学習通信050209
◎「没自己傾向─パッシブ型人間─指示待ち世代─」……。

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「死者は生き返る」15.4% 長崎県教委 意識調査

 中学生で割合高い

 長崎県佐世保市の小六女児事件を受け、長崎県教育委員会は県内の小中学生を対象に「生と死のイメージ」に関する意識調査を実施。「死んだ人は生き返る」と思っている子供は全体の15.4%に上り小学生よりも中学生の方がその割合が高かったとする調査結果を二十四日発表した。

 調査は、同事件の加害女児(一二)の少年審判の決定が女児の特性について「自己の経験や共感に基づく『死のイメージ』が希薄」と位置付けたことを受けて実施。県内公立校の小学四年と六年、中学二年の計約三千六百人から回答を得た。

 「死んだ人が生き返ると思いますか」との問いに「はい」と回答した児童・生徒は小学四年14.7%%、小学六年13.1%、中学二年18.5%で、中学生が最も高かった。

 その理由についてたずねると、約半数が「テレビや本で生き返る話を聞いたことがあるから」と答え、全体の29.2%が「テレビや映画で生き返るところを見たことがあるから」、7.2%が「ゲームでリセットできるから」と回答した。

 「死んだ動物」についても、全体の12.7%が「生き返ると思う」と答え、やはり中学二年の割合の方が高かった。

 県教委は「子供らは経験ではなく、周囲の情報で死を認識しているようだ」と分析。「生や死にじかに接して他者の気持ちに共感することは成長過程で欠かせない」として、学校や家庭で生死の意味を教える必要性を訴えている。
(京都新聞 2005.1.25)

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 みみをすます

 菜の花のような色の本

 一九八四年五月二十一日の朝日新聞「座標」欄の文章を、編集委員のK氏が次のように書きだしていた。

 「若い友人が語ってくれた話である。
 国電で、隣の少女が、菜の花のような色の本を開き、声をあげて読みはじめた。詩なんです。おかしな子だなァ、と思ったけれど、だんだんひきこまれて、いつの間にか、じっと聴いていた。車中の人、みんなそんな顔。のぞきこんだら『みみをすます』という詩集でした=v

 私もしばらく前、その菜の花のような色の本に本屋で出あい、帰りの車中でそれに吸いこまれていったことがある。

 「みみをすます/きのうの/あまだれに/みみをすます」とそれははじまっていた。

 「みみをすます/いつから/つづいてきたともしれぬ/ひとびとの/あしおとに/みみをすます/めをつむり/みみをすます/ハイヒールのこつこつ/ながぐつのどたどた/ぽっくりのぽくぽく……」(谷川俊太郎『みみをすます』福音館書店)

 「みみをすます/しんでゆくきょうりゅうの/うめきに/みみをすます/かみなりにうたれ/もえあがるきの/さけびに/なりやまぬ/しおざいに/おともなく/ふりつもる/プランクトンに/みみをすます」ともあった。「みみをすます/いちまんねんまえの/あかんぼの/あくびに/みみをすます」とも。そして、いろいろとあって、さいごに次のように結ばれていた。

 「みみをすます/きょうへとながれこむ/あしたの/まだきこえない/おがわのせせらぎに/みみをすます」

 私もこれへの唱和を試みたい。──さしあたってはそのための素材を、昨年の新聞の切り抜き帳のなかから。

 ことばのない子たち

 ある幼稚園の先生が、埼玉新聞に次のようなことを書いていた──
 三歳半になってもことばがない子がいた。その家を訪ねると、部屋にテレビがつけっぱなしになっており、子どもの姿はなかった。一日中テレビをつけておかないと大変なのだという。「テレビを切ってみてください」と先生がたのんだ。スイッチが切られたとたん、ドタバタ、キャキャという音と声がして、どこか外で遊んでいたらしいその子がとびこんできた。そして、切られたスイッチをすばやく入れると、またそのまま外へ出ていったという。(六月十四日、十九日)

 「ひところにくらべて子どもたちはしやべれなくなってきている。特に意思表示ができなくなってきている」と、やはり埼玉新聞に小学校の先生が書いていた。「面白いのか、面白くないのか、わかったのか、わからないのか……」(七月九日)

 みみをすまそう、この子たちの声にならぬ声に。その耳がとらえている音はどのような音だろう。

 ここで私は、私の友人(中村行秀氏)が今年のある雑誌(『住民と自治』七月号)に書いていた文章を思いだす。

 「没自己傾向──授業、クラス、クラブ活動などで、いいつけられた範囲のことしか行なわず、自ら考えて行動することがない。最も重要な自己決定場面である進路の決定でも他人まかせである。

 パッシブ型人間──何をやってもたかが知れていると、若くして自分の未来に見きわめをつけ、片すみの幸福に甘んじながら、しかし、いつか幸福≠ェ訪れないだろうかと願う。

 指示待ち世代──こちらがそうしなさいといわなければ、じっと黙っている。こうしなさいといわれると、きちんとやる。
 右の三つは、順にそれぞれ、中学、高校、大学の教師によるいまの生徒、学生の一般的傾向の特徴づけである。……」

 こうした受動的生活態度はテレビ視聴と深い関係にある、というのがそこでの友人の指摘で、その文章の表題も「生活の受動性とテレビ」となっている。「最近、教室で、教師の話を、まるで無表情にうなずきもせず聞く学生がふえている。このことなどは、テレビ視聴の習慣の現われだといえよう」ともあった。

 草の声に目をすます

 耳に障害をもつ子どもたちがいる。だが、その子どもたちは草の声に目をそそぐことを知っている。

 「冬の 田んぼは 一めんに 茶色だけど 立ちどまって そして しゃがんで よく見ると もう みどりが いっぱい なんだよ 目を よくあけて じっと 見ていると ざわ ざわ ざわ 草の 赤ちゃんが なにか いってるよ」

 これは、ずっとろう学校の先生をしてこられた新井竹子さんの『一〇〇かぞえたらさあさがそ』(草炎社)から。行わけを無視した引用になってしまったことをおわびしたいと思う。新井さんには、一度お会いしたことがある。この本も、その時いただいたもの。新井さんが歌人でもあることを知って、「新井さんの歌、教えてください」とぶしつけなお願いをした。その時のメモが、机の上においたビニールにずっとはさんである。

 よく茂る竹の林に風ありて小さき葉あまた踊るがに散る

 風にざわめく竹林の音、風に散る竹の葉の音が、ここにも確かな視覚にとらえられていると思う。

 音を目できく子たちは、サインでことばをかわす。自分のものであることば、自分たちのものであることばを。

 「耳の きこえない人が つかっている 民主主義という サイン おもしろいんだ みんなが主人≠チて あらわすんだもの てのひら ぐるりと まわしたら つぎには おやゆび ぴょんともちあげて みんなが 主人=@みんなが 主人≠レくは なんども やってみた」

 この子たちのサインに、おたがいの目と耳をすましたいと思う。「テレビが主人」であってはならない……。`
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p12-16)

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◎合い言葉はみんなが 主人
「てのひら ぐるりと まわしたら つぎには おやゆび ぴょんともちあげて みんなが 主人=v

あなたもやってみたらどうですか。みんなが 主人