学習通信050211
◎「わたしが一番きれいだったとき」……。

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 文化を抹殺した戦争

 ところが、だんだん世の中がおかしくなり、昭和十五、六年には身の回りからそういう美しいポスターが全部はがされ、そして戦争画の兵隊さんのポスターばかりになり、今度は美しい色が町からなくなって灰色になっていきました。

 私の母は、上海のドレメという洋裁学院に留学して洋裁を勉強していたので、贅沢な本物のファッションを知っておりました。ある日、そういう服装、つまり黄色のデシンのワンピースで、頭にターバンを巻き、弟の乳母車を押していましたら、「ちょっとこい」と言われて警察へ引っぱっていかれて、三時間にわたって「そんな軟弱な格好をするとはなにごとだ。モンペをはけ」と言われ、翌日から母もモンペと筒袖の着物になりました。とにかくドブネズミ色で、大島など渋いものなら藍色でもいいのですが、ちょっと美しい藍色はだめでした。とにかく、御納戸色、鴬色、鳶色と、日本人の御先祖様たちが営々として築いてきた美意識の色彩が全部禁じられたのですから、彼ら軍人たちこそ国賊です。

 アインシュタインもエジソンも、チャールズ・チャップリンも、ジャン・コクトーも、みな日本の美しい文化に憧れて、日本を訪れました。チャップリンは昭和七年、五・一五事件のときに暗殺されそうになりましたが、それにもかかわらずその後三回も来日しています。それだけ日本の文化や美意識に憧れていたわけですが、そういう美意識の世界的な文化という文化がたった五年間で潰滅し、色もなくなったのです。

 映画館や劇場には憲兵とお巡りさんがいました。ある日、小芝居の人たちが舞台で、出征するかつての教え子たちを駅まで送っていった教師が一人で帰ってきて、教室で「和夫さん、正男さん、みんな行った。元気で帰ってきてちょうだいね」と泣き崩れる場面を演じていました。見ているお客さんも泣き崩れている。するとお巡りさんと憲兵が「中止、中止!」と言って舞台に上がり、芝居を中止させたのです。そして、「軍国の教師がそんなにめそめそしていていいのか。なぜ天皇陛下のために立派に死んでこいと言わなかったのか、国賊」と言い、舞台で役者さんは殴られ、その日からその芝居は中止です。もうめちゃくちゃでした。知性や教養も何にもない、そういう連中に権力を持たせることの恐ろしさです。

 ある少女の悲劇

 やがて学徒動員が始まり、戦場に行った学生さんもたくさんおりましたが私たちも竹槍を作らせられたりしました。女学生たちが、鉢巻きをして、上はセーラー服で、下はモンペでした。私の祖母の家は旅館をやっていましたが、軍に接収され、当時は三菱の女子挺身隊の寮になっていました。半分が居残りで、半分が作業。仕事に出て行くときには「イッチ、ニッ、サンッ、シッ」と点呼をします。

 そのときに一人の女学生が、監督の男に「おい貴様、前へ出ろ」と言われ前へ出ましたら、「この戦時下においてそんな軟弱な格好をしているとはなにごとだ、けしからんっ! 貴様脱げ」と言われ、なにごとかわからないけれどもセーラー服を脱いだら、下から肌着が出てきました。その肌着は、彼女のお母さんが寒かろうと思って編んでくれた毛糸のものでした。戦時中ですから残り毛糸。いろいろな色の残り毛糸で編んだ肌着が、襟のところからちらっと見えたんです。それが赤やピンクや黄色だったものですから、軟弱だと叱責され、それも脱げと命じられた。

 今でこそ下着が発達していますが、その当時はキャラコのシュミーズを着ていればいいほうでした。ブラジャーは乳バンドとよばれていましたが、そういう贅沢なものを持っている人はいません。彼女はほとんど素裸のままうずくまっていました。男は「ハサミを持ってこい」と言って、その毛糸の肌着をじゃきじゃきに切って防火用水に叩きこみ、それから地獄が始まりました。その女学生の髪を持って引きずり回す、軍靴ですから顔は腫れ上がり、耳から目から口から血が流れ出て、みるみる腫れ上がり、「許してください、許してください」と。

 彼女が何をしたというんですか。ただお母さんが編んでくれたカラフルな毛糸の肌着が、セーラー服の下からちらっと見えただけなんです。嬉しげに目をギラつかせていた男は、たぶんサディストでもあったのでしょう。性情的にもサディストの嗜虐性を持った人間に権力を持たせてしまった。それを愛の鞭とよぶのは詭弁であって、自分の性的嗜好、嗜虐的なものを満足させるために利用してやっている人がものすごく多いということを、私は、数多くこの目で見てきたんです。生家の裏が遊廓でしたから。

 その女学生が「許してください、許してください」と言っても、だれも止められない。殴られて虫の息になって倒れ込んで、ようやく「連れていけ」という声がかかりました。

 結局、一週間後に亡くなりましたけど、殴り殺されたのです。殴り殺された理由がちょっとしたカラフルなものを着ていたというだけなのです。それも服の上からでなくて下にです。戦時中にはそういう理不尽なことは枚挙に暇がないくらいありました。

 その時代に青春を過ごした方たちと、終戦後になって私はたくさん友達になりましたが、誰もが本当に「私の青春を返してちょうだい」と言います。灰色のまま、人を愛したり、恋をしたり、人として生まれていちばん必要だったそれらをすべて逃してしまった。もぬけの殼の青春だった。男にも女にも、そういう思いをした方がたくさんいらっしゃいました。今の若い方たちを見ているとなんと幸せなのだろうと思います。

 詩人の茨木のり子さんという方の詩集に、まさにそんな思いが書かれた詩があります。

わたしが一番きれいだったとき  茨木のり子

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな誤差だけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

(「現代詩文庫20 茨木のり子」思潮社、一九六九年)

 あの時代の若い方たちの心を、姿を、これだけ的確に表現した詩は少ないと思います。素晴らしい詩です。
 今はなくなりましたが、銀座に銀巴里というシャンソン喫茶、シャンソンのライブハウスがありました。私は昭和二十六年に東京へ出てきて、国立の音楽学校に通い、やがてシャンソンを歌うようになりました。そのシャンソン喫茶に、こういう方たちがたくさんお見えになり、いろいろな話を聞きました。

 原爆そして終戦

 アメリカの無差別攻撃のおかげで、私は長崎で原爆に遭いました。私の本籍地は長崎市の平和町二〇二番地、当時は山里町といっておりましたが、浦上の原爆の記念になっているあの天主堂のすぐそばです。
(美和明宏「人生・愛と美の法則」NHK人間講座 日本放送出版協会 p20-26)

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あなたは戦争がどういうものか、知っていますか?
おじいさんやおばあさんから、
むかしのことを聞いたことが
あるかもしれません。
学校の先生が、戦争の話を
してくれたかもしれません。

話に聞いたことはなくても、
テレビで、戦争している国を見たことなら、
あるでしよう。

わたしたちの国は、60年ちかくまえに、
「戦争しない」と決めました。
だからあなたは、戦争のために
なにかをしたことかありません。

でも、国のしくみやきまりをすこしずつ変えていけば、
戦争しないと決めた国も、戦争できる国になります。

そのあいだには、
たとえば、こんなことがおこります。
(りぼん・ぷろじぇくと「戦争のつくりかた」マガジンハウス p2-3)

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◎「でも、国のしくみやきまりをすこしずつ変えていけば、
戦争しないと決めた国も、戦争できる国になります。」

◎以下は、『京都学習新聞』2月号(15日発行)で掲載される時勢=i井ヶ田良治先生執筆)の一部分です。

 だが、問題は、報道への政治介入にのみあるのだろうか。今回の問題の核心は、政治介入に尽きるのではなく、核心はもっと別のところあるのではないか。政治介入は、それが事実であっても、安倍氏たちが介入しなかったと言い張れば消えてしまう。だが、たとえ政治介入があいまいにされ否定されて終りになっても、番組が改変されたという事実は厳然と存在する。改変の是非、それが隠されてしまう。

政治介入の有無のみに議論を集中するのは、肝心の番組改変に目を向けさせないために論点をすりかえる悪辣な苦肉の策ではないか。国民の目を政治介入に向けさせて、改変された番組の内容に向けさせないという巧みな政治的茶番劇、そこまでいうつもりはないが、ともかくも、何が改変されたのか、番組の一番大切な内容は国民の目から覆われたままである。

 これまでに局外に洩れてきた情報によれば、番組編成の最後の段階で消されたのは、被害者であった女性たちの勇気ある証言と自らの性暴力の犯罪性を勇を奮って告白した元日本兵の証言などだったという。政治家たちのいう「偏った番組」というのは、日本軍の国家規模での性暴力の犯罪事実を証明する証言だったのである。

かりに、この改変がNHKの内部の自主規制として行われたものであるとすれば、そのことはNHKが国民への正しい事実を報せるという報道機関としての責任を放棄したことを示すだけである。国民の正しい歴史的事実にもとづく判断をさまたげることにかわりはない。NHKの経営管理の不当さが問われる問題である。報道すべき事実を隠したことにかわりはないからである。

政治的介入の有無にかかわりない報道機関としての犯罪的行為である。まして、外部から、予算承認権を悪用して政治的介入が行われた結果の番組改変だったとすれは、それに迎合し、唯々諾々とそれに従ったNHK幹部の無見識さはあきれるばかりである。何が番組から消されたのか、ここに問題がある。

━━━━━美和と井ヶ田先生の問題の指摘……どう読みますか。