学習通信050208
◎「自分の感受性くらい 自分で守れ」……
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ルソーの文化(学問芸術)批判とはおよそこのようなものであり、その核心を貫いていたものは、文化は社会的不平等と利己心の二大原因から生まれること、したがってそれが習俗を道徳的に高めることなどありえないということであった。ルソーにとっては、いかなる知識も、いかなる美も、単にそれ自体においてはなんらの意味も有していなかった。知識も美も、それが本物の知識であり美であるためには、そこに人間的徳、が力強く輝き出ているのでなければならない。
しかるにルソーの見るところ、知識も美も社会的不平等と人間の醜悪な利己心の産物でしかなかった。学問芸術は、それがどれほどその綿密な論理性や、人を引きつけて離さないその魅惑的な優美さの点において卓絶したものであろうと、それだけのことであり、そこに人間的徳の光輝が見出されることはない。
そして人間的徳が見られなければ、いくら知識と言い、美と言っても所詮それは単なる見せかけの知識であり美でしかないであろう。徳なきところに知識も美も存在しない、徳なき文化は空虚である。
このように見てくるとき、ルソーの文化批判が、単なる文化批判といったものではなく、むしろつねに文化を社会および人間と関係づけて見て行こうとする社会批判的側面を色濃く帯びていることをわたしたちは理解しないわけにはいかないであろう。文化は本来、社会を構成している人間一人ひとりの営みの客体化されたものにほかならず、したがってその意味において文化にはつねに、それを生み出した、当の社会と人間の存在様式が反映している。
ルソーの文化批判は、それゆえまさに、文化を媒体としながら、この社会と人間の存在様式にまで遡り、遡ることによってたえずそれとの関係において文化の存在意義を問おうとしているのである。そしてそこから彼の引き出した結論は、徹底的な「ノン」(否)であった。
ルソーの目には、文化は人間の生まれながらの自由と平等を圧殺し、逆に社会的不平等と人間の醜い利己的欲望や情念にのみ、ただひたすら奉仕するにすぎないもののように映ったからである。
以上がルソーのきわめて独創的な文化批判の基本的枠組みである。ルソーの学習理論を理解するためには、あらかじめわたしたちは彼の文化批判を知っておく必要がある。なぜなら彼の学習理論の背後にはつねに文化にたいする、このような厳しい見方が横たわっているからである。彼の文化批判を知らずしては、彼の学習理論も十分に理解されえないのである。ルソーの学習理論においてなにゆえあれほど強く注入的知識学習が否定されるのか、それを理解しようとするならば、是非ともわたしたちはまずもって、ルソーがそもそも文化というものをどのように見ていたのかということに一度遡って考察しておく必要があるのである。
そして今やわたしたちはこの問いにはっきりと答えることができる。すなわち、ルソーが注入的知識学習を子どもの学習から排除しようとするのは、子どもに外から押しつけられてくる既成の知識──美もまた同断であるが──は社会的不平等と利己心の産物にほかならず、それゆえそれを学ぶことは、子どもを自由で平等な人間にするどころか、まったく逆に社会的不平等と利己心の奴隷にするからなのである。
(林信弘著「『エミール』を読む」法律文化社 p27-28)
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文をもって化かす話
「文化」ということばのさまざまな用法の概観からこの話をはじめたのでしたが、ここでふと気がついたこと──それは、江戸時代の年号にも「文化」というのがあったということです(一八〇四〜一八一八)。「文化」のあとには「文政」がつづきました一八一八〜一八三〇)。あわせて「文化・文政時代」とか「化政度」とか「化政期」とか呼ばれます。松本清張さんの時代小説『かげろう絵図』の舞台となっている時代です。北島正之さんの『江戸時代』(岩波新書)をあけてみると、「文化・文政時代は、これまで農村は繁栄し、都市の文化は爛熟の極に達して、太平無事の時代であったように考えられていたが、実は危機が新しい段階にはいる前の一時的な沈静期にすぎなかった」とされています。
それはともかく、漢和辞典にあたってみると、「文治教化──すなわち武力や刑罰によらずに人民をおさめる」というのが漢語としての「文化」の本来の意味で、中国の古典『説苑』に「文化して改めざれば、しかるのち誅を加う」とある由です。「誅を加う」とは、死刑に処する、殺す、ということ。
そういえば「文化大革命」のなかで毛沢東が「文化とは文をもって化かすことだ」といったという話を何かで読んだおぼえがあります。「文をもって化かすのが文化だ」とは、よくもいったものだと思いますが、それはちゃんとした典拠にもとづくものでもあったわけです。
白川静さんによれば、「文」という字はもともと「文身」つまりイレズミをかたどったものだそうです。そして、その訓は「アヤ」です。「ことばのアヤ」などという、あれです。
ここで、また茨木のり子さんの詩(「四海波静」)を引きあいにだすことになりますが──
戦争責任を問われて
その人は言った
そういう言葉のアヤについて
文学方面はあまり研究していないので
お答えできかねます
「三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア」と茨木さんが痛烈に皮肉っている 「その人」とはいったい誰か、もし見当がつかない人がいるとすれば、それは黙ってこの発言を見送ってしまったマスコミの責任です。いま書店には、「皇室研究家」という肩書きの松崎某氏による『フォトドキュメント天皇陛下の会話集』という本(ごま書房)が並んでいますが、そこには記者会見での天皇発言も収められているのに、この発言は見あたりません。
──これは一九七五年一〇月三一日、日本記者クラブ代表の「戦争責任をどう考えるか」という質問に答えた天皇のことばです。「そういうことばのアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」というのでした。こんなのこそがつまり「ことばのアヤ」であり、「文をもって化かす」ということなのだと思います。
その天皇を「太陽のような存在」ともちあげた中曽根康弘氏もまた、「文をもって化かす」常習犯でした。中曽根的「文化」を許してはならない、と思います。中曽根が竹下にかわっても、事の本質にかわりはありません。中曽根首相のお声がかりで胎動を開始した「国際日本文化研究センター」も、その本格的な活動はこれから、ということのようですし。それは「文化して改めざれば、しかるのち誅を加う」というファシズムの露払いにほかならないのですから。
もう一度、茨木のり子さんの詩を材料として、話の結びをつけさせてください。「自分の感受性くらい」と題する詩です。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難かしくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
この詩については、野沢啓氏のつぎのような批評があります。
「いかにも茨木らしいスタイルの作品といえばいえようが、作品のもつ訴求力は意外にやせている。その主たる理由は、環境や時代や人間関係の劣化が〈自分の感受性〉の問題として処理しうると考えられているからではないかと思われる。たしかにそういう問題と考えても差し支えない場面もあるにはちがいないけれども、これが書かれてからすでに十年という時間を経過した現在の眼からすれば、こうした個々の人間の自由に活動できる領域はますます侵され狭められてきているという感は否めない。そうすると、現在の人間の意識は高度に制度化され管理されやすくなっているということをだれも否定できなくなっているのではないか。そのなかで〈感受性〉という領域ほどあてにならないものはないと考えるべきではないかと思えるのである」(「茨木のり子の戦後詩的位置」)
意外な批評、というのが、はじめ読んだときの感想でした。しかし、読みかえしているうち、野沢氏のいおうとしていることがよくわかるようにも思え、共感できるようにも思えてきました。「〈感受性〉という領域ほどあてにならないものはない」というのは、確かにそのとおりだ、と思います。ただしそれは、「他から切りはなされたくたんなる感受性〉という領域ほど……」という意味においてです。
人間の諸感覚を育てるものは文化だ、ということは、茨木さんの他の作品を引きあいにだしながら、すでにたっぷり強調してきたとおりです。この観点からすれば、「自分の感受性くらい/自分で守れ」と茨木さんがいうのは、しっかりした文化を身につけろ、ということにほかならない、ともいえるでしょう。「学習ある生活」への呼びかけとして、茨木さんのこの詩をうけとめたい、と私は思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p78-84)
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◎「化は本来、社会を構成している人間一人ひとりの営みの客体化されたものにほかならず、したがってその意味において文化にはつねに、それを生み出した、当の社会と人間の存在様式が反映している」と。