学習通信050201
◎「資本主義は、新しい諸制度の物質的諸条件を創り出し」……。

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 彼らは、まさに、以前の社会主義者たちの主観的な方法を批判することから始めたのであった。彼らは、搾取の存在を確認して、それを非難することに満足せずに、搾取を説明しようとしたのである。彼らは、ロシアの農奴制改革後の全歴史が大衆の零落と少数者の富裕化にあると認め、あらゆる場所での技術的進歩と並んでおこなわれている小生産者の巨大な規模での収奪を観察し、これらの両極端の流れは、商品経済が発展し、確固としたものになりつつあった場所で、またその限りにおいて、発生し、強まりつつあることを認めたのである。

そして、彼らは、彼らが直面しているのが、大衆の収奪と抑圧を必然的に生み出している、ブルジョア的(資本主義的)社会経済組織であることを、結論せざるをえなかった。彼らの実践的綱領は、この確信によってすでに直接規定されていた。その綱領は、へんぴな農村から最新の改良された工場にいたるまで、ロシアの経済的現実の主要な内容になっている、プロレタリアートのブルジョアジーにたいするこの闘争に、また無産者階級の有産者階級にたいする闘争に加わっていくことに帰着していった。

どのように加わるのか?──これにたいする答えを彼らに示唆したのは、またもや現実そのものであった。資本主義は、産業の主要な諸分野を機械制大工業の段階まで導いた。

このように生産を社会化することによって、資本主義は、新しい諸制度の物質的諸条件を創り出し、同時に新しい社会的力、工場労働者、都市プロレタリアートの階級を創り出した。

ロシアの全勤労住民の搾取は、その経済的本質からして、ブルジョア的搾取であるが、プロレタリア階級はその同じブルジョア的搾取をこうむりながら、自分たちの解放にとってとくに有利な条件下に置かれている。この階級は、完全に搾取の上に形成されている古い社会と、もはやなんの結びつきもない。彼らの労働の諸条件そのものと生活環境が彼らを組織化し、ものごとを考えさせ、彼らが政治闘争の舞台に登場する可能性を与えている。

当然のことながら、社会民主主義者は、自分のすべての注意とすべての期待をこの階級に向け、社会民主主義者はその綱領をこの階級の階級意識の発展へ帰着させ、この階級が現代の制度にたいする直接的な政治闘争に立ち上がり、この闘争にロシアの全プロレタリアートを引き入れるのを援助するために、その全活動を向けるようになった。
(レーニン著「人民の友とはなにか」新日本出版社 p118-120)

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 書き込みの前半は、剰余労働の問題を中軸に、搾取社会の文明批判≠ニでもいうべき主題にあてられています。

(一)マルクスは、冒頭まず、「剰余労働」の存在が、人間社会の特定の段階に固有のものではなく、人間社会一般に共通する問題であることを確認します。考察はそこからはじまるのです。

 「剰余労働一般は、所与の欲求の程度を超える労働として、つねに実存し続けなければならない」(『資本論』I一四三三ページ)。

 マルクスは、この文章では、「必要労働」および「剰余労働」という概念に多少の変形をくわえて、人間とその社会の直接的な欲求をみたすための労働を「必要労働」、その範囲を超える労働を「剰余労働」と呼ぶことにしています。ここでは、こういう意味での「剰余労働」は、搾取社会だけでなく、人間社会一般に存在すること、つまり、人間による人間の搾取がなくなった未来社会にも存在することが、指摘されているのです。

 マルクスは、続いて、「剰余労働」の内容のたちいった考察をおこない、未来社会をも含めて、人間社会一般が必要とする剰余労働のなかには、次のような部分が含まれることを、明らかにします。

(イ)不慮の出来事にたいする保険のために必要となる剰余労働。
(ロ)高齢者や子どもたちのために必要な剰余労働(この項目は、次の第四九章に出てきます。同前一四八三ページ)。
(ハ)諸欲求の発達と人口の増加とに照応する、再生産過程の必然的な累進的拡張のために必要となる剰余労働。
(二)この問題で、搾取社会が共通してもつ特質は、剰余労働が「敵対的性格」、つまり、ある階級による他の階級の搾取という性格をもつこと、そのために、生産者が「必要労働」と「剰余労働」の双方を担うのにたいし、支配者の側は「まったくの無為」を特徴とする、ということです。

 「剰余労働は、資本主義制度においては、奴隷制などでと同じように、ただ敵対的形態をとるほかなく、社会の一部分のまったくの無為によって補足される」(同前一四三三ページ)

 「社会の一部分のまったくの無為」というのは、搾取階級とそれに関連する諸階層が、社会が必要とする生産労働にまったく参加しない立場に立つことを指しています。マルクスがいまの引用の次の部分で述べているように、搾取社会では、生産労働に参加しないこの部分が、「物質的および知的諸利益」を含む「社会的発展」を「独占化」することになるのです。

「独占化」とは、生産をになう被搾取階級が、社会の物質的な富からも、知的な諸活動からも排除され、この分野が、搾取階級と関連諸階層の独占的な領域となることを指しています。これは、搾取社会、階級社会では、労働する階級は、人間的発達の条件がきびしく制約される、ということです。

(三)資本主義の歴史的な役割は、この剰余労働を、それまでの搾取社会のいかなる形態よりも、急速かつ大規模に発展させるところにあります。しかも、資本主義制度は、これまでの搾取諸形態(奴隷制・農奴制など)にくらべて、生産諸力の発展、社会的諸関係の発展、そしてより高度の新たな社会形態(社会主義・共産主義)のための諸要素の創造などにとって、「いっそう有利な様式と諸条件とのもとで」剰余労働の強制をおこなうところに、なによりの特質をもっていました(『資本論』I一四三四ページ)。

 マルクスは、このことを「資本の文明化的側面」と呼んでいますが、その発展は、一方では、これまでのすべての搾取社会で剰余労働がとっていた敵対的形態──社会の一部分(支配諸階級)が他の部分(被支配諸階級)を犠牲にして「物質的および知的諸利益」を独占するという形態──が打破される社会発展の新段階に、道をひらきます。

 また他方では、この新段階は、「社会のいっそう高度な一形態」をもたらします。そこでは、この剰余労働を、「物質的労働一般にあてられる時間のいっそう大きな制限と結びつける」こと(労働時間の短縮)を可能にする「物質的諸手段、およびその萌芽」がつくりだされるのです(同前)。

 これは、資本主義的な発展を通じて、労働時間を抜本的に短縮し、すべての人間に、人間的発達に必要な自由な時間を保障するための土台がつくりだされてくる、ということです。

 こうして、資本主義的生産様式の歴史的役割が、「より高度の新たな社会形態」への発展の要素・条件をつくりだす点にあること、なかでも、労働時間の短縮によって、社会のすべての人間が、社会発展の生み出す「物質的および知的諸利益」をうけとり、広い社会活動に参加するための「自由な時間」をもつような社会発展を可能にする条件をつくりだす点にあることを確認したうえで、マルクスは、次の考察──未来社会で、剰余労働をめぐる状況にどのような変化が起きるかの考察に進みます。
(不破哲三著「マルクス未来論」新日本出版社 p188-193)

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 すでに見たように、資本主義的生産過程は、社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。この後者〔社会的生産過程〕は、人間生活の物質的実存諸条件の生産過程であると同時に、また、独自な歴史的=経済的な生産諸関係において行なわれる、この生産諸関係そのものを──したがってまた、この過程の担い手たちを、彼らの物質的実存諸条件と彼ら相互の諸関係とを、すなわち彼らの一定の経済的社会形態を──生産し再生産する一過程でもある。

というのは、この生産の担い手たちがそこにおいて自然と結び相互に結び合うこれらの関連の全体、彼らがそこにおいて生産するこれらの関連の全体、この全体こそ、社会──その経済的構造から見ての──だからである。資本主義的生産過程は、それに先行するすべての生産過程と同様に、一定の物質的諸条件のもとで行なわれる。

ただし、これらの諸条件は、同時に、諸個人が彼らの生活の再生産過程で取り結ぶ一定の社会的諸関係の担い手でもある。これらの〔一定の物質的〕諸条件は、この〔一定の社会的〕諸関係と同じく、資本主義的生産過程の、一方では前提であり、他方では結果であり創造物である。それらは、資本主義的生産過程によって生産され再生産される。

さらに、すでに見たように、資本は──そして資本家は、人格化された資本にほかならず、生産過程では資本の担い手として機能するだけである──、したがって資本は、それ〔資本〕に照応する社会的生産過程において直接的生産者たちまたは労働者たちから一定分量の剰余労働をくみ出すのであり、この剰余労働は、資本が等価物なしで受け取るものであり、いかにそれが自由な契約による合意の結果として現われようとも、その本質から見れば依然としてやはり強制労働である。

この剰余労働は一つの剰余価値のうちに現われ、この剰余価値は一つの剰余生産物のうちに実存する。剰余労働一般は、所与の欲求の程度を超える労働として、つねに実存し続けなければならない。〔しかし〕剰余労働は、資本主義制度においては、奴隷制などでと同じように、ただ敵対的形態をとるほかなく、社会の一部分のまったくの無為によって補足される。

一定分量の剰余労働は、不慮の出来事にたいする保険のために必要であり、諸欲求の発達と人口の増加とに照応する、再生産過程の必然的な累進的な拡張──この拡張は資本主義的立場からは蓄積と呼ばれるものである──のために必要である。資本がこの剰余労働を、奴隷制・農奴制などの以前の諸形態のもとでよりも、生産諸力の発展にとって、社会的諸関係の発展にとって、またより高度の新たな社会形態のための諸要素の創造にとって、いっそう有利な様式と諸条件とのもとで強制するということは、資本の文明化的側面の一つである。

こうして資本は、一方では、社会の一部分による、他の部分を犠牲にしての、強制と社会的発展(その物質的および知的諸利益を含む)の独占化とが見られなくなる一段階をもたらす。他方では、この段階は、社会のいっそう高度な一形態において、この剰余労働を物質的労働一般にあてられる時間のいっそう大きな制限と結びつけることを可能にする諸関係のための、物質的諸手段、およびその萌芽をつくりだす。

というのは、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいで、総労働日が小さくても大でありうるし、総労働日が大きくても相対的に小でありうるからである。もし必要労働時間が三時間で剰余労働が三時間ならば、総労働日は六時間で、剰余労働の率は一〇〇%である。必要労働が九時間で剰余労働が三時間ならば、総労働日はこ一時間で、剰余労働の率はわずかに三三1/3%である。

しかし次に、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性に依存する。したがって、社会の現実的富と、社会の再生産過程の恒常的な拡大の可能性とは、剰余労働の長さに依存するのではなく、剰余労働の生産性、および剰余労働が行なわれる生産諸条件の多産性の大小に依存する。自由の王国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。

したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある。野蛮人が、自分の諸欲求を満たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないように、文明人もそうしなければならず、しかも、すべての社会諸形態において、ありうべきすべての生産諸様式のもとで、彼〔人〕は、そうした格闘をしなければならない。彼の発達とともに、諸欲求が拡大するため、自然的必然性のこの王国が拡大する。しかし同時に、この諸欲求を満たす生産諸力も拡大する。

この領域における自由は、ただ、社会化された人間、結合された生産者たちが、自分たちと自然との物質代謝によって──盲目的な支配力としてのそれによって──支配されるのではなく、この自然との物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同の管理のもとにおくこと、すなわち、最小の力の支出で、みずからの人間性にもっともふさわしい、もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうこと、この点にだけありうる。しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の王国である。

この王国の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間の力の発達が、真の自由の王国が──といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の王国の上にのみ開花しうるのであるが──始まる。労働日の短縮が根本条件である。
(マルクス著「資本論L」新日本新書 p1432-1435)

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◎「これは、資本主義的な発展を通じて、労働時間を抜本的に短縮し、すべての人間に、人間的発達に必要な自由な時間を保障するための土台がつくりだされてくる、ということです。」