学習通信050130
◎「その勇猛心が見当違いでないほうがいい」……。

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理論と現実

文法論争

 「理論は文法みたいなもの」と、さきに書いた。私たちは必ずしも文法どおりにしゃべっているわけではなく、ずいぶんはみだしたしゃべりかたをすることもしょっちゅうだが、でもそのなかを文法はちゃんとつらぬいている。理論と現実との関係も同様だ、という趣旨だった。
 なるほど、と思ったが、疑問がでてきた、とA君がいいだした。
 生きたコトバがしょっちゅう文法をはみだしているとすれば、そのはみだしている部分は文法では説明がつかない、ということになるのか。そのように、理論では説明のつかないことが現実にはたくさんある、と認めていいのか。──そうA君はいった。

 「それはそう認めてもいいんじゃないの」とB君がのんびりといった。「現実はつねに理論よりもゆたかだ、というだろう。あれはそういうことじゃないの」
 「ちょっとちがうんじゃない」とC子がいった。「でも、うまくいえないな。だいたい、私は文法が苦手だったんだ」
 「それ、そのいいかただけどね」とA君がせきこんだ。「いまC子がいったことは、文法的にはひどくおかしいね。私は≠ニいうのと文法が≠ニいうのと、主語が二つあるだろう。でも、生きた日本語としてはおかしくない。つまり、生きた日本語は文法では説明がつかないわけじゃないか」「アラ、が≠ヘ主語を示す格助詞だけど、は≠ヘ格助詞じゃないってならったと思うけど」とC子がいった。

 「文法は苦手なんていいながら、ずいぶんくわしいみたいじゃないか。それ、説明してよ」とA君。
 「説明なんてできないわ。だから苦手だといったじゃない」とC子がいった。

日本語の論理

 この議論は、私にはたいへんおもしろかった。
 山田孝雄といえば、神宮皇学館初代学長で、私などはその国粋主義者としての言動に、戦時中、中学生のころもっぱら接したものだが、日本語の文法体系の研究に新しい時期を両した氏の功績は、それなりに不滅のものだ。その山田氏が若いころ、ある塾で国語の教師をしていた。使っていた教科書には「は」も「が」もともに主語を示す助詞としてあり、山田氏はそれをそのまま受け売り的に講義していた。

 するとある日、一人の生徒が、自分たちが日ごろ使っている「は」という助詞は、主格以外のものを示しているといって、いろいろ例をあげて質問し、教科書の説はわからない、といった。
 山田氏は即答できず、次の週まで答を待ってくれといって、よく考えてみると、なるほど生徒のいうとおりとしか思えない。次の週、氏は、教科書の説はただしくないといって、生徒にあやまった。これが、山田氏が日本文法の研究に半生をささげるにいたったきっかけであったという。

 その後も「は」と「が」の問題は、いろいろに論議されたが、「象は鼻が長い」といった文章は、主語らしいものが二つもあり、日本語の非論理性を示すものだ、といったような考えが、あとをたたなかった。これにたいして三上章氏は、一九六三年『象は鼻が長い』という本を世に問い、日本語には日本語の論理があるということを強調した。「は」と「が」の問題についてのもっとも新しい論議は、手近なところで大野晋氏の『日本語の文法を考える』(岩波新書、一九七八年)にある。

 つまり、明治以後、まず確立された日本文法の体系は、ヨ−ロッパ語の文法体系を基準としてつくられたものであったのだ。日本語もヨーロッパ語も言語であるからには、当然そこには共通する論理がある。だからこそ、ヨーロッパ語を基準としてつくられた文法体系によっても、かなりのていどに日本語を説明することができたわけだ。

 しかし、これまた当然のことながら、日本語とヨーロッパ語とは同じではない。ヨーロッパ語を基準としてつくられた文法体系では説明のつかない部分がでてくるのは、そのためだ。しかし、それは日本語が非論理的な言語だということを意味するものではない。

 必要なことは、日本語の論理をただしくとらえる新しい文法体系をつくりあげるということだ。そしてそれは国際的な言語理論のいっそうの発展のためにも、おおきなやくわりをはたすにちがいない。

 理論の創造的発展

 理論の創造的発展は、つねにこのようにして実現されるのだろう。
 現実はつねに理論よりもゆたかだというのは、理論ではとらえきれない不合理な要素が現実にはふくまれている、ということではない。これまでの理論ではとらえつくせないものが現実にはあり、だからこそ、よりいっそうの理論の発展がつねに問題になる、ということだ。──その場合、これまでの理論は、理論の新しい創造的発展のためのたしかな足場となる。

 それにまた、現実のほうも不変ではない。変化し発展する。コトバだって変わるのだ。はじめは特殊な例外的ないいまわしにすぎなかったものが一般的になってくるという例はいくらもある。あやまった用法とみなされていたものが、いつのまにか正規の用法としての資格をかくとくしてくるということも。生活に根ざした用法であるかぎり、生活の発展とともにそうなる。発音だってそうだし、文法だってそうだ。「現実は理論よりもゆたかだ」ということは、そういうことをふくんでもいるだろう。
 もちろんこれは、コトバだけの問題ではない。

 理論のレベル

 「もうちょっとたしかめておきたいんだけど」とC子がいった。「英文法でも、しょっちゅう例外というのがでてきたわね。例外も文法のうち、と考えていいのかしら。例外のない法則はない、ともいうけれど……」
 「例外のない法則はない、というのはね」と、B君があいかわらずのんびりした調子でいった。

 「一年は三六五日ときまってるけど、例外としてうるう年があるようなものじゃないかな」
 そうだ、これはじつに適切なたとえだ。これに即して考えてみよう。
 一年は厳密には三六五日ではない。厳密には三六五・二四二二〇日、つまり三六五日と五時間四八分四六秒なのだ。一年は三六五日というのは、経験的にえられてきたおよその見当なのだが、これでやっていくと、ほぼ四年に一日分のずれ(おくれ)が生じる。そのことがまた、経験的にわかってきた。それで、四年に一度うるう年をおいて、このおくれを調節しよう、というのがユリウス暦の立場だった。

 しかし、これでもずれが完全になくなるわけではない。四年に一度のうるう年をおくということは、平均して一年を三六五・二五日とみなすということだ。これは一年を、〇・〇〇七八日、つまり一一分一四秒だけ長く見つもりすぎていることになる。そこで、ユリウス暦でいくと、一二八年間にほぼ一日分、暦のほうが実際よりもすすみすぎることになる。

 これは三八四年間におよそ三日のすすみすぎということになるから、ユリウス暦によるうるう年を四〇〇年間に三回だけへらせば、ずれはよほど小さくなり、四〇〇年間に〇・一二日のすすみすぎというだけにおさまる──という考えに立ってつくられたのがグレゴリオ暦……。
 「わかった!」とA君がいった。「法則に例外がでてくるのは、それが近似的な法則であるためだ」
 「暦とおなじように、法則や理論にも、近似性の度合に応じていろんなレベルがあるということにもなるかしら」と、これはC子。

 そうだ、そのとおりではなかろうか。文法だって、初級文法では、できるだけかんたんな、実用に適したかたちで、おおまかな法則をたてる。そして、それからはみだすものは例外現象として処理する。しかし、ヨリ本格的な文法理論では、その「例外現象」をもふくめて、すべての言語現象を統一的に説明できるような、ヨリ高次の法則を問題にする。こうやって、生きたコトバの生きた論理にむかってどこまでもかぎりなく肉薄していくのだ。

 こうして、生きたコトバの生きた論理に迫りえたとき、それは生きたコトバの生きた創造にはたらく生きた力ともなる……。
(高田求著「新・人生論ノート」新日本出版社 p240-245)

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言葉の定義をハッキリさせる

 楽譜や数学の式のように、日常生活に使う言葉とまったくかけはなれた表現法の場合には、習って覚えればわかり、習わなければ誰にもわからないというけじめがはっきりしています。しかし、日常使う言葉のなかからいくつかの単語を選びだし、その単語を定義することによって特別な目的に使うという場合には、字面をざっと見るだけではそのけじめがはっきりしません。日本人だから日本語で書いてある本は読めるだろう、ということもあるでしょう。

しかし、あたりまえの教養がある日本人が知っている日本語は、日常生活で使う日本語です。特定の学問のために特定のやり方で定義された日本語は、形は似ていても、じつは日常生活で使う日本語とは別のものです。むしろ、楽譜や数学の式に似ているといっていいでしょう。それを覚えればわかるし、覚えなければわからないということになります。本を読んでわかるということの出発点は、なによりもまず、その本のなかに用いられている特殊な言葉の定義を、はっきりと順に入れる努力を、はじめにしておくことだと思います。

定義を理解するためにいくらか時間がかかり、それを覚えこむために、なおさら時間がかかるかもしれません。しかし、一度そうしておけば、その領域でのすべての本を、比較的容易に、比較的正確に読むことができるし、そういう第一歩の手続きをはぶいてとりかかると、いつまで読みつづけていても、つねに隔靴掻痒(かっかそうよう)の感が残り、つまるところ、素人にはなんにもわからないということになりかねないのです。

あいまいな言葉をなくす

 しかし、特殊な言葉が定義されて用いられている本は、じつは、かえってわかりやすい本だといっていいでしょう。もう少し一般的な言葉で書かれていて、その大事な言葉の定義が、その本のなかでも、またそのほかのどこでも、はっきり与えられていないことがあります。社会科学的な本にはそういうことが多いし、また雑誌の論文や新聞の社説にはそういうことが多い。以前『朝日新聞』の学芸欄が「あいまいな言葉」という特集をしたことがあります。

そこに拾いあげられたあいまいな言葉は、いたるところで使われています。そういう文章や本を理解するには、どうしたらよいでしょうか。「自由」といい、「民主主義」といいます。また「進歩」といい、「反動」といいます。「伝統」とか「文化」とか、──だれでもいちおうわかっているような気がしていて、よく考えてみると、その意味のはっきりしない言葉が、数かぎりなくあります。

たとえば「税金でまかなっている大学を、国が管理するのは当然である」というときの「国」は、おそらく政府でしょう。「お国自慢」というときの「国」は、日本国であるにしても、何々県であるにしても、とにかく政府という意味ではないでしょう。日本人は、自分の国のどこを自慢しても、政府だけはけっして自慢しないようです。

 とにかく、そういうあいまいな言葉をなんとなくわかったことにして、しかし、あいまいなままに残しておき、さて、そういう言葉を絶えず使いながら行なわれている議論がある。そういう議論を読んでも、その意味は、結局はっきりしてこないでしょう。そうかといって、この場合には、経済学や幾何学と違って、しかるべき辞書を引き、教科書を開いて、明確で一義的な定義を容易に見いだすというわけにはゆきません。もちろん字引をひくことはできるでしょう。しかし字引の説明は、おそらく、あまりはっきりしたものではないでしょう。そういう言葉は、多くの時代に、多くのグループによって、また多くの個人によってさえも、違った意味に使われてきたのです。

じょうずな事典の使い方

 たとえば「民主主義」というときに、その言葉の意味は、だれが、それを、いつ、どこで使ったかということによって、意味が違ってきます。ただ一つの定義でそれを片づけるわけにはゆきません。しかし、なんにもしないで、その場の空気に頼っていては、いつまでたっても意味がはっきりしません。なんとか工夫を立ててみる必要があるでしょう。その工夫は、どうも幾何学の場合よりも、はるかに面倒なことにならざるを得ないのです。

もう少し「民主主義」の例についていえば、まずなによりも先になすべきことは、とにかく、百科事典で「民主主義」の項目を調べてみることでしょう。そこには言葉のはじめの意味、それから、歴史的にその言葉がどういうふうに使われ、どういう内容をもってきたかということの概略が書いてあるはずです。また、同じような内容を百科事典の項目よりも、くわしく説明した適当な本があるとすれば、その本を少していねいに読んでみるのもよい方法だろうと思います。

その次には、「民主主義」というような言葉は、いまの日本では、絶えず目にはいり、耳に聞こえてくるのですから、そのたびごとに、その言葉がどういう意味に使われているかということを考えてみることです。そのとき、百科事典の項目で読んだ知識は、いわば土台として役立つでしょう。

 そういうことをしばらく繰り返していると、およそ「民主主義」という言葉の使い方にどういう種類があるかということが、しだいに整理されて頭にはいってくるでしょう。そこで、第三に、もし私たち自身が「民主主義」という言葉を使うとすれば、どういう意味で使うのが一番適当であるかを自分で考えてみることです。あるいは「民主主義」に自分なりの定義を与えようと努めてみることだといってもいいでしょう。どうせ厳密な定義は不可能です。

しかし、自分の立場に即して、一定の範囲のなかに言葉の意味を限定することだけは、きっとできるでしょう。もちろん「民主主義」という言葉の自分なりの定義は、同じ言葉を使うほかの人たちのあいだには通用しません。ある一つの本は、その定義で解釈することができるかもしれませんが、しかし、もう一つの本は、その定義では解釈できないでしょう。それでも、そういう自分なりの定義を持っていることは、ほかの人の本を読むときに理解の大きな助けになるはずです。

 その場、その場で、これはどういう意味だろうと考えるよりも、それぞれの場合に読者自身の「民主主義」と、著者の「民主主義」との距離を測定するほうが、はるかに操作が簡単で、整理が容易になるはずです。数かぎりなくある「民主主義」という言葉の意味は、いわば一つの意味からの距離にしたがって、頭のなかに配列されるということになります。──もちろん「民主主義」というのは、数かぎりなくある言葉のなかの、ただ一つの例にすぎません。

たとえば「自由」について、またたとえば「国家」について、またたとえば「恋愛」について、そういう操作を一度行なっておくことは、その後の読書が、その前とはくらべものにならないほど正確になる。別な言葉でいえば、たいていの本は読んでよくわかるということになります。

 さきにも触れたように、信号灯の赤がなにを意味し、青がなにを意味するかを知らないで道路に出るのは危険このうえもないことです。本を読むには、用語の定義をあらかじめ知っておけば、それにこしたことはありません。できあいの一つの定義がない場合には、手間がかかっても、自分で仮の一つの定義をこしらえ、その定義をもとにして、同じ言葉の多くの意味を整理することから出発します。

そういうことを心得ておくのは、意味のわからない言葉の呼びきます扇情的な気分に敏感であることよりも、長い目で見れば、おそらく有益なことでしょう。本とか、論文とか、記事のなかに、たとえば「進歩」あるいは「反動」という言葉が出てくるとすれば、まず、「進歩」がなにを意味し、「反動」が具体的にはなにを意味しているかに注意することが大切です。

その意味がある程度まではっきりしないうちに、著者が、わが党の士であるか、敵陣営に属するかということに興奮し、熱中し、勇猛心をふるい立たせるのは、壮はすなわち壮なりといえども、あまり賢明とはいえない。そういう仕方で興奮していると、いつまでたっても気分的に敵味方を直観して、興奮するということを繰り返してゆくほかはありません。せっかく勇猛心をふるい起こすのなら、その勇猛心が見当違いでないほうがいいでしょう。
(加藤周一著「読書術」岩波現代文庫 p185-191)

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◎「現実はつねに理論よりもゆたかだというのは、……これまでの理論ではとらえつくせないものが現実にはあり、だからこそ、よりいっそうの理論の発展がつねに問題になる、……──その場合、これまでの理論は、理論の新しい創造的発展のためのたしかな足場となる」と。