学習通信050131
◎女性は家庭に帰れ=c…。

■〓〓〓〓〓〓

 女性の義務は疑うことができない。ところが人々は、女性がその義務を無視しているのに同調して、子どもを自分の乳で育てようと、他人の乳で育てようと、同じことではないかというようなことで議論をたたかわしている。この問題は医者がその審判者となるべきだが、女性の望みどおりに裁定されていることをわたしは知っている。それに、わたしとしても、そこなわれた母親の血をうけて生まれた子は、その血からさらにまたなにか新しい病気をうつされる心配があるというなら、そういう母親の乳を吸うより健康な乳母の乳を吸うほうがいいと考えるだろう。

 しかし、問題をただ肉体的な面からのみ考えていいものだろうか。子どもは乳房と同じように母親の心づかいを必要としているのではないか。ほかの母親、あるいは獣でも、母親がこばむ乳を子どもにあたえることはできよう。母親としての心づかいにはかわりになるものがない。自分の子のかわりに他人の子を育てる女は、よくない母親だ。それがどうしてよい乳母になることができよう。よい乳母になることができるとしても、それには長い月日がかかる。そのためには習慣が変じて自然とならなければならない。そして子どもは、乳母が母親の愛情をもつようになるまでに、ぞんざいにとりあつかわれて、百たびも死ぬような目にあわされるだろう。

 乳母が母親の愛情をもつようになったばあいには、そこからまた別の不都合が生じる。それを考えただけでも、敏感な女性なら自分の子を他人に養育させる気がしなくなるだろう。それは母の権利を分かち合わなければならない、いや、譲り渡さなければならないということ、子どもがほかの女を自分と同じように、あるいは自分以上に慕うのを見ること、子どもがほんとうの母親にたいして感じる愛情はお情けの愛情で、養母にたいして感じる愛情は義務となることがわかることだ。母としての心づかいが見られたところにこそ、息子の愛着が見られるべきではないか。

 この不都合をなくす方法は、乳母をまったくの召使いとしてとりあつかうことによって、子どもに軽蔑の念を起こさせることだ。乳母のつとめがすむと、子どもはひきとられる、あるいは、乳母はひまをだされる。不愉快な応対をされているうちに、乳母は乳飲み子に会いにくるのがいやになってしまう。何年かののちには子どもは乳母に会うこともなくなり、顔も忘れてしまう。乳母にとってかわって、自分の怠慢を残酷な行為によってつぐなったと考えている母親は、思いちがいをしているのだ。恩知らずの乳飲み子をやさしい息子にすることはできずに、そういう女性は子どもに恩知らずな行為を教えているのだ。その乳で自分を養ってくれた者と同様に、自分に生命をあたえてくれた者も、いつかは軽蔑することを教えているのだ。

 有益な題目をいくらくりかえしてもむだで、がっかりするばかりだ、ということがなかったら、わたしはこの点をどれほど強調することだろう。これは人が考えているよりもはるかに多くのことに関係している。あらゆる人にその第一の義務をはたさせようとするなら、まず母親からはじめるがいい。あなたがたはそこから生じる変化にびっくりするだろう。なにもかもその最初の堕落からひきつづいて起こっている。道徳的な秩序はすべて失われる。天性はあらゆる人の心から消え去る。家の内部には昔のような生き生きした空気がなくなる。新しい家庭の感動すべき情景も夫の心をとらえることなく、他人の尊敬の念を呼び起こすこともなくなる。子どもと一緒にいない母親は尊敬されなくなる。家庭は休息の場でなくなる。血のつながりも習慣によってつよめられることもなくなる。父も母も、子どもも、兄弟姉妹もいなくなる。たがいによく知らない人間になる。そんな人たちがどうして愛し合うことができよう。みんな自分のことだけしか考えなくなる。家のなかがわびしい孤独の境のようなところにすぎなくなれば、どうしても外へ楽しみをさがしにいかなければならない。

 ところが、母親がすすんで子どもを自分で育てることになれば、風儀はひとりでに改まり、自然の感情がすべての人の心によみがえってくる。国は人口がふえてくる。この最初の点が、この点だけがあらゆるものをふたたび結びつけることになる。家庭生活の魅力は悪習にたいする最良の解毒剤である。わずらわしく思われる子どもたちの騒ぎも愉快になってくる。父と母はますますたがいに離れがたく睦み合うようになる。夫婦の絆がいっそう固くなる。家庭が生き生きとしてにぎやかになれば、家事は妻のなによりも大切な仕事になり、夫のなによりも快い楽しみになる。こうして、ただ一つの欠点が改められることによって、やがて一般的な改革がもたらされ、自然はやがてそのすべての権利を回復する。ひとたび女性が母にかえれば、やがて男性はふたたび父となり、夫となる。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p38-40)

■━━━━━

(2)家庭教育を重視する

また、改めて言うまでもなく教育の基本は家庭にある。義務教育段階での教員の仕事の過半が授業そのものよりも「生活指導」に割かれているとの指摘もある。親は、基本的な生活習慣、善悪の判断などの基本的倫理観、社会的なマナーなどを身に付けさせることは自らの義務であると自覚すべきである。また、学校選択制度が導入されるとともに学校毎に特色ある活動が展開されていく中で、親は、子どもの通う学校を選択したという行為に責任を持ち、当該学校の運営に建設的な形で関り、協力することが必要である。

また、昨今の学力低下の原因として、「食事や睡眠といった『生活習慣』をないがしろにしたことで,子どもたちの体力・知力・根気(つまり『生きる力』そのもの)が低下している」との指摘もある。朝食を食べているか否かが学力に影響しているという調査結果もある#15。学校でできることには限界があり、家庭が、学力低下の責任を学校に問う前に、自ら取り組むべきことを考えることが重要である。

例えば、英国では「家庭と学校の教育契約」が法的に義務付けられ、学校教育に関するそれぞれの責任を明確化している。また。英国、フランスや韓国では、教育基本法に、生徒の義務として学校の規律を守ることなども明記されている。日本においても、本人や保護者が教育を受ける権利を持つと同時に責任も持ち、学校と協力して教育を再建していくという意識を深める必要がある。
(21世紀を生き抜く次世代育成のための提言 −「多様性」「競争」「評価」を基本にさらなる改革の推進を−2004年4月19日(社)日本経済団体連合会)

■━━━━━

 〔社会統合の破綻を家族や共同体で締め直す〕

 「草案大綱」には、新聞やマスコミで注目されていうように、一見「復古主義」的とみえる、家族や共同体の再建をめざす内容ももり込まれています。草案は、冒頭で、「基本的考え方」として、我が国のこれまでの歴史、伝統及び文化に根ざした固有の価値……「国柄」を踏まえた憲法でなければならないとしています。そのうえで、「天皇の元首化」(第二章)を規定したり、憲法の中に教育の目的を謳って「我が国の歴史・伝統・文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与するような態度を涵養することを旨として行わなければならない」(第三章第四節)という規定を入れたりしています。

 自民党の改憲プロジェクトチームの論点整理(案)のさいには、より露骨に二四条の見直しが主張されましたが、今回も「家庭の保護」規定を設けています。「家庭が社会生活において大切な共同体であり、子どもの健全育成の基盤であることにかんがみ」家庭の保護規定を設けるという規定です。

 これらの規定は、訓示的な規定に見えますが、実際には、さまざまな形で国民の権利を充実させる立法措置に対する制限という形で働くことが考えられます。実際にはこうした家庭の保護規定などは、「構造改革」のもとですすめられている女性の非正規労働者化の進行とは明らかに矛盾します。「グローバル」経済のもとでは、女性は家庭に帰れ≠ニ本気で求めることなど不可能です。しかし、こういう規定を入れることによって、犯罪の増加や子どもたちのさまざまな荒れを、家庭(家族)を再建することによって突破していこうというイデオロギーを強化したい、そこに狙いがあります。
(渡辺治「「自民党・憲法改正草案大綱」はなにを狙うか」前衛 〇五年二月号 p61-62)

■━━━━━

 対偶婚家族自体は、自分の世帯を必要としたり、ないしはせめても望ましいとするには、あまりにも弱く、あまりにも非永続的なので、これは、以前の時代から受けついだ共産主義的世帯を解体させることは決してない。だが共産主義的世帯は、家庭内での婦人の支配を意味するのであって、これは、実の父を確実に知ることが不可能なための、もっぱら実の母だけの承認ということが、婦人つまり母親にたいする高い尊敬を意味するのと同じである。

社会の初めには婦人は男子の奴隷であったとするのは、一八世紀の啓蒙思想から受けつがれたもっともばかばかしい観念の一つである。婦人は、すべての野蛮人のあいだで、また下段階と中段階のすべての未開人のあいだで、部分的には上段階の未開人のあいだでさえ、自由な地位ばかりでなく、高い尊敬をはらわれる地位をしめている。対偶婚のなかでもなおそうであることは、イロクォイ・セネカ族のあいだで多年宣教師をしていたアシャーライトに証言してもらおう。

すなわち、「彼らの家族について言えば、彼らがまだ古い共同長屋」(数家族の共産主義的世帯)「に住んでいたときには、そこではつねにある一クラン」(一氏族)「が優勢な地位をしめ、そのため婦人は他のクラン」(氏族)「から夫を迎えた……。……婦人の側が家を支配するのがふつうであった。〔……〕貯蔵品は共有であったが、共同貯蔵品に自分の分担分を寄与できぬほど甲斐性なしか、不器用である不運な夫や彼氏はあわれであった。どんなに多くの子どもを、どんなに多くの自分の物を家にもっていようとも、彼はいつでも、荷物をまとめて出てうせろと命令される覚悟でいなければならなかった。そして〔……〕それにさからうことはゆるされなかった。彼は家にはとてもいたたまれなくなった。〔……〕彼は自分のクラン」(氏族)「にもどるか、それとも、よくあるように、別のクランで新しい婚姻関係をさがすかするよりほかなかった。婦人はクラン」(氏族)「内では大勢力であったし、その他のどこでもそうであった。ときには、首長をやめさせ、ふつうの戦士の地位におとすことも、彼女たちにはなんでもなかった」。

──婦人の大部分または全部が同一の氏族に属するが、男子たちは異なる氏族に分かれているこの共産主義的世帯が、原始時代にあまねく広まっていたあの婦人優位の実質的基礎なのであって、この婦人優位をもまた発見したことが、バッハオーフェンの第三の功績である。──なお付言すれば、野蛮人や未開人のあいだでは婦人が過大な仕事をになわされているという、旅行者や宣教師たちの報告は、決して上述したことと矛盾するものではない。

両性のあいだの分業は、社会における女の地位とはまったく別な原因から生じてくる。婦人が、われわれの観念から見て応分だと思われるよりはるかに多くの仕事をそのなかでしなければならない諸民族が、往々にして、われわれヨーロッパ人よりもはるかに多くの真の尊敬を婦人にたいしてはらっているのである。

うわべの敬意にかこまれ、真の仕事からはいっさい遠ざけられている文明時代の淑女は、骨の折れる仕事をする未開時代の婦人よりも限りなく低い社会的地位にあるのであって、未開時代の婦人は、その民族のなかで真の淑女(レデイlady〔英語〕、フローワfrowa〔古代高地ドイツ語で家長を意味するフローの女性形、フラオfrau〔ドイツ語〕=女主人)とみなされたし、その性格から見てもそういうものであった。
(エンゲルス著「家族・私有財産・国家の起源」新日本出版社 p67-69)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「社会の初めには婦人は男子の奴隷であったとするのは、一八世紀の啓蒙思想から受けつがれたもっともばかばかしい観念の一つである。」……自民党や財界の水準が問われます。