学習通信050215
◎「教育者自身が教育されなければならない」……。

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 よい教師の資格についてはいろいろと議論がある。わたしがもとめる第一の資格、この一つの資格はほかにもたくさんの資格を必要としているのだが、それは金で買えない人間であることだ。金のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師がそうだ。ではいったい、だれがわたしの子どもを教育してくれるのか。わたしがさっき言ったとおりだ。それはきみ自身だ。わたしにはできない。きみにはできない……では友人をつくるのだ。そのほかに道はない。

 教師! ああ、なんという崇高な人だろう……じっさい、人間をつくるには、自分が父親であるか、それとも人間以上の者でなければならない。そういう仕事をあなたがたは平気で、金でやとった人間にまかせようというのだ。

 考えれば考えるほど新しい困難に気がつく。教師は生徒にふさわしく教育されていなければならない、召使いは主人にふさわしく仕込まれていなければならない、子どもに近づくすべての人は子どもにあたえてもいいような印象をうけとっていなければならない、ということになる。

教育から教育へとさかのぼって、どこかわからないところまで行かなければならない。自分自身よい教育をうけなかった者によって、どうして子どもがよく教育されることがあろう。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p47)

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 マルクス
フォイエルバッハにかんするテーゼ

 三

 人間は環境と教育との所産であり、したがって、変えられた人間は別の環境と変化された教育との所産であるという唯物論の学説は、環境がまさに人間によって変えられること、そして教育者自身が教育されなければならないことを忘れている。この学説は必然的に社会を二つの部分にわけ、そのうちの一つが、社会をこえて高い所にあるというようになる(たとえば、ロバート・オーエンの場合)。

 環境の変化と人間の活動との一致は、ただ変革をおこなう実践としてのみとらえられて、合理的に理解されうるのである。
(エンゲルス著「フォイエルバッハ論」新日本出版社 p106)

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◎「教師は生徒にふさわしく教育されていなければならない、召使いは主人にふさわしく仕込まれていなければならない、子どもに近づくすべての人は子どもにあたえてもいいような印象をうけとっていなければならない、ということになる」と。

◎わたしたちの実践も自らの人格が働きかける仲間に反映する。だからこそ科学的社会主義の日常的な独習の継続が求められている。