学習通信050206
◎「運動論の真髄を自覚的にとらえてこそ」……。

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科学的社会主義の運動論の神髄を

 運動論の問題では、「社会の現実の矛盾をあきらかにし、その矛盾を人民にとってよりよい方向に打開する法則的な道筋にそって、必要な段階をへながら社会変革をすすめる」、ここに科学的社会主義の運動論の根本があるとのべた党大会決議案の見地は、きわめて重要な意義をもっています。

 これにたいして、「社会主義が直接運動の目標でないとさびしい」、「当面の課題をいうだけでは改良主義になるのではないか」、「日本の社会主義の青写真をしめさないと『社会主義・共産主義崩壊』論に対抗できない」などの意見が一部にありました。私は、こうした意見には、いくつかの大事な点の見落としがあることを指摘したいと思います。

 第一は、今日の日本では、日米軍事同盟を軸とした対米従属の体制、国民にたいする日本独占資本の横暴な支配の体制、これらを打破することが、日本社会が国民多数の利益にそって前進するためにさけることのできない課題となっていることであります。わが党の綱領路線はこの現実から出発しています。そしてまた、決議案が「日本共産党はどのような日本をめざすか」という形でしめしているのは、同じ見地にたって、より当面的な課題と方向をあきらかにしたものであります。これが第一の大事な点です。

 第二に、社会主義日本の展望についていえば、日本の社会の将来の展望として、これまでに日本国民がかちとってきた民主的な達成のすべてをひきつぎながら、どのような道をすすむべきかという大綱は、党の綱領および「自由と民主主義の宣言」で、すでにあきらかにしていることであります。あとでのべますが、社会主義・共産主義の体制諭全般についても、わが党の見地は明確であります。

 もっと詳細な社会主義日本の青写真がほしいという声についていえば、それをやることは観念的な混迷のもとになるだけだというのが、大事な点であります。社会主義日本の政治・経済の仕組みの細目がどうなるかという問題は、将来、日本国民の大多数の合意によって社会主義への選択が現実の問題になるときに、それまでに政治・経済・文化の諸方面でどのような進歩と前進が現にかちとられているか、そしてそのときの日本社会がどのような矛盾の解決に当面しているかなど、そういう事情に大きく左右される問題であります。

そういうことをよく知っていたからこそ、マルクス、エンゲルスなど科学的社会主義の先輩たちは、社会主義運動が「理想社会」の青写真づくりにおちこむことをきびしくいましめたのであります。

 改良主義社会民主主義と科学的社会主義との根本的な違いも、社会主義の目標に到達するのを急ぐのかどうかにあるわけではありません。そのときどきの社会で人民の苦難の根源となっている問題の解決に正面からとりくむのか、それともそれを回避するのかが、根本のわかれ道であります。

 世界的にも、第一次世界大戦がはじまったときに、あらゆる弾圧と迫害に抗して、反戦・平和の旗をまもりぬいたか、それとも帝国主義の支配勢力に頭をさげて戦争賛成の陣営にくわわったかに、共産主義の潮流と社会民主主義の潮流とがわかれた原点があったことは、決議案がしめしているとおりであります。

 戦前の日本でも、社会民主主義の諸党派は、絶対主義的な天皇制の専制政治やその侵略戦争との対決を回避しながら、「社会主義」の目標をとなえるのは平気でした。社会大衆党などは、「満蒙に社会主義の新天地を」などといって、「社会主義」の看板で軍部の侵略戦争に迎合したのであります。このなかで、日本共産党は、主権在民の民主政治の旗、帝国主義戦争反対の平和の旗をかかげ、そのために「国体」変革をたくらむ党として極悪の犯罪者集団あつかいされましたが、不屈にその旗をまもりぬいたのであります(拍手)。ここに、科学的社会主義の党の本領があったことを銘記すべきであります。

 現在でも、社会民主主義の潮流は、世界でも日本でもで西側軍事同盟とか独占資本主義の支配をはじめ、現存の体制に順応し妥協することを、共通の政治的特徴としています。スターリン・ブレジネフ型の体制が破たんした、これにたいして、それとは違うより民主的な社会主義をめざすのが社会民主主義だ、こういう誤解がかなりひろくありますが、これは現実をみない錯覚であります。

イギリスでも西ドイツでも、戦後何回か労働党あるいは社会民主党の政権が生まれましたが、NATOの軍事同盟の体制にも、国民の経済生活にたいする独占資本の支配にも、これらの国ぐにでは、なんらの変更もおこらなかったではありませんか。

 科学的社会主義の運動論の真髄を自覚的にとらえてこそ、今日の日本と世界で活動する科学的社会主義の党として、平和と社会進歩の事業への積極的な貢献ができるということを、ここで強調するものであります。
(不破哲三「第一九回大会にたいする中央委員会の報告」前衛1990年9月号臨時増刊号 日本共産党第一九回党大会特集p38-39)

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 プレハーノフは言っている。「繰り返して言うが、もっとも一貫したマルクス主義者たちのあいだに、現代のロシアの現実に関して、意見の相違がありうる」。われわれの学説は、「非常に複雑で、もつれた社会的諸関係の分析にこの科学的理論を適用する最初の試みである」。

 これ以上明白に語ることは困難であるように思われる。マルクス主義者は、マルクスの理論から、社会諸関係の解明に欠くことのできない、貴重な方法だけを無条件に借りてくるのであって、したがって、これら諸関係の自分の評価の基準は、抽象的図式うんぬんのばかげたことにあるのではまったくなくて、それが現実に忠実であるか、現実と合致しているかどうかによるのである。

 あるいは、貴下は、この筆者がこのような言明をしながら、実際には別なことを考えていたと考えるかも知れない。しかし、それは間違いである。彼がたずさわっていた問題は、「ロシアが資本主義的発展段階を通過しなければならないかどうか?」という点にあった。

したがって、この問題はまったくマルクス主義的に定式化されたものではなく、わが祖国のさまざまな哲学者の主観的方法によって、定式化されたものなのである。これらの人々は、この必然性の基準を、あるいは当局の政策のなかに、またあるいは「社会」の活動のなかに、またあるいは「人間の本性に合致する」社会の理想のなかに、その他のたわごとのなかに見いだしているのである。

そこで今度は、こういうふうに聞きたくなる。抽象的な図式を告白している人間は、このような問題にどのように答えるべきであったろうか? と。彼が、弁証法的過程の不可論駁性とか、マルクスの理論の普遍的哲学的意義とか、それぞれの国にとって段階を通過する必然性とか、……等々等々とか、語りはじめるだろうことは、明らである。
(レーニン著「「人民の友」とはなにか」新日本出版社 p125-126)

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◎「それが現実に忠実であるか、現実と合致しているかどうかによるのである」と。