学習通信050205
◎「はしごをのぼるばあいには終点があります」……。

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真理の認識に終点はない

 それまですべての哲学者は他の哲学者の学説を非真理として排撃しながら、めいめいつぎのように主張してきたのでした──真理を認識するという哲学の任務は自分の哲学によってはじめて、しかも完全に達成された、と。このような考えかたそのものがあやまりだということをヘーゲルはあきらかにしたのです。

 「それぞれの哲学はそれぞれの時代にぞくし、時代の制限のなかにしばられている。個人はその民族の子、その世界の子である。個人がどんなにいばろうとも、かれはその時代をこえでることはできない。ちょうど、自分の皮膚をぬけでることができないように」とかれは指摘しました(『哲学史講義』序論)。そしてさらに、つぎのように指摘しました──先行する哲学があとからくる哲学によって反ばくされるのはそれがもっていた限界がのりこえられるということであって、まるごとなげすてられてしまうのとはちがうのだ、と。

すなわち、すべての哲学は自分こそ真理を究極的に認識しえたかのように考えるけれども、じつはそれぞれに歴史的な限界をもっているのであり、その限界があとからくる哲学によってのりこえられるところに、哲学そのものの前進が実現されてきたのだ、というのです。

 かれはさらに、つぎのようにいっています──それを実現していく一歩一歩の過程をぬきにしたら、どんなりっぱな目的であっても、それは生命のない一般的なものにすぎないし、またどんなりっぱな結果であっても、やはりこの過程からきりはなしてそれだけを固定させてしまったら、それは生命のない屍にすぎない、と(『精神現象学』序論)。

 真理の認識という哲学の目的は、それを実現していく一歩一歩の具体的な努力のなかにのみ生かされるのだ、といいかえることができましょう。その一歩一歩はもちろん、つねに限界をもち、不完全さをもっています。文句なしの無条件の真理性をもつもの──いいかえれば「絶対的な真理」──ではありません。条件つきの、相対的な真理性しかもちえないのです。そんなものはいやだ、絶対的な真理が手にはいるのでなければ、といってこの一歩一歩の努力をこばむとすれば、どのような具体的な真理の認識も手にいれようはないのです。

それはちょうど、はしごを一段一段とあがる努力をこばむようなものです。目的は頂上に到達することですし、途中の一段一段はもちろん頂上ではありません。だからといって、頂上そのものでなければ一段一段なんていやだ、といいたてるとすればどうでしょうか。こんな人にあっては、頂上に達するという目的は、どこまでいってもまさに「生命のない一般的なもの」にとどまらざるをえないでしょう。

 ところで、はしごをのぼるばあいには終点があります。一段一段とあがって頂上までたどりつけばもうおわりです。万歳をして、あとはおりるしかないでしょう。そこが「絶対的な頂上」なのですから。つまり、そこからうえは、もうないのですから。しかし、真理の認識のばあいには、そのような頂上はありません。いわゆる「絶対的真理」に到達して、そこからさきはもうなにもなく、すすもうにもすすみようがない、あとはただ手をこまねいて手にいれた「絶対的真理」にぽかんとみとれるほかすることもない、といった境地に達することはありえません。

 そのような「絶対的真理」に到達したと錯覚したとたんに、真理の生命はうしなわれてしまうのです。真理認識の無限の過程の中途であぐらをかいてしまって、そこまでに到達しえた結果を最終絶対のものとして固定し、一、なになに 二、なになに……といったぐあいにできあがった教条の体系にまとめあげて、ここにすべての真理はつくされている、あとはただこれを暗記しさえすればよろしい、というぐあいにいいたてるとすれば、そこにあるものはたんに完全なものと錯覚された不完全な真理というだけではなしに、生命をうしなった真理のぬけがらにすぎないといわねばならないでしょう。ヘビのぬけがらはヘビそのものとはおよそちがうのです。

 わたしたちはわたしたちの思想の中心に、こうした観点をしっかりとすえましょう。こうした観点こそは、マルクス主義の魂なのですから。マルクス、エンゲルス、レーニンによってすべての真理はみいだされつくしたかのようにみなし、あとはただそれを暗記するだけ、と考えるとすれば、これほど非マルクス主義的なことはありません。マルクス主義はできあがった教条の体系などではおよそないのです。

それはこれまでのあらゆる哲学、諸科学の成果のうえにしっかりとたちながら、未来にむかってのかぎりない発展の方向を世界観としてとらえたものにほかなりません。マルクス主義者であるということはマルクスによってとらえられたこの方向にむかって不断にあらたなみちをきりひらき、自分の足でたえずあゆみつづけるという以外のどんなことをも意味しないのです。その一歩一歩こそが真理把握の生きたあゆみなのです。このことをマルクス主義を創造的に発展させる、といいます。中途であぐらをかいてしまうのが「教条主義」であり、横みちへとふみそれていくのが「修正主義」です。どちらもマルクス主義とは別ものです。
(高田求著「マルク主義哲学入門」新日本出版社 p31-34)

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科学的社会主義者は客観的真理によって団結できる

 ここで私は、科学的社会主義者は客観的真理によって団結できるということについてふれたいと思います。民主集中制の問題については決議案もたちいって論じております。また、あとの中央委員会報告でもいろいろな意見を考慮して、さらに深めた報告をおこないます。私はここで民主集中制の間題全体に深くたちいろうというのではありません。党内に多数と少数の意見が存在する場合、当然、多数意見に少数が従うが、少数意見の保留も認めるなどの党規約の運営上の問題もあります。

また、五〇年問題では、少数意見として、中央委員会は機能を回復すべきだという党の統一への原則的な見地がありましたが、これは当時はいろいろな攻撃や誤解にさらされて、正当な潮流としてみられませんでした。しかし、数年間の党の苦闘によって第七回党大会以後は、その少数意見が正しかったということが確認されました。

これはわれわれが民主集中制をできるだけまもろうとしてきたこと、とくに、もう党がだめになったから別の党をつくろうという複数前衛党論的方向をきびしくいましめてきたことが重要な成果だったのですが、そういうことについて、ここで深くはたちいりません。ただ客観的真理と科学的社会主義の関係について少したちいってみたいと思います。

 よく日本共産党への批判で、申央委員会総会のコミュニケで全員一致で採択と発表すると、これは一枚岩の党だ、紋きり型だと、冷笑するような揶揄(やゆ)するような傾向が少なくありません。しかし、これはわが党中央が並び大名であるからではないんです(笑い)。日本共産党が科学的社会主義を理論的基礎とするという一致があるかぎり、基本的な認識の基礎、方法論は一致しているのですから、党の方針決定にさいして問題をよく検討すれば、一致するのはきわめて自然なのであります。

 科学的社会主義の世界観と哲学である弁証法的唯物論では、認識は客観的事物の人間の意識への反映としてみています。人間の認識というものは客観的事物をリアルに人間の意識に反映させることができる、その実在の対象にたいする人間の認識の接近はかぎりないもので、限界はないのです。したがって客観的真理への接近は、人間の認識においては最大限に可能としています。全面的にいっきょに対象を把握することは困難としても、けっしてどうしてもわからないという不可知論だとか、真理はない、あれこれいろんな見方があるのはあたりまえだというような相対論ではありません。

 第八回党大会で綱領が全員一致で採択され、また全党的に確認されたことは、社会発展の法則の問題でも客観的な認識は可能だという、弁証法的唯物論の認識論にもとづいて粘りづよい討論をおこなった結果であります。そのことをみないで、全員一致で採択すること自体がなにか民主的な事態でないかのようにみることは根本的には科学的社会主義への、とくにその哲学への無知にもとづくものだと批判できるのであります。(拍手)

 もちろん、重要な問題についての集団的認識でありますから、集団による民主的討議が必要であることはいうまでもありません。だから、中央委員会の方針の討議は、手順をおって、常任幹部会、幹部会、中央委員会と段階的、重層的に検討をかさねております。全党に責任を負う方針をだす以上、最大限に衆知をつくして誤りなきを期するという、その責任感としておこなわれているのであります。

 ところが、こんどの大会議案の公募意見にもありましたが、一部の人は、民主集中制に反対して派閥の自由を要求する根拠として、「私たちはすべての党員の人生が違う以上異論の存在はその差こそあれ常態であるという前提をとるべきだ」、つまり、人間が違うんだから認識も違う、だから分派は公認されるべきだといっています。しかしこれは、科学的社会主義を理論的基礎とする党の規約を自発的に承認してみな党にはいっている、そういう自発的結集体である政党の運営の根本原則としては、採用できない論理であります。

 厳格にいえば、認識の問題は人によってみな違うのがあたりまえだという、つまり、運動としての統一の基礎という観点がはじめからないのです。いま失敗した国が民主集中制の放棄をやっているから日本もやるべきだ式の意見であります。

 科学的社会主義は、客観的真理の認識の一致を可能だとして追求するものであり、それを理論的基礎とする覚は、一国では一つであるべきです。それでこそ、自覚的な人びとの最大限の結集が可能になるのです。それは、社会発展を促進する力の結集のためにも必要であります。もちろん、この世界観、哲学からはずれる場合には、多くの誤りがおこり、そのことによってあれこれの国の革命運動にも誤りがあったし、あることも自明であります。だから客観的真理は、安易にえられるものではありません。

 しかし問題は、誤りが多い、世界にも誤リがみちている、だから世界はどうなるかわからない、闇だというような立場にたつかどうかです。真理をまもる勢力、真理を認識しようとする勢力が多数になり、結局、誤った見解に固執する勢力よりつよくなる、こういう自覚と確信が必要です。人類の運命はこの正しい認識をもつ勢力が、誤った見地に固執する勢力よりかならず多数になる、この展望にこそ人類のほんとうの未来があるのであります(拍手)。まさに科学的社会主義の哲学をよくさとって自覚して、そして動揺しないということが大事なのであります。

 複数前衛党論というのは、以前にも、第八回党大会をむかえる綱領論議で、党から脱走した春日、内藤らが主張したことがありますが、理論的にも実践的にも当然失敗したものです。今日の東欧の事態から、日本でもまた、複数前衛党論を主張する人たちがでてきていますが、これは実際は、現存する日本共産党への攻撃の一形態にほかなりません。

チェコスロバキア、東ドイツ等では「フォーラム」型の運動で政権を打倒した、それにならってこんどは、「フォーラム」型の運動を日本におこして日本共産党を打倒しようとしても、そういう方向にはけっして未来がないということを私は、断言するものであります。(拍手)

 いうまでもなく、上の問題は、民主主義政治における複数主義の当然の肯定という問題とは、まったく別の問題なのです。価値観の多様性に応じて政治活動の自由が保障されるということは、民主主義の当然の前提であります。また、そこから特定の政党が選挙で多数をしめても、その党の世界観を国家の公認のものとすべきでないということも当然です。これらは、理論的にも実践的にも、すでにわが党が、「自由と民主主義の宣言」などで強調してきているところであります。公明党などは、自民党と共通する立場、安保条約などは当然認めなければ国会にはいる資格さえないという趣旨のことをいっています。ほんとうに反民主主義的な政党です。

 ここで私が真理と科学的社会主義の哲学の関係をのべたのは、科学的社会主義を理論的基礎とする党が、その運営にさいして自発的結集体としての当然の自律──みずから律する論理をつらぬくことは、政治活動の自由であって、これは日本の政治全体では複数政党制が当然だということとなんら矛盾しないことをあきらかにしたかったからです。このことをはっきりさせる必要があります。(拍手)
(宮本顕治「第一九回大会にたいする冒頭発言」前衛1990年9月号臨時増刊号 日本共産党第一九回党大会特集 p26-29)

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◎「運動としての統一の基礎という観点がはじめからない」と。