学習通信050127
◎「人間の尊厳のためのたたかいの場」……。

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英国のチャールズ皇太子の二男ハリー王子が先週、友人宅で開かれた仮装パーティーにナチスの制服姿で参加し波紋を広げている。本人は謝り父親の皇太子は「アウシュビッツ収容所を見てこい」と命じたという。

▼発見したのはソ連軍の偵察隊だった。ポーランド南部のオシフィエンチム。ドイツ語名アウシュビッツの雪に覆われた収容所に骨と皮の人たちがいた。二十七日が解放六十周年で、生存者や欧州各国首脳らも参加し記念式典がある。昨秋、現地を訪れた。正門に掲げた「働けば自由になる」の標語もそのままだった。

▼シャワー室に偽装したガス室、併設した死体焼却炉も残っている。収容者棟の内部が展示施設になっていて、収容者が持参したトランクの山、靴の山、眼鏡の山、義手や義足もある。子供服、小さな靴や人形は、とても正視できない。廊下に収容者の写真がずらり並び囚人服の顔、顔、顔が無言で見学者を見つめる。

▼三キロ離れた第二収容所(ビルケナウ)はさらに広大だ。監視棟の真ん中をくりぬく形で引き込み線が敷地の中央を貫く。各地から貨車で運ばれて来たユダヤ人は、ナチス軍医らの選別を受けた。働けないと見なされた人はガス室に直行、家族もばらばらにされた。ほぼ四人に三人が死を宣告されたという。風化させてはならない歴史がある。
(日経新聞050120 春秋)

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友達に誘われて「ワルソー・ゲットー」という映画をみたのは、中学生のときでした。ワルソーがポーランドのワルシャワだとも、ゲットーがユダヤ人街だとも、知らずに

▼記録映画でした。ワルシャワのユダヤ人をゲットーヘと閉じ込め、残虐の限りをつくすナチス・ドイツ。彼らに抵抗するユダヤ人。たしか終わりの方で、強制収容所のありさまが映されていました。以来、ナチス強制収容所の映像が心の一角に刻み込まれました。ヒロシマ・ナガサキの横に

▼アウシュビッツ収容所がソ連軍によって解放されたのは、六十年前の一月二十七日です。流れ作業の殺人工場アウシュビッツでは、ガス室も一つの工程でした。収容所長ヘスによれば、骨は「骨粉製造機」で粉末にして、森や野にまきました。灰は畑の肥料にも使われました

▼史上かつて例をみない「人工地獄」とよばれるアウシュビッツ。しかしアウシュビッツは、人間の尊厳のためのたたかいの場でもありました。ナチスの犯罪の証拠をひそかに外へ運んだり、たばこの巻き紙に記した告発文を、溶かしたロウの中に固め直して土中に隠したり

▼ナチ親衛隊ヘの武装蜂起を決行した囚人たちもいました。入り口にかかる「労働は自由への道」という標語の中のBの字がひっくり返っているのも、とりつけ作業をした囚人のささやかな抵抗と伝えられます

▼解放後六十年。といっても、まだ平均的な人の一生に満たない年月です。犠牲者の声に、もっともっと耳をすませたい。
(「しんぶん赤旗」050127 潮流)

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 人間のこわさというものは、その初めに極端で矛盾に満ちた方針を立てると、やがてそれに合わせてもっともっと極端な矛盾を冒し始め、その極端や矛盾を「極端」や「矛盾」と自覚しなくなるところにある。ポーランド人やユダヤ人を虐殺していたドイツ人達には、おそらく、自分達のしていることが殺人だという自覚はなかっただろう。

「自分達のしていることは不必要なものの始末だ」ぐらいの頭で、毎日ユダヤ人達を平気でガス室に送っていた。そして、強制収容所に送られるユダヤ人達の姿を目撃するドイツ人達も、そのユダヤ人達の運命≠ノついて、おそらくは考えなかった。「ドイツ人じゃないユダヤ人は、ドイツ人じゃないから追放する」というところで一九三五年のニュールンベルグ法は出来上がっている。それを容認してしまったドイツ人達は、「追放された者のその先は知らなくてもいい」だったはずだからだ。

 かくして、ユダヤ人は大量に虐殺される。虐殺されることと、強制収容所に入れられることとの間に、根本的な差はない。強制収容所とは、「国外がだめだから」という理由だけで仕方なく国内に作られた、「野垂れ死にさせるための場所」でしかないからだ。ポーランド人は強制収容所へ送られ、ユダヤ人も送られ、同性愛者も送られる。

「自分達と違う者」は、「いやな者、劣った者」で、そのレッテルを貼られた者は、みんな追放=処分の対象になる。矛盾と極端を容認した者は、やがてその矛盾と極端に合わせて、もっともっとひどいことを始める。そしてその矛盾と極端に気づかなくなる。一九三五年は、それが始まる第一歩の年なのである。
(橋本治著「20世紀 (上)」ちくま文庫 p269-270)

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(2)ユダヤ人に対する差別と迫害

 しかし、ユダヤ人は「バビロン捕囚」や「マサダの悲劇」にユダヤ人共通の被害者意識を持ち続けていました。このためユダヤ人はキリスト教が中心の西欧・東欧、キリスト教の一派である東方教会(ギリシア正教会)の信者の多いロシア世界の中にあっても、ユダヤ教を固く信じ、ラビ(指導者)のもと、シナゴーグという礼拝所を各地につくり、それによって世界に散らばった同胞と結び合い、励まし合って現在にいたっています。

ところが他宗派の人には、ユダヤ教徒の律法や儀式が目障りです。唯一神(ヤハウエ)がユダヤ人のみを「選ばれた民」としている事への反感もあります。特に反感を買ったのはイエスを売ったのが十二使徒の一人、ユダという人物で、これがユダヤ人だとされたことです。イエスは十字架にかかる前夜の「最後の晩餐」で、十二人の使徒に向かって「この中に私を裏切ったものがいる」と述べ、弟子たちを驚かせたと新約聖書にあるのがその根拠です。だからといって、ユダヤ人全体を迫害するのも矛盾しています。なぜならイエスもユダヤ人だからです。

 ユダヤ人に対するキリスト教徒を中心とする迫害は、キリスト教が公認され、国教となる四世紀頃にはすでにはじまっていましたが、本格的な差別と迫害は、一一世紀末からはじまるキリスト教徒のイスラム世界攻撃、すなわち十字軍の頃からでした。十字軍といえばイスラム教徒迫害との見方が常識ですが、十字軍兵士はエルサレムヘ向かう道々、遠征の資金・食料調達のために、ユダヤ人居住区を襲い、殺戮・略奪を繰り返していたのです。

制度化される差別

 また、キリスト教がヨーロッパ全体にひろがると、ユダヤ教徒は儀式のたびに人をさらい、その血を抜いて祭壇に捧げるとか、キリスト教の教会に供える聖餅を盗み、陵辱するなどのまことしやかなデマが流布されて、恐怖心と差別意識を煽り、ペストや飢饉が起こるたびに、ユダヤ人のせいにされ、猫といっしょに火あぶりにされたり、また子どもが人さらいに会ったりするたびに、無実の罪で虐殺されたりしました。特に、教皇権が確立した一一世紀から一三世紀には、教皇の名でしばしば勅令が出され、この結果、ユダヤ人に対する差別と迫害は制度化され、決定的になりました。

 まず、ユダヤ人は土地を持つことが許されなくなりました。したがって農業はやれず、また正業にも就けず、行商人や金貸し業に就かざるをえませんでした。

 また、教会のお触れにより、ユダヤ人には黄色いとんがり帽子や布きれ(バッチ)などの着用が強制され、ユダヤ人はキリスト教徒と会食することも、キリスト教徒の使う酒場、公衆浴場に入ることも禁じられ、両教徒は冠婚葬祭を共にすることも禁じられました。また両教徒間で性交渉を行うとユダヤ人は火あぶりの刑に処されました。

 一六世紀からは、ヨーロッパ各地でユダヤ人の隔離政策がはじまります。これをゲットーといいます。ゲットーは諸都市の城壁の外に小さな家がひしめき合うようにつくられ、壁で囲い込まれ、出入り口には監視人がつき、夜間とキリスト教の祭礼の日には外から鍵がかけられました。

迫害に耐えるユダヤ人

 ユダヤ人たちは一〇〇〇年以上にわたって差別され、迫害され、偏見の眼にさらされ続けました。迫害から逃れて西ヨーロッパを脱出した人びとはポーランドなどの東ヨーロッパ、さらにはロシアヘ、西に逃れた人びとはイベリア半島やアフリカ北岸へ移りました。

 現在、ユダヤ人は科学者アインシュタインや心理学者フロイト、映画監督スピルバーグ、ジャーナリストのピュリッツァー、アメリカの政治家キッシンジャーなど、科学・文化・芸術・政治・経済界に多数の人材を輩出しています。これに対してユダヤ人は民族的に優秀であるとか、逆に、だからユダヤ人は怖いなどの誤った評価がありますが、現在の地球上の人類はすべておよそ一五万年前に地球上に出現し、全世界に散った新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)に属しています。諸民族の間に本質的に差があるなどという根拠はありません。

それでは、ナチスが「ゲルマン人の純血」を守るとしてユダヤ人の絶滅政策を行ったことを認めざるをえなくなります。しかし、一説には、こうした長い歴史的迫害に耐え、差別とたたかうことから、厳しい問題意識、不屈の精神が養われ、苦難を克服するための人一倍の向上心と努力が相対的に著名人を多く生み出したのではないかと言われています。
(浜林・野口著「よくわかるパレスチナ問題」学習の友社 p15-18)

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◎「「自分達と違う者」は、「いやな者、劣った者」で、そのレッテルを貼られた者は、みんな追放=処分の対象になる。矛盾と極端を容認した者は、やがてその矛盾と極端に合わせて、もっともっとひどいことを始める。そしてその矛盾と極端に気づかなくなる」と……