学習通信050126
◎「野宿者」……。
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ところで、住宅難はいったいなにから生まれてくるのか? それはどのようにして発生したのか? ザックス氏は、善良なブルジョアとして、次のことを知ることを許されないのである。
すなわち、住宅難はブルジョア的社会形態の必然的な産物であるということ、膨大な労働者大衆が労賃──つまり、彼らの生存と繁殖とに必要な生活手段の量──だけにたよって生活しており、機械等々の新たな改良によって、たえず多数の労働者が職を奪われ、規則的にくりかえし襲ってくる激しい産業上の変動が、一方では多数の職をもたない労働者の予備軍の存在を生み、他方ではときおり労働者の膨大な大衆を失業者として街頭にほうりだすような社会、
労働者が大量に大都市に寄せ集められ、しかも現在の条件のもとで労働者のために住宅がつくられる速度よりも、労働者の集まる速度のほうが速く、そのため不潔きわまる豚小屋にさえいつでも借り手が見つかるような社会、
最後に、家屋所有者が、資本家としての資格で、その持ち家から容赦なく最高の家賃をとりたてる権利をもつだけでなく、競争のためにそうすることがいわば義務ともなっているような社会、このような社会では住宅難がつきものだということである。
このような社会では、住宅難はけっして偶然ではない。それは必然的な日常現象である。住宅難や、それが健康に及ぼす悪影響等々をなくすことができるのは、住宅難を生みだす社会制度全体が根底から変革されるときだけである。
だが、ブルジョア社会主義は、こういうことを知ってはならない。それは、住宅難を現存の諸関係から説明してはならない。だから、ブルジョア社会主義としては、道徳説法ふうの空文句で、住宅難を人間の邪悪さから、いわば原罪から説明するほかはないのである。
「この場合、罪の……一半は、住宅の求め手である労働者自身にあるが、残りの一半、しかも大半は、この欲望の充足にあたる人々、または必要な資金をもちながらそれにあたろうとしない人々、すなわち有産の上流社会階級にあることは、まぎれもないことであり、──したがって否みえないことである。」(なんという大胆な結論だろう!)「後者の罪は、……彼らがよい住宅を十分に供給するために尽力しようとしない点にある。」
プルドンがわれわれを経済学の分野から法学の分野へつれていったように、わがブルジョア社会主義者は、こんどはわれわれを経済学の分野から道徳の分野へつれてゆく。それもまったく当然のことである。資本主義的生産様式、今日のブルジョア社会の「鉄則」を不可侵のものと宣言し、しかもそれの不愉快な、だが必然的な結果を廃止しようとする人間は、資本家にむかって道徳説法をするほかにしようがない。
こういう道徳説法のあたえる感銘は、私的利害あるいは競争のために、たちまちふたたび雲散霧消させられる。こういう道徳説法は、自分がかえしたアヒルの子が楽しげに池のなかを泳ぎまわっているのを見て、牝鶏が池のふちから説教をするのにそっくりである。アヒルの子は、足場はなくても水中にゆき、資本家は、人情はなくても利潤をめざして殺到する。「金銭問題に人情はない」と、老ハンゼマンがすでに言っている。彼のほうが、ザックス氏よりよくこのことを心得ていた。
「よい住宅は家賃が高いため、大部分の労働者にはまったく利用できない。大資本は、……労働階級むきの住宅には、ひっこみ思案をして手をださない。……そこで、この階級は、住宅の必要をみたすさいに、たいていは投機の犠牲になる。」
けしからん投機だ。──もちろん、大資本は断じて投機などはしない! だが、大資本か労働者住宅で投機をしないのは、悪意によるものではなく、無知によるものにすぎないのだ。
「住宅の必要を正常にみたすことがどんなに大きな、重要な役割を……演じるかを、家屋所有者たちはまったく知らないのである。彼らは概して無責任きわまる粗末な、不健康な住宅を人々に提供しているが、自分がこの人々にたいしてどういう仕打ちをしているのかを、彼らは知らないのである。最後に、そういうことをすれば自分自身を害することになるのだということも、彼らは知らないのである。」(二七ページ)
だが、住宅難を生みだすためには、資本家の無知に労働者の無知がつけくわわることが必要である。ザックス氏は、「最下層の」労働者が、「まったくの宿なしにならないためには、どこであろうと、どんなものであろうと、とにかくねぐらを求めることを余儀なくされ(!)ており、この点では身を守るすべも、たよるべきものもまったくもたない」ことを認めたあとで、次のように語っている。
「というのは、彼ら」(労働者)「のうちには、無思慮のために、だが主としては無知のために、自然にかなった発達をとげ健康な生活をいとなむための諸条件を、ほとんど巧妙とさえ言えるやり方で自分の肉体から奪い去っている者が多いことは、だれ知らぬもののない事実だからである。これは、彼らが合理的な衛生法について、とくに住宅が衛生上どんなに大きな意義をもっているかについて、なにも理解していないためである。」(二七ページ)
さて、ここでブルジョアのロバの耳がのぞいて見える。資本家の場合には「罪」は無知に解消したのに、労働者の場合には、無知は罪へのきっかけにすぎない。まあ聞きたまえ。
「そのため」(つまり、無知のため)「彼らは、家賃をほんのすこしでも節約できれば、うす暗い、しめっぽい、狭くるしい、要するに衛生上のあらゆる要求を無視した住宅に移ったり、……しばしば数家族が一戸の住宅、それどころか一室を、共同で借りたりする。……これらはすべて、住宅費をできるだけ節減したいためなのである。
ところが、その一方で、彼らは、飲酒やありとあらゆるはかない楽しみに、真に罪ぶかいやり方でその収入を浪費している。」
労働者が「火酒やたばこにむだづかいする」(二八ページ)金、「鉛の錘のように労働者をたえず泥沼に引きずりおとす酒場びたりとそのいたましい諸結果」が、実際に、鉛の錘のようにザックス氏の胃を圧迫しているのである。現存の諸条件のもとでは労働者の飲酒癖は彼らの生活状態の必然的な産物だということ、それはまったく必然的なものなので、チフス、犯罪、害虫、執行吏その他の社会的疾患と同様に、飲酒癖のある人間の平均数があらかじめ計算できるほどだということ、このこともザックス氏はやはり知ってはならないのである。ついでながら、すでに私の小学校の旧師がこう言っていた。「平民は飲屋にゆき、旦那方はクラブにゆく」と。私はこの両方へいったことがあるから、このことばが正しいことを証言できる。
両者ともに「無知」だというこのおしゃべり全体は、結局、資本と労働の利益の調和についての古いきまり文句に帰着する。もし資本家が自分たちの真の利益を知ったなら、彼らは労働者によい住宅を供給し、一般に労働者の地位を改善してやるだろう。また、もし労働者が自分の真の利益を理解したなら、彼らはストライキをやったり、社会民主主義運動にたずさわったり、政治に口だししたりせずに、彼らの上長である資本家のあとに行儀よくついていくであろう、というのである。
残念なことに、両者ともに、自分たちの利益はザックス氏や彼の無数の先輩が説教するところとはぜんぜん違ったものだと考えている。労資調和の福音が説かれるようになってから、もはや五〇年ほどになる。ブルジョア博愛家たちは、模範施設によってこの調和を証明しようとして、莫大な金を使ってきた。それなのに、われわれは、あとで見るとおり、今日なお五〇年前にくらべてほんの一歩も前進していないのである。
わが筆者は、いまや問題の実践的解決にとりかかる。労働者を自分の住宅の所有者にするというプルドンの提案がどんなに非革命的なものであったかは、すでに彼以前にブルジョア社会主義がこの提案を実際に遂行しようと試みたし、いまでも試みているということだけからもわかる。ザックス氏もまた、住宅問題は住宅の所有権を労働者に移転することによってはじめて完全に解決できる、と言っている(五八および五九ページ)。そればかりか、彼は、このことを考えついたとき、詩人の恍惚状態におちいり、次のようにその感興を吐露するのである。
「人間の心にひそむ土地所有へのあこがれ、現代の熱病的に脈動する営利生活さえが弱めることのできなかったこの衝動には、一種独特なものがある。それは、土地所有があらわす経済的獲得物の意義を、無意識のうちに感じとったものである。人間は、土地所有を獲得することによって、確かなよりどころを獲得する。彼はいわば大地にしっかりと根をおろす。そして、すべての経営(!)は、土地所有のうちに最も恒久的な基礎をもつ。
しかし、土地所有の祝福はこれらの物質的利益をはるかにこえたものである。一片の土地を自分のものとよぶ幸福をもつ人間は、およそ考えうる最高の経済的独立の段階に到達したものである。彼は主権をもって思うままにふるまうことのできる領土をもったのである。彼は自分自身の主人である。彼は、一定の権力と、まさかの時のための確かな拠点をもっている。彼の自己意識はたかまり、それとともに彼の精神的な力もたかまる。この問題で所有権が深い意義をもつのは、このためである。
……今日たよるものもなしに景気の変動に翻弄され、つねに雇主に隷属している労働者は、これによって、ある程度までこのおぼつかない状態からぬけだすであろう。彼は資本家になり、その結果、不動産信用を利用する道がひらけて、失業や労働不能の危険にたいする備えができるであろう。こうして、彼は無産者から有産階級に向上するであろう。」(六三ページ)
どうやらザックス氏は、人間は本質的に農民だと前提しているらしい。そうでなかったなら、わが国の大都市の労働者が土地所有へのあこがれをもっているというような曲弁はしなかったであろう。彼以外には、これまでだれひとり、労働者のあいだにそういうあこがれを発見した人間はいないのである。わが国の大都市の労働者にとっては、移転の自由が第一の生活条件であって、彼らにとって土地所有は一つの桎梏(しっこく)でしかありえない。
彼らに自分の家をあたえて、もう一度彼らを土地に縛りつけてみたまえ。工場主の賃金引下げにたいする彼らの抵抗力は挫かれるであろう。ときには個々の労働者が自分の小家屋を売却できるかもしれないが、大きなストライキや全般的な産業恐慌の場合には、それによって打撃をうけた労働者たちの持ち家をのこらず市場に売りにださなければならなくなり、したがって、買い手が全然見つからないか、あるいは原価をはるかに割った値段で投売りされることになろう。
また、たとえこれらの家屋全部に買い手がみつかったとしても、もちろんのこととしてザックス氏の住宅改良の大計画全体はまたもや溶けてなくなり、彼ははじめからやりなおさなければならなくなるであろう。しかし、詩人は空想の世界に生きるものであり、ザックス氏もまたそうである。彼は、土地所有者は「最高の経済的独立の段階に到達した」ものであり、「確かな拠点」をもっており、「彼は資本家になり、その結果、不動産信用を利用する道がひらけて、失業や労働不能の危険にたいする備えができるであろう」などと空想している。
ザックス氏は、ぜひともフランスやわが国のライン地方の小農民を観察すべきである。彼らの家屋や畑はすっかり抵当に入れられ、その作物は立毛のまま債権者のものになっている。そして、彼らの「領土」で主権をもって思いのままにふるまっているのは、彼らではなくて、高利貸、弁護士、執行吏である。まったく、およそ考えうる最高の経済的独立の段階だ──高利貸にとっての! そして、労働者がその小家屋をできるだけ急速に高利貸のこの主権にゆだねるように、親切なザックス氏は、手まわしよく労働者に、彼らには不動産信用を利用する道がひらけることを、指摘している。労働者は、失業したり、労働不能におちいった場合には、救貧事業の厄介にならずに、この信用を利用できるのである。
それはとにかく、ザックス氏は、労働者は自分の小家屋を獲得することで「資本家になる」という最初に提起した問題を、いまや解決したのである。
資本とは、他人の不払労働にたいする支配権である。したがって、労働者の小家屋が資本となるのは、彼がそれを第三者に賃貸しして、家賃のかたちでこの第三者の労働生産物の一部を取得するときだけである。労働者が自分でその家屋に住むときには、まさにそのことによって、この家屋は資本になることを妨げられる。それは、私が上衣を仕立屋から買ってそれを着用するその瞬間から、上衣が資本でなくなるのとまったく同じである。一〇〇〇ターレルの価値の小家屋を所有する労働者は、なるほどもはやプロレタリアでこそないが、彼を資本家とよぶのは、ザックス氏でなければできないことである。
だが、わが労働者の資本家性には、なおもう一つの側面がある。ある工業地方で、労働者がみな自分の小家屋を所有することが通則になった、と仮定しよう。この場合には、この地方の労働者階級は無料の住宅に住んでいることになる。住宅費はもはや彼らの労働力の価値にくわえられない。しかし、およそ労働力の生産費の減少、すなわち労働者の生活必需品の価格の永続的低落はすべて、「国民経済学の鉄則にもとづいて」、労働力の価値の切下げに等しく、したがって、結局は労賃をそれだけ低落させる結果となる。
すなわち、労賃は平均して、節約された平均家賃額だけ低落することになろう。つまり、労働者は自分の所有家屋にたいして家賃を払うことになるのだが、ただし以前のように、家屋所有者に貨幣で払うのではなく、彼を雇っている工場主のための不払労働のかたちで払うことになろう。こういうわけで、小家屋に投資された労働者の貯蓄は、なるほどある種の資本になりはするが、それは、その労働者にとっての資本ではなくて、彼を雇っている資本家にとっての資本なのである。
(エンゲルス著「住宅問題」マルクス・エンゲルス八巻選書 p97-102)
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カネの豊かさが住の豊かさを亡ぼした
住む場所がないことは貧しい。住んでいる住宅が、最低居住水準にさえ満たないことも、職場まで遠いことも、ローンに追われていることも、ゴミゴミした町の中で騒音や車に安全をおびやかされていることも、公園や図書館がないことも、災害時の緑地帯がないことも、すべては貧しさの象徴である。人生の終りになっても、まだ安住の場を持っていない老人たちがいることも──。
それらは、政治がそう仕組んだのであり、経済がそれを望んだのである。
しかし、ここで住宅問題をとりあげたのは、それがハードの面で、物量の面で貧しいことだけを言おうとしたのではない。
そのような社会の中で、育つ子どもたちや大人の人格、ものの考え方や、感受性、人間関係、環境への責任──それらが、つぶされ歪められて、将来への希望さえ描くことのできない、荒涼とした貧しさが住宅問題の中にあるからである。
カネの豊かさが住の豊かさを亡ぼした──それは住宅問題の中に鮮明にあらわれている。
(暉峻淑子著「豊かさとは何か」岩波新書 p194-195)
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失業者とホームレス(野宿者)の急増をどうみるか
●ホームレスとは何か
羽田野:わが国における失業者やホームレスの急増をどうみるか、というところから議論をすすめたいと思いますが、ホームレスの定義の問題もあります。昨年七月に成立した「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(以下、ホームレス自立支援特別法)では、ホームレスとは、「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者を言う」(第二条)と規定しています。しかしヨーロッパ諸国では、人が住むに相応しい広さや部屋数のない「家」に住む人も「ホームレス」と定義されていますから、ずっと広い概念です。
大須:都留民子さんに聞いた話では、フランスの場合、野宿者だけではなく、家庭生活に問題がある人もふくめてホームレスと言っているそうです。そうすると、ホームレスにたいする政策も違ってきます。日本の場合には、法律で屋外生活者と決めてしまって、それで強制的に排除もできるような条項も設けています。
唐鎌:ヨーロッパでは、たとえば入院したあと家に引き取り手がいないお年寄りもホームレスです。友だちの家を転々としている学生さん、カプセルホテルや安宿を転々としている人も含まれます。そういう人を含めてホームレスと呼んでいますので、イギリスではホームレスは三万人もいて、日本よりも多いという話になります。
しかし、日本のような野宿者は、イギリスでは「ラフ・スリーパー」(ラフに寝ている人)というのだそうですが、嵯峨嘉子さん(大阪府立大学)によると、全国で二〇〇〇人しかいないそうです。日本は東京だけでも「ラフ・スリーパー」が六〇〇〇人以上いると思います。
羽田野:椎名恒さん(北海道大学)は、ロンドンの野宿者は五〇〇人だと書いています(「北海道にみる野宿者と失業・雇用問題」〔上〕、『経済』二〇〇三年一月号)。椎名さんは、この論文の中で、野宿者(「路上生活──野宿を強いられた人々」)を使っています。ホームレス自立支援特別法が野宿者を「ホームレス」と定義したのは、ヨーロッパと比較して異常に多い野宿者の実態を覆い隠すことになると批判しています。また「故なく」ではなく、「故あって」「止む無く」起居の場所としていることを認めるべきだと述べています。今回のシンポジウムでも「ホームレス」を使っていますが、椎名さんのご意見のとおりだと思いますので、そのことを確認しておきます。
海老:二〇〇三年の全国調査では、全国で野宿者は二万五二九六人、東京で六三六一人、大阪で七七五七人という数字がでています。すべての都道府県で確認されています。
唐鎌:概数調査というのでしょう。新宿の中央公園などでは昼間にカウントをしているようですが、調査が終わったあとに帰ってくる人もかなりいます。川崎などは夜間にカウントしたそうですが。
川上:川崎市の調査はちゃんと夜やっています。一応、全国的にも夜やるようにとなっていると思います。ただ、東京の場合は、一つのテントがあったら一人しかいないと数えてしまう。もしかしたら七、八人いるかもしれないのですが、上野公園の青テントは一人と数えてしまうという話をききました。それから隅田川の河川敷は国有地で東京都の管轄ではないのでカウントしなかったという話も聞きました。その真偽は定かではありませんが、調査で出された数より実際はもっと多いのではないでしょうか。
海老:大阪で一九九八年に大阪市立大学都市環境問題研究会が行った調査(先の海老報告では「大阪市での実態調査」という)で確認された八六六〇人という数字は、昼間と夜間の両方でかなり正確に数えたものです。
先の全国調査では目視による概数調査と当事者への聞き取り調査の二本立てで実施されました。私は堺市での調査に参加しました。地域によっては夜間しか把握できない場合もあるので、夜間の調査も行われました。事前に調査を行いテントを訪問して、聞き取り調査協力をお願いしました。その際、テントの数とひとつのテントに何人いるかも確認しました。一つのテントに三人のグループで生活されている場合は三人とカウントしました。以前行なわれた大阪府下の実態調査のときは、堺市のある公園では親子四人連れを確認しました。
●ホームレス(野宿者)の生活
川上:ホームレスの人も働いているのですが、アルミ缶を一生懸命集めても、どんなにがんばっても月収は最高で五万円くらいにしかなりません。五万円の月収だったら家賃は出てこないのです。アパート代はもちろんのこと、ドヤ(簡易宿泊所)代にしても、カプセルホテル代にしても出てこないのです。だから野宿するしかないのです。
海老:私の住んでいる堺市などはすごいです。今日も朝、午前五時に起きて家を出たのですが、駅まで歩く一〇分くらいの間にアルミ缶を回収している人を七、八人見ました。女性もおられます。
釜ケ崎では、公的就労事業である高齢者特別清掃事業で働く五五歳以上の高齢日雇労働者の収入は、一日五七〇〇円です。それは月に三日しか回ってこないため、月収一万七〇〇〇円くらいです。それ以外の日は、主にアルミ缶回収の仕事をしているわけです。回収している人に聞いてみると、だいたい一日三`から七`程度を集めます。なかには一日一五`集めるという人もいますが、大きな袋を自転車に四つも五つも積み上げて運転するのは大変なことです。業者が買い取る値段は、一`九〇円で、平均一日二七〇円から六〇〇円くらいです。そうすると月収は三万円くらいにしかなりません。実際、全国調査では月三万円未満という方が多いのです。ですから高齢者特別清掃事業は野宿を余儀なくされている人には非常に大きい意味をもっています。
唐鎌:ホームレスの自殺も増えていますでしょう。地域の支えも無くしてきて相談する相手もなく、家族も失って、生き恥をさらすよりはと死を選ぶ方が増えている。
海老:大阪府立大学の黒田研二氏たちが調べられたのですが、大阪市内の路上や公園で亡くなられた遺体の「死体検案記録」をもとに、二〇〇〇年には二一三人の死亡が確認されています。死因の内訳をみて注目すべきは自殺が五二人のは か凍死や餓死を含む不慮の死が五三人にのぼっています。
大須:自殺する人はどういう人でしょうか。たとえば年寄りに多いとか。
海老:死因別の年齢まではわかりませんが、これら二一三人の方の平均年齢は五六・一歳です。地区の労働者の平均年齢(あいりん労働公共職業安定所発行の雇用保険手帳所持者の平均年齢である五四・五歳)より高いですが、一般の労働者よりかなり若くて亡くなっています。
川上:ホームレスになるよりは自殺というふうになっているのではないかという気はします。それと、家族に迷惑をかけたくないということもかなり大きい要因でしょうね。
(連載シンポジューム「日本の勤労者─その労働と生活 第三回」月刊:経済2003年12月号 p163-165)
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そのような社会の中で、育つ子どもたちや大人の人格、ものの考え方や、感受性、人間関係、環境への責任──それらが、つぶされ歪められて、将来への希望さえ描くことのできない、荒涼とした貧しさが住宅問題の中にあるからである。
カネの豊かさが住の豊かさを亡ぼした──それは住宅問題の中に鮮明にあらわれている。