学習通信050214
◎「生産者の階級なしには社会は生存しえなかった」……。

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必要な社会階級とよけいな社会階級(エンゲルス)

 社会のいろいろの階級は、どの程度まで有用あるいは必要でさえあるか?──こういう質問はいくたびか出された。そして、これにたいする答えは、もちろん、歴史的時代がちがうごとにちがったものであった。土地貴族が社会の必要不可避な要素であった時代もたしかにあった。けれども、それは遠い遠い昔のことである。それから、資本家的中度階級、フランス人のいうブルジョアーが同じように不可避の必然性をもって発生し、土地貴族にたいして闘争し、後者の政治権力を打破し、かわって経済的・政治的に優越するようになった時代があった。

しかし、階級というものが発生して以来、社会が労働する階級なしにやってゆけた時代は、かつてなかった。この階級の名称や社会的地位はいろいろにかわった。奴隷は農奴に席をゆずり、それがつぎには、自由な──隷属から自由であると同時に、自分自身の労働力をのぞいてこの世のあらゆる所有から自由な──労働者と交代した。

だが、社会の非生産的な上層部にどんな変化がおこったにしても、生産者の階級なしには社会は生存しえなかったことは、あきらかである。だから、この階級はどういうばあいにも必要なものである。──もっとも、それがもう階級ではなくなって、全社会を包括する時がかならずくるのだが。
(マルクス・エンゲルス「労働組合論」国民文庫 p132)

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(3)党綱領の未来社会論

〔1〕生産手段の社会化

「生産者」と「生産手段」との関係

 綱領第五章の本文から少し離れましたが、第一五節にもどりましょう。
 第一五節の第二段落は、未来社会に道を開く社会主義的変革の中心問題は何か、について述べています。それが、「生産手段の社会化」です。
 「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」。

 生産手段というのは、経済学の用語です。人間は、自然に働きかけて、それを加工し、いろいろな新しい財貨を生産します。その生産活動を「労働」(あるいは「生産的労働」)といい、働きかける対象を「労働対象」、労働の過程で使う諸用具を「労働手段」といいます。そして、「労働対象」と「労働手段」をまとめて、「生産手段」と呼ぶのです。

 みなさんが、自宅で日曜大工をやるときのこと、たとえば、板や材木、釘などを買い込んできて、鋸や鉋、金槌を使って、本棚をつくる作業を考えてみてください。みなさんのやる大工仕事が「生産的労働」、板、材木、釘などが「労働対象」、鋸、鉋、金槌などが「労働手段」、できあがった本棚が、生産された財貨です。

 工場でおこなわれる大規模な生産作業でも、基本の関係は同じです。自動車工場を例に取ってみると、自動車をつくりあげるためには、いろいろな原料や燃料、下請け企業でつくった部品や半製品などが、工場に流れ込んできます。そして、工場のさまざまな部分で、多数の労働者がそれぞれの機械や工具を使って加工や組み立てなどのさまざまな労働をし、それが最後に結集されて、完成した自動車となって、工場を出てゆきます。

この場合には、工場に流れ込んでくる原料、燃料、部品、半製品のすべてが「労働対象」であり、自動車の生産工程の各部分を担当している労働者の全体が使っている機械や工具の総体、さらには工場という巨大な作業場の施設全体が「労働手段」に属します。そして、それを合わせた「生産手段」を使っているのは、今度は、一人の生産者ではなく、労働者の集団であり、その労働のすべてを結集して完成した自動車が「生産された財貨」だということになります。

 どちらの場合にも、人間の生産活動は、「労働」が「生産手段」(労働対象十労働手段)と合体することによって成り立つわけです。生産者が、生産手段を使って、いろいろな財貨を生産するのですから、もともとは、生産者と生産手段は、不可分の関係にありました。

 ところが、資本主義の時代には、一体の関係にあるはずの生産者と生産手段が切り離されてしまいます。生産手段は資本家が所有するものとなりました。しかも、これをもっている資本家は自分では労働をせず、賃金を払って労働者を雇い、労働者に労働をさせます。だから、生産活動の生産物はすべて、生産手段をもっている資本家の所有物となり、資本家はその生産物を売って、そこから自分のための利潤(剰余価値)を手に入れます。これが、資本主義の原理的な仕組みです。

そこから、利潤第一主義も生まれれば、より大きな利潤を追求するために労働者への搾取をたえず強化しようとする衝動も生まれます。また、生産手段をもった個々の資本家あるいは企業の利潤追求が、経済を動かす最大の推進力とも動力ともなりますから、経済活動の無政府性が、この経済体制のなによりの特徴となるのです。

「生産手段の社会化」とは?

 この矛盾から抜け出す道は、どこにあるのか。本来一体の関係にある「生産者」と「生産手段」を切り離したところに、矛盾の根があったのですから、活路は、もともとの一体性を回復するところにあるはずです。しかし、機械制の大工業が生産の主要な形態となった現代では、以前のように、生産手段を一人ひとりの生産者の手に返すことはできません。生産手段を、生産者の集団、あるいは生産者の集団を代表する資格をもつ社会の手に返す以外に、生産者と生産手段の一体性を回復する道はありません。

 これが、「生産手段の社会化」です。
 「生産手段の社会化」にあたって、いちばん本質的なことは、生産手段の所有・管理・運営のすべてが、企業にせよ個人にせよ、ばらばらな私的な所有者から、社会の手に移る、ということです。

 社会化の方式には、いろいろな形態がありうるでしょう。マルクス、エンゲルスにしても、その具体的な形態として「国有化」をあげたこともあれば、当時、イギリスなどでかなりの発展をとげていた労働者の集団による協同組合工場を頭に描いて、協同組合による社会化の形態を実例としてあげたこともあります。高度に発展した生産力をふまえて、生産手段の社会化を実現するというのは、人間社会にとって新しく開拓される経験ですから、当然、そこには、いろいろな形態が生まれ、その有効性、合理性が実際の経験によって試されて、またそれにもとづく淘汰や進化の過程をへることでしょう。

 党綱領は、そのことを考慮して、これが社会化の日本的な形態となるだろうという調子で、あれこれの特定の形態をあげることはしていません。そのことは、第一六節のなかで、次のように述べています。

 「生産手段の社会化は、その所有・管理・運営が、情勢と条件に応じて多様な形態をとりうるものであり、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要である……」。

 引用はひとまずここで切りましたが、実は、この間題では、それに続く注意書きが大事です。

 「……重要であるが、生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない。『国有化』や『集団化』の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」。

 マルクスは、未来社会の経済体制を論じるとき、「結合した生産者たち」が生産手段を所有する主役となることを、くりかえし強調しました。その立場から、社会主義・共産主義の生産様式のことを、「結合した労働の生産様式」あるいは「結合的生産様式」という用語で規定づけたこともあります。協同組合工場というのは、労働者の集団自体が、工場の所有・管理・運営にあたる形態ですから、文字通り、「結合した生産者たち」が主役だという原則を、いちばん直接的な形で表わした形態だと言えるでしょう。

しかし、この原則は、国有化などの場合でも、それにふさわしい形で具体化されなければなりません。国有化だからといって、上から任命された官僚集団が全権をにぎり、かんじんの労働者はその指揮のもとで労働するだけというような経済は、社会主義でもなんでもありません。どんな場合でも、そこで生産手段を使って生産活動にあたっている生産者の集団(「結合した生産者たち」)が、主役としての役割を果たしてこそ、社会主義なのです。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 p364-369)

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◎「協同組合工場というのは、労働者の集団自体が、工場の所有・管理・運営にあたる形態ですから、文字通り、「結合した生産者たち」が主役だという原則を、いちばん直接的な形で表わした形態だと言える」と。