を、ある場合には本文にアカンベしているような絵を、そこにかいていくのだ、という。
 そうかそうか。なんだかわからないが、なにかがなんだかわかってくるような気がした。

 芝居の芝居性

 「芝居がかった」とか「芝居じみた」とかいうことばがある。「わざとらしい」というほどの意味にふつうつかわれているように思う。
 もちろんそれは、芝居が「こしらえもの」であるところからくるのだ。舞台の上で演じられるのはなんといっても絵空事であって、現実の人生そのものではない。

 芝居だけではなく、あらゆる芸術がそうだ。こしらえものでない芸術なんぞ、ありえない。

 にもかかわらず、あらゆる芝居が芝居じみているかといえば、けっしてそうではない。芝居じみてみえ、芝居がかってきこえるのは、それは下手な芝居の特徴だということ、これはなかなかに興味ぶかいことだ。

 上手な芝居は、わざとらしさを感じさせない。つまり、芝居じみていず、芝居がかっていない。では「こさえもの」でないかというと、それどころか「こさえもの」の極なのだ。ごく自然に見えるしぐさ、ごく自然にきこえるセリフまわしが、どれだけの習練の産物であることか。

 「ほんとらしくうそをつくこと」が芸術なのではない、「うそをつかって真実をのべること」が芸術なのだ、と永井潔さんが書いていた(新日本出版社『若い世代と学問』W)。これはほんとのことだと思う。

 すぐれた芸術は、つくりものでありながら、現実以上のリアリティーを人に感じさせる力をもつ。それは、現実の本質的な諸特徴を、圧縮したかたち、あるいは拡大したかたちで開きしめしているからだろう。

 そうした芸術を「あれはお芝居よ」といってすましてしまう人の現実感覚を私は信用しない。

 カエルは単数か複数か

 「古池や蛙とびこむ水の音」
 あまりにも有名な芭蕉の句だが、この場合、古池にとびこむカエルは単数か、それとも複数か。

 もちろん単数だ、一匹だ、とほとんどの人が答えるだろう。私もそう思っていた。というよりは、思う以前から無意識のなかでそうときめこんでいたらしく、あらためてそう「思う」ことさえもなかった。

 ところがどうやらラフカディオ・ハーンは、古池にとびこむカエルを複数として理解していたらしいのだ。

 たまたま金閣寿夫氏の『アメリカ・インディアンの詩』(中公新書)を読んでいてそのことを知らされた。すなわち、同書の注には、ハーンからドナルド・キーンにいたるまでの、この句の英訳五種が紹介されている。鈴木大拙なんかの訳もふくまれていたが、ハーン以外の訳の場合には、すべて、ただ一匹のカエルを古池にとびこましている。が、ハーンの訳だけは、そこが複数になっているのだ。

 なんとなく「ボチャボチャボチャ……」という感じで、興ざめなことおびただしい。ハーンともあろうものがどうしてこんな、と私はいぶからざるをえなかった。

 しかし、その後これも偶然の機会に、自然科学的真実としてはハーンの訳がただしい、ということを知った。

 すなわち、畑正憲氏の『ムツゴロウの博物志』(文巻文庫)によれば、カエルは水の音に敏感で、たとえばカエルがたくさんいる池に小石を一つほうりこむと、つぎからつぎへと全部のカエルが水のなかにとびこんでしまうという。

 「芭蕉は池のほとりではなく、紙の前で句をつくったのだろう」と畑氏は書いていたが、ハーンの場合には、それを池のほとりで訳したのかもしれない。

 いずれにせよ、芭蕉のイメージにあった「水の音」が単数のカエルのとびこむ音であったかぎり、それは自然科学的真実にはそむいていたことになりそうだ。といって芭蕉のイメージの芸術的真実性がそれでそこなわれてしまうわけでもない……。

 理論と現実

 理論と現実とは、時としてひどくくいちがって見えることがある。
 たとえば、水の上を人間が足で歩いてわたれるといったら、信用する人がどれだけいるだろうか。氷の上をすべるみたいにスケートで水の上をすべることもできる、といったら信用する人はなおさらいないだろう。

 ところが、理論上はそれができるはず、できなければならないはずだという。そのわけは、水の表面張力が絶大なことにある。
 しかし、現実に木の上を歩けば、私たちの足はいともかんたんに水の表面膜をつき破って、私たちの体はたちまち水中に沈む。理論どおりにいかぬこと、はなはだしい。

 こんなふうにくいちがってくるわけは、天然の水が純粋の水ではなく、必ずなんらかの不純物をとかしこんでいることにあるという。さきほど「理論上の話」としてのべたのは、純粋の水についての話で、不純物がおおいほど、水の表面張力は小さくなるのだ。

 どことなく、社会主義の理念と現実とのくいちがいについての話みたいな気もしてくるが、それはともかく、これほど極端にではなくとも、理論と現実とがくいちがうことはしばしばだし、というよりもそれがむしろふつうなのだ。そこで「理論なんて信用できない」という人がでてくるんだが……

 「当然じゃないか、理論と現実とがくいちがうのがふつうなら」とA君がいった。

 さあ、はたして「当然」だろうか。たとえば私たちは日常の会話において、はたして文法どおりしゃべっているだろうか、それとも?
 「とても文法どおりにしゃべっているとはいえない」とA君はみとめた。
 それじゃあ文法なんて信用できない、とA君は主張するだろうか?
 「ふうん……すると、理論というのは文法みたいなもの?」
 うん、そう思うんだがなあ、ぼくは。
(高田求著「新・人生論ノート」新日本出版社 p234-239)

■━━━━━

定年


ある日
会社がいった。
「あしたからこなくていいよ」

人間は黙っていた。
人間には人間のことばしかなかったから。会社の耳には
会社のことばしか通じなかったから。

人間はつぶやいた。
「そんなこといって!
もう四十年も働いて来たんですよ」
人間の耳は
会社のことばをよく聞き分けてきたから。会社が次にいうことばを知っていたから。「あきらめるしかないな」
人間はボソボソつぶやいた。

たしかに
はいった時から
相手は会社、だった。
人間なんていやしなかった。
(「石垣リン詩集」ハルキ文庫 p169-170)

■━━━━━

 物理学者は、自然過程を、それがもっとも典型的な形態で、またそれが撹乱的な影響によってかき乱されることがもっとも少ない状態において現象するところで、観察するか、あるいは、それが可能な場合には、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行なう。
 
私がこの著作で研究しなければならないのは、資本主義的生産様式と、これに照応する生産諸関係および交易諸関係である。その典型的な場所はこんにちまでのところイギリスである。これこそ、イギリスが私の理論的展開の主要な例証として役立つ理由である。
 
しかしもしドイツの読者が、イギリスの工業労働者や農業労働者の状態についてパリサイ人のように眉をひそめるか、あるいは、ドイツでは事態はまだそんなに悪くなっていないということで楽天的に安心したりするならば、私は彼にこう呼びかけなければならない、おまえのことを言っているのだぞ!″と。──略──
 
 イギリスの社会統計に比べると、ドイツやその他の西ヨーロッパ大陸のそれは貧弱である。それでもなお、その社会統計は、その背後にメドゥーサの頭のあることを感づかせるには十分なほど、ヴェールを少しまくり上げている。
 
もしわれわれの政府や議会が、イギリスにおけるように、経済事情にかんする定期的な調査委員会を設置し、これらの委員会が、真実の探究のために、イギリスにおけると同じ全能の権限を与えられ、この目的のために、イギリスのエ場監督官や、「公衆衛生」にかんする医事報告者や、婦人および児童の搾取にかんする、住宅状態や栄養状態等々にかんする調査委員たちと同じような、専門知識があり不偏不党で容赦しない人々をみつけ出すことができるならば、われわれは自分自身の状態にぞっとするであろう。
 
ベルセウスは怪物を追跡するために隠れ帽子を用いた。われわれは、怪物の実存を否認してしまうためにこの帽子で目も耳も隠してしまうのである。(マルクス著「資本論@」新日本新書 p9-11)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「相手は会社、だった。 人間なんていやしなかった。」と。