学習通信050129
◎「いわゆる教科書ではないのです」……。

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読者に

 この『マキアヴェッリ語録』は、マキアヴェッリの思想の要約ではありません。抜粋です。なぜ私が、完訳ではなく、かといって要約でもなく、ましてや解説でもない、抜粋という手段を選んだかを御説明したいと思います。

 第一の理由は、次のことです。
 ニコロ・マキアヴェッリは、私がこれまでに書いてきた男や女たちとは、歴史上の人物という点では共通していても、一つのことで完全にちがっているのです。『ルネサンスの女たち』とも、チェーザレ・ボルジアとも、『神の代理人』でとりあげた四人の法王たちとも、そして『海の都の物語』にあらわれては消えていった男たちとも、決定的といってよいちがいが一つある。

 それは、彼が、作品を遺したということです。
 前記の人々だって、詩や手紙や公用文書ならば書いたのです。しかし、書くという作業が、これらの人々とマキアヴェツリとでは、意味がちがっていました。

 マキアヴェッリにとって、書くということは、生の証し、であったのです。失職したからやむをえずとはいえ、だからやむをえず「生の証し」にならざるをえなかったとはいえ、書くことが即人生となれぱ、気概からしてちがってくるのは当然でしょう。

 私が、『わが友マキアヴェッリ』と題した作品で相対することになったのは、このような人物でした。

 しかし、私が彼を書きたかったのは、彼の生涯と思想に興味をいだいたからだけではなかった。ルネサンス・イタリアでの代表的な都市国家を書こうと思い、『海の都の物語』でヴェネツィア共和国を書いた以上、残るはフィレンツェ共和国です。そして、マキアヴェッリという男は、このフィレンツェの現実と断り結んで果てたということにおいても、フィレンツェ共和国を描くのに適切な素材と考えたのでした。

 とはいえ、彼の一生はたかだか六十年にすぎない。これでは、一千年つづいたヴェネツィア共和国に比べれば短かかったとはいうものの、三百年は栄えたフィレンツェ共和国を描ききるのには、不充分というしかありません。フィレンッェ共和国史は、ダンテとその時代で興隆期を書き、コシモ・デ・メディチを中心にして書くことで、最盛期をとりあげ、そしてマキアヴェッリの生涯を書けば衰退期を書けると常々思っている私ですが、前の二つは、いつか誰かが書いてくれるでしょう。人の一生は、なにもかもやるには短かすぎます。

 では、はじめから不充分とわかっていることをやろうとしたのかと言われると、いや、ちがう、と答えるしかないのです。

 もしも、興隆の要因となったと同じものが衰退の要因になる、という私の仮説が正しければ、衰退期をとりあげるだけでも必らずしも不充分とはいえない。少なくとも、興隆期だけをとりあげるよりも、全体像の把握には役立つ。なぜなら、衰退期といえどもいくぶんかは以前にさかのぼって書く必要がある以上、全体像を視界に入れないとどうにもなりません。全体が視界に入れば、その民族固有の精神もつかむことができる。そして、このスピリットこそ「要因」であると思っています。

 マキアヴェッリの生涯は、このように考える私にとって充分に素材でありえたのでした。

 しかし、先にも述べたように、マキアヴェッリは、単なる素材ではない。作品を遺した思想家です。つまり、彼にとっての「生の証し」は、今日にまで残り、しかもただ残っただけではなく、古典という、現代でも価値をもちつづけているとされる作品の作者でもあるのです。生涯を追うだけで済まされては、当の彼自身からして、釈然としないにちがいありません。私は、彼を書くと決めた後もずいぶん長い間、どうやれば、彼の生涯と思想を両立させながら、かつまたフィレンツェ共和国の衰退と重ね合わせて書けるか、という課題に悩んだものでした。

 結局私が到達した考えは、両者を切り離す、というものだったのです。『わが友マキアヴェッリ』での彼は、一人の人間であると同時に、彼の生きた時代のフィレンッェを描くための素材でした。とはいえ、彼の思想の根本的なところ、つまりなぜそれがあの時代でもなお独創的であったのかという問題は、とりあげたつもりです。なぜなら、それにふれないでは、彼が「歴史的」「喜劇的」「悲劇的」な存在であったかが書けないだけでなく、同じく歴史的、喜劇的、悲劇的と評してもよいフィレンツェ共和国の衰退の様も、書けなかったからなのです。

 しかし、切り離しはしたものの、切り離した残りの思想を、どうとりあげるかという問題は残ります。

 この問題の解決に、従来研究者の間で支配的であったやり方、つまりマキアヴェッリの思想の解説というやり方は踏襲できませんでした。なぜなら、私の頭の中には、マキアヴェッリ自身の書いた一行がこびりついて離れなかったからです。

 それは、原文で引用するとこうなります。『君主論』の第十五章にある一行です。

 「わたしがここに書く目的が、このようなことに関心をもち理解したいと思う人にとって、実際に役立つものを書くことにある以上……」

 マキアヴェッリの頭にあった対象が、彼の生きた十六世紀はじめのフィレンツェ人と、それをより広げたにしても同時代のイタリア人であったことでは疑いはありません。

 しかし、時代の産物でありながら時代を越えるのが古典であるならば、五百年後の日本人の「このようなことに関心をもち理解したいと思う人にとって」も、「実際に役立つもの」かどうか、という問題だって生れてきて悪いわけがないではありませんか。

 ただ、この問題の解決だけならば、日本語に翻訳されている『君主論』と『政略論』を読んでください、と言ってすませることはできるのです。彼の著作全部の日本語完訳はまだ実現していなくても、代表作はこの二作なので、この二作さえきちんと読めば、彼の思想のほとんどはフォロー可能です。会田雄次先生責任編集で、中央公論社から刊行されています。

 しかし私は、彼の生涯にかぎらず彼の思想においても、彼と五百年後の日本人の間に横たわる柵を取り払ってしまいたかったのです。書かれた当時にみなぎっていた生気を、何とかして読者にも味わってもらいたかった。

 そう願う私にとっては、なぜ古典は敬遠されるのか、という問題まで解決しないと、根本的な解決にはならなかったのです。

 なぜ古典は敬遠されるのか。
 学問の徒でない私から見れば、それは、本文に附けられた膨大な「註」にあるように思えます。とはいっても、あの註を詳細に読んでいかないかぎり、本文も充分に味わえなくなるのだから困ります。とくにマキアヴェッリの場合は、具体的に実例を引用しながら論を進めるやり方をとっていますから、その具体的な事柄や人物がわからなくては、論のほうもわからなくなる。日本語版にある膨大な註は、そのような事柄や人物の解説なのです。

 ところが、彼の手稿や、彼の死後五年して刊行された初版本には、「註」というものがまったくありません。

 それは当り前の話で、マキアヴェッリは、「註」など必要としない事柄や人物を例に引きながら、論を進めたからです。彼の同時代人ならば、ああ、あれか、とすぐにもわかる事柄や人物を使って、彼の考えをくりひろげたのです。とくに彼が、『政略論』で教材≠ニして使ったティトウス・リヴィウスの『ローマ史』は、当時の西欧人にとってどのような存在であったのかとなれば、一昔前の日本人にとっての、司馬遷の『史記』のようなものだったのですよ。

 そして、もしもマキアヴェッリが現代日本に生を受け、『君主論』を書いたとしたならば、必らずとりあげたであろうと思われる人物は、例えば聖徳太子に秦の始皇帝、ジンギス汗に毛沢東、信長から坂本龍馬に西郷隆盛、もっとくだれば吉田茂からはじまって中曽根康弘、竹下登ときてレーガン、ゴルバチョフ、サッチャー……となる。これらの人々に、「註」は必要でしょうか。

 この条件の差は、なにも現代の日本人にかぎらなく、現代の西欧人とて同じだと言いたいのですが、そうではないのです。

 聖徳太子やジンギス汗がわれわれにとってことさら「註」を必要とする人物でないのと同じに、ユリウス・カエサルやアレクサンドロス大王は、現代の西欧人にとって、特別な高等教育を受けなくても周知の人物です。現に、現在刊行されているマキアヴェッリ全集にも、「註」というものはほとんどありません。イタリア語版の、つまり本書の原著にある註は、ときにある古風な言いまわしを現代語風に直しただけのものであり、英語版や仏語版でさえも、簡単なイタリア史の常識程度のことだけです。

 要するに、十六世紀当時のイタリア人にかぎらず、現代の西欧人でさえ、膨大な「註」に邪魔されることなく、マキアヴェッリの思想に接することがさほどの苦労なくできて、それに賛成とか不賛成とか言えるのです。敬遠しようにもできないほどに周知の、人や事柄にもとづいているのですから。だからこそ、五百年の間、西欧では、マキアヴェッリ派とアンチ・マキアヴェッリ派との間で論争が絶えなかったのでしょう。論争が活発であるということは、古の産物も生きているということです。

 それで、私は、「註」を取ってしまうことにしました。
 しかし、西欧の人々にとっては周知の事実であっても、彼らと文明圏を同じくしないわれわれには、周知の事実であるとはいえません。それで、「註」がないと理解できない、マキアヴェッリの引用した具体的な例証のほうも、取り払ってしまうことにしたのです。

 私の目的は、ただ一つ、マキアヴェッリの思想を、彼が対象にした人々に近い条件で、現代の日本人に提供したかったことにつきます。
 だから、この『マキアヴェッリ語録』は、彼の「生の証し」のエッセンスです。現代の日本人に適合するかどうかは考えに入れず、ただ、ただエッセンスだけを抽出しようとした結果です。私個人の主観は、どれをエッセンスと思うか、ということ以外入っていません。

 ただ、『戦略論』からのとりあげ回数が少ないのには、マキアヴェッリも納得してくれると思います。彼自身、こう書いているのです。

 「昔と今が最もかけ離れているのは、戦争に関する分野であろう。この分野だけは、古代では大変に有効であったことでも、今日ではとりあげる価値のないことが多い。それは、技術の進歩が最も影響する分野だからである」

 マキアヴェッリが生前に眼にすることのできた自著の印刷本は、この『戦略論』のみでした。

 ということは、この著作のほうが、『君主論』や『政略論』以上に、当時は受け入れられたということです。それなのに、五百年後の今日、バートランド・ラッセルの言を待たなくても、彼の代表作は、彼の死後にしか印刷されなかった『君主論』と『政略論』です。時代から受け入れられる度合いが強ければ強いほど、時代遅れになる危険性を内包している、という例の一つかもしれません。

 そういうわけで、この『語録』も、『君主論』と『政略論』からの抜粋が中心になっています。
(塩野七生著「マキアヴェッリ語録」新潮文庫 p3-11)

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 必要な本はむずかしくない

 歴史や社会科学の場合には、事情がまったく違ってくるでしょう。しかしまた、幾何学のようなものとも、違う点があるのではなかろうかと思われます。それがどう違うかということを話しはじめると、きりがありませんが、要するに、歴史や多くの社会科学的な仕事は、それが偉大であればあるほど、歴史家や学者の個性につながってくるもので、個性につながってくる以上は、その著者の人間的経験から完全に切り離すことができない。

もちろん、歴史的叙述をたどり、社会科学的分析のあとをたどることは、著者の人間的経験の深みまでおりてゆかなくてもいちおうはできることであり、文学・芸術の場合とは違って、それはそれなりに意味のあることでしょう。しかし、たとえばマキァヴェッリの『君主論』に抽象的な言葉で提出されている政治論や社会観は、その背景に、具体的なイタリア文芸復興期の権力闘争と政治闘争の状況があり、その状況のなかで一役を演じたマキァヴェッリ自身の経験があり、その経験からひき出された一種の哲学があるのです。そこまで読まないと──いや、『君主論』はそこまで読まざるを得ないので、著者の経験とその理論とを切り離して考えることはできません。

 しかし、経験は特殊な状況のなかで、ある特別な人に、いわば偶然に与えられるものです。だれにでも同じ経験があるとはかぎりません。ある人の経験はマキァヴェッリの経験に通じ、また、ほかのある人の経験は彼の経験に通じないでしょう。だから、立場を異にする多くの思想があるということにもなるのだろうと思います。他人の書いた本を読んでも、その人と私たち読者とのあいだに同じ質の経験が共有されていなければ、ほんとうの徹底的な理解は、歴史の場合にさえ、また政治学や社会学の場合にさえ、容易に得られないといってよいのではないかと思います。

 もし、本がむずかしいとか、やさしいとかいう言葉を使えば、だれにとってもむずかしい本、だれにとってもやさしい本というものは、少ない。それは人によって違うことで、一般に『君主論』はむずかしいともやさしいともいえないのです。もう一歩を進めていえば、私にとってむずかしい本は、私にとって必要でなく、私にとって必要な本は、私にとってかならずやさしい、とさえいえるでしょう。もう少し具体的な例をとってみましょう。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p200-201)

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なぜ古典の学習を重視するか

結論的な命題だけでなく、精神・方法の真髄をつかむ

 わが党は、以前から、科学的社会主義の理論を学習するうえで、古典と呼ばれるマルクス、エンゲルス、レーニンの著作の学習を非常に大切にしてきました。きょうは、なぜこの古典を重視するか、ということを、まず最初に考えたいと思います。

 哲学についても、経済学についても、あるいは社会主義論にしても、いろいろな手引き書や入門書、いわば教科書的な書物は数多くあります。そういう本は、弁証法とはなにかとか、経済学の基本にはどんな命題があるかなどを、大づかみに勉強しようというときには、問題が要領よくつかめるし、なかなか便利なものです。ただ、科学的社会主義の理論を手引き書で勉強するのと、古典で勉強することとのあいだには、たいへん大きな違いがあります。

 どこに違いがあるのか。
 第一の問題として、理論のいろいろな分野で、科学的社会主義の重要な命題がありますが、それをできあがった結論としてだけつかむのではなく、どうしてこの結論がひきだされたのか、どうしてそこにいたったのかという方法、あるいはそこに流れている精神をあわせてつかめるところに、古典の学習の値打ちがある──このことを、私はまず指摘したいと思います。

 マルクスにしても、エンゲルスにしても、生まれたときから、自分の頭のなかに、科学的社会主義の理論の体系を入れていたわけではありません。たとえば、マルクス、エンゲルスが、史的唯物論の立場をまとまった形でほぼつくりあげたのは、一八四〇年代の前半、二人が二十歳台なかばの青年時代でした。しかし、その理論も、その時点ですべてが完成していたわけではありません。二人とも、史的唯物論を仕上げ、充実させ、豊かにしてゆく仕事を、その生涯の最後までつづけました。唯物論の哲学や弁証法についても、経済学についても、社会主義や階級闘争の理論についても、そういう努力が最後までつづけられました。

 ですから、マルクス、エンゲルスが書いたものは、どんな著作でも、できあがった体系を読者に説明するという、いわゆる教科書ではないのです。著作には、いろいろな性格のものがありますが、そのどれも、ときには探究し、ときには論戦しながら、科学的社会主義の理論を生きた形で発展させ、仕上げ、展開している文献です。ですから、そこにはおのずから、天才的な思想家たちの生きた思考があり、真理にせまってゆく理論の発展の生きた姿があります。

 この生きた思考、その発展の生きた姿の真髄をつかむことが、重要です。私たちは、マルクスやエンゲルスから一世紀以上も離れたあとの時代に生きて、彼らが訪れたこともない日本列島で活動していますが、この真髄をつかめば、現代をとらえ、将来を展望する理論的な指針を得ることができます。レーニンは、マルクス、エンゲルスよりは時代が近いわけですが、基本的には同じことです。

 古典を学ぶ大事な点の一つは、そこにあるのです。教科書的な書物は、マルクス、エンゲルス、レーニンが明らかにした命題をきちんと整理してしめしてくれるという点ではわかりやすいところがあります。しかし、その精神をつかむうえでは、やはり足りないのです。古典の学習には、なかなか難しいところがありますが、やはり多くの人が古典にじかにぶつかって、結論的な命題だけでなく、そこにいたる精神やその議論をつらぬいている方法をつかむ努力をしてほしい、と思います。
(不破哲三著「古典学習のすすめ」新日本出版社 p10-12)

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◎「彼の思想の根本的なところ、つまりなぜそれがあの時代でもなお独創的であったのかという問題は、とりあげた」。「私の目的は、ただ一つ、マキアヴェッリの思想を、彼が対象にした人々に近い条件で、現代の日本人に提供したかったことにつき」る。と。

◎「他人の書いた本を読んでも、その人と私たち読者とのあいだに同じ質の経験が共有されていなければ、ほんとうの徹底的な理解は、歴史の場合にさえ、また政治学や社会学の場合にさえ、容易に得られないといってよいのではないか」と。

◎「多くの人が古典にじかにぶつかって、結論的な命題だけでなく、そこにいたる精神やその議論をつらぬいている方法をつかむ努力を」と。