学習通信050212
◎「いくつかのあり方のうちの一つを選んでいるにすぎない」……。

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第U章.これからの日本が目指すべき道

1.わが国が堅持すべき基本理念戦後から今日に至るわが国の発展は、我々経済界にとっても、また、日本国民全体にとっても、世界に誇り得るものである。今後とも、「民主」「自由」「平和」という、これまでのわが国を支えてきた基本理念を、わが国の幹として堅持すべきであることに変わりはない。

 民主とは、自立した個人の意志が等しく政治に反映され、国民の付託を受けた政府が公正・透明に行政を執行することである。自由とは、自由放任ではなく、基本的人権の尊重を基本とした社会における責任を伴う自由である。平和とは、自らの平穏のみならず、隣人、国、国際社会の平和の実現である。

 重要なことは、こうした理念に対する挑戦が、常に我々の近くに存在することを強く認識し、これまでのように理念をただ唱えるのではなく、実現に向けて主体的に行動しなければならないという点である。

 「唱える理念」から「実現する理念」への転換を目指すにあたって、我々は、日本の歴史や伝統を十分に踏まえ、常に誇りをもつことが重要である。国際社会においては、単に他国に追随するだけではなく、日本人が伝統的に持つ和の心、変化に対する柔軟な対応や応用能力といった面を大切にしながら、責任と自覚をもって、自立性や自主性を発揮すべきである。

(「わが国の基本問題を考える〜 これからの日本を展望して 〜」
2005年1月18日 (社)日本経済団体連合会)

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自由とはなにか

 自由の問題は、今日の国家と世界の運命にかんする問題を考えようとするばあいに、それはわれわれの行く手に、聳立している絶壁のように感じられる。社会についてのすべての問題は、考えていけばいくほど、それはけっきょく自由の問題につきあたってしまうからである。二つの世界の問題はむろんのこと、われわれの国の社会体制の将来を考えるにあたっても、またこの狂瀾怒濤の時代にあって、一人の人間として、生きがいのある生活をしていこうとするばあいにも、自由の問題はその解決を迫まってやまないのである。

けれどもこの問題は、容易に解こうとするには、あまりにもその意義は深く、問題の領域は広い。われわれが自由の問題のまえに、しばしば呆然として立ちどまらざるをえなくなるのはそのためである。しかしかりに蟷螂(とうろう)の斧のたとえのようであっても、われわれはこの問題に、真正面からとりくんでいかなければならない。

 そこで自由の問題の追及を、素朴に「自由とは何か」という問題からはじめていこう。ところがこの問いにたいしては、「自由とは拘束のないことである」と答えるのが、一つの定式になっている。それは「自由」ということばで、じつにたくさんのことがらが、言いあらわされているけれども、それらのすべてに共通するある何かをもとめるとすれば、それはけっきょく「拘束のないこと」という点に帰着するからである。

 ところが「自由とは拘束のないことである」というのは、自由の定義であるから、それは自由の問題の戸口ではあっても、それの解決点ではない。だからこの定義の周辺を、どのように綿密に探索してみても、それは自由の問題の解決には、そう役立たないのである。そこでこの定義からさらにすすんで問題を考えていこうとするばあいに、誰しもつきあたる問題は、拘束のない状態などというものが、人間にとって、はたしてありうるだろうかという問題である。

このことが問題になるのは、われわれは無数の自然と社会との拘束の糸によって、がんじがらめにしばられ、しかもその拘束が、自然と社会との必然の法則にもとづくものであってみれば、それからのがれることは、絶対にできないからである。

 それでは人間は自由であることができないのであろうか。この問いにたいして、「然り」と、いってしまってはおしまいである。自由について考えること自体が、無意味になってしまうからである。
完全な自由はない

 ところが人間は自由でありうるとしても、完全な自由、もしくは絶対の自由というようなものはない、という考え方、がある。それは人間は自然的ならびに社会的拘束を、まぬがれることができないから、完全な意志(思)の自由をもつなどということはできないが、ある一定の限界内においては、自由でありうるというのである。この考え方は、われわれの実際の生活についてみれば、まちがっているとはいえない。

それは自由はなくはないが、完全な自由などあるわけがないからである。だからこの考え方に到達すると、何か自由の問題を解決してしまったようなつもりになって、誰でもこの結論に安住する傾向をしめしがちになる。そして自由はある限度内において、ゆるされるものだと主張し、「自由もいいが放縦に流れてはならない」とか、「いまの日本には自由が多すぎる」とか、あるいは「指導のある自由でなければならない」とか語るようになる。

 ところがこの「完全な自由・絶対の自由はない」という命題の背後には、「完全もしくは絶対の自由というようなものを、もとめてはならない」という否定的な意味がかくされている。したがってこの考え方は、思考の方向としては、自由を拡げていくというよりは、むしろこれを制限し、さらに無くしてしまおうとする方向に、つよく傾いていることになる。

たとえば小学校の校長が「自由と放縦とをはきちがえてはならない」とその生徒たちに訓示するとき、校長は彼の学校の秩序に生徒たちを従わせることを考え、「指導のある自由」というときには、権力者が定めた一定の限界のなかで、その人民に行動の自由をゆるすことを意味する。そして「自由が多すぎる」というばあいには、「自由を制限せよ」ということばが、これにつづいていることはいうまでもない。だからこの「絶対の自由はない」という考え方は、これをどう発展させてみても、それを歴史的に獲得・拡大せしめられてきた人民の自由の問題、すなわちわれわれが歴史的に解放の名において、とらえている自由の問題の核心に、とどかせることはできないのである。

したがってこの考え方は、はじめから人々の心を明るくかきたてる力をもたない。むしろ自由の喪失をおそれさせ、人々の心を陰惨なものにする。「自由と放縦とを履きちがえてはならない」ということばに、小さな小学生すらある種の反撥を感じるのはそのためである。

 そこで「自由はある、しかし完全な自由はない」という考え方に到達すると、われわれはこの思考の道を前方にすすむことを断念しなければならなくなる。それは展開性のない思考の袋小路であるからである。だからこの考え方にしたがいながら、自由をもとめていこうとするばあいには、その論理を飛躍させる以外に、方法はない。論理の飛躍は理論を立てようとする者にとっては、自殺行為である。しかし飛躍によって、この思考の袋小路からの脱出をこころみている自由理論家は、けっして少なくない。
(岡本清一著「自由の問題」岩波新書 p2-6)

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個性的に生きるということとは

 個性的に生きるとはどういうことか。
 私たちは毎日毎日をなんらかのしかたで生きています。その生き方は、人それぞれによってちがうようにみえます。完全に同じ、ということはありません。それは、私たちが、みな、自分なりの意思をもって、こうしたい、こうしよう、と考えて行動しているからでしょう。もちろん、共通の面もあります。しかし、同じことをしてもやり方はちがいます。それは、人それぞれ、それなりの個性をもっているからです。

 個性とは、辞書を引くと、個人に具わり、その個人を他の個人と異ならせる性格(『広辞苑』)、あるいは、個人・個物を他の人・物から区別しうるような、個有の特性(『大辞林』)、ということです。英語のインディヴィデュアリティ、あるいはパーソナリティーの訳語でしょう。人は自分の個性を大事にするか、あるいは他の人たちと同じようにするか、この二つの間をゆれうごいているようです。

 では、その個性とは、どうしてできあがってきたものか。いろいろな説明があります。

 生まれながらに備わったものだ、ともいわれます。また、教育によって身についたものだともいわれます。しかし、それらの説明はどうも一面的で、十分に納得できるものではありません。では、どのような説明が可能か。

 まず、生まれたときからの環境、境遇というものがあります。両親・家族の影響があります。保育園から学校にいたる教育、友人、先輩たちの影響があります。さらに、それをとりまく社会全体の影響があります。これらは人それぞれによって多少のちがいがあります。それらのくみあわせ、それにたいする人それぞれの反応のしかたなど、さまざまな要因によって個性は形づくられてゆきます。

 人間は一人で生きているわけではありません。社会とはなれて生きてゆくことはできません。辞書では、個性とは他とのちがいといっていますが、そのちがいと同時に、他との共通の面も多いことは否定できません。まったく他人とちがう個人というものを考えることはできません。一人の人間とは、他人と同様のあり方と、みずから独特のあり方との複合体だといってもよいでしょう。

 しかも、共通の面と、独自の面とは、切りはなしがたくむすびついており、共通の面なしにはこの社会で生きてゆくことができないことは、私たちが日々経験しているところです。いわば、個性が発揮されるのは、ごく限られた部分でしかないともいえましょう。にもかかわらず、人は個性的に生きたいという気持ちを捨てることはできません。

現実の社会のなかで「自由に生きる」

 個性的に生きる、ということは、自由に生きる、ということでもあります。では、自由とはなにか。心のままであること、思う通り(『広辞林』)、あるいは、他から影響、拘束、支配などを受けないで、みずからの意思や本性に従っていること(『大辞林』)、これが自由だといわれています。青年の多くが、組織に入ることを拒んだり、他からすすめられるままに何かをしようとするのではなく、自分なりにきめたいのだ、と思う気持ちは、この自由でありたい、ということでもありましょう。

 青年の多くが、いまの政治・社会に大きな不満を抱きながらも、支持政党なし、という状態にあるのは、自分を自由にしておきたい、なにか一つの方向に自分をきめてしまうのは自由を失うことになるのではないか、というおそれからもきていましょう。

 しかし、自分で考え、自分できめる、とはいっても、それが他からの影響からまったくはなれてきめているのか、といえば、そうではないでしょう。少なくとも、いくつかの可能性のなかから一つを選択する、ということに限られざるをえない、ということにもなりましょう。みずからの考え、判断、行動が、周囲、社会からまったく切りはなれてありえない以上、自由とはいっても、それはたいへん制限された、選択の幅の狭いものにならざるをえない、その制限をのりこえようとすれば、空想の世界に遊ぶしかない、これが実際でしょう。

 事実、俺は自由だ、という人の行動をみても、それはごく限られた範囲での自由であって、大きな目でみれば、現実の社会のなかでのいくつかのあり方のうちの一つを選んでいるにすぎない、ということが多いのではないでしょうか。

 にもかかわらず、青年は自由を求める。老人や壮年が、あきらめきったあり方、あるいは一つのあり方にきめて行動しているのをみて、俺はそうはなるまい、もっと自由に生きたいと考える。なぜか。

 個性的に生きる、自由に生きる、このことは、現実の社会のなかで、はたして可能なのか。「現在に生きる」とはどういうことなのか。
(関幸夫著「個性的に自由に生きるとは」新日本出版社 p19-24)

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◎「「指導のある自由」というときには、権力者が定めた一定の限界のなかで、その人民に行動の自由をゆるすことを意味する。」