学習通信050216
◎「実体的にいかなる勢力を指しているのかが、あいまい」……。

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危機とことばと

カギとほうきとバトミントン

 三たび、昨年の新聞の切り抜き帳のなかから。
 小・中学校の教師たちが最近共通して頭を痛めているのは、生徒たちが単語を並べるだけで、文章化して話さないことだ、と神戸新聞が伝えていた。

 「先生、カギ」「何のカギだ」「実験室」「理科の実験室か」「そう」「何でいるんだ」「ほうき」「掃除するんか」「バドミントンや」「ほうきと何の関係があるんや」「屋根にひっかかったんや」「羽根がか」──こういった調子の会話がじつにおおいという。(六月十六日)

 この話をある場所でしたら、「大学生にだって同じような状況があります」と、ある大学の先生がいった。
 文章化して話さないだけではない。「語彙が非常に貧しいのですね。たとえばカワユイ≠ニいう一語でかわいい∞#しい∞大きい∞驚いた≠ネど、数種類ものニュアンスを表わそうとする」という某中学校長談話もそこに紹介されていたが、これまた小・中学生だけのことではないだろう。

 ことばは思考ときりはなせない。そしてことば=思考は、人間においては、感性のはたらきをも条件づける。ことばの貧しさは思考力の貧しさ、感性の貧しさと一体のものである。それは、現代における人間の危機を示している。

crisis―critique―criterion

 私は勤労青年と哲学の勉強をともにすることがおおい。私の話はしばしばことばの話になる。

 「危機」は英語のクライシスcrisisだ。これはギリシャ語の「わける」という意味の動詞から来たことばで、病気も今夜あたりがそろそろ峠だ、などという場合の「峠」、すなわち病気が快方にむかうか一路悪化にむかうかの分岐点、わかれみち、というのが本来の意味であった。そこからー般に運命のわかれめ、政界などの重大な局面、映画などにおける危機一髪の緊張点、といった意味でも使われるようになった。

 crisisの形容詞形はクリィティカルcriticalである。辞書を見ると「危機の、峠にある、臨界の」といった訳語が与えられている。たとえば、critical temperatureといえば臨界温度、critical pressureといえば臨界圧力、そしてcritical ageは更年期。

 しかしcriticalにはもう一つ、「批判的」という基本的な意味がある。この意味でのcriticalを改めて名詞化すればクリティークcritiqueとなり、動詞化すればクリティサイズcriticizeとなる。──漢字の場合にも、「批」も「判」も、もともと「わける」を意味する字であった。

 criticalな時代、すなわち危機の時代には、criticalな力、すなわち批判的な力が必要だ。正しいものと正しくないもの、人間的なものと非人間的なもの、未来を約束するものと未来を奪うものとを見わけるための力が。そしてそれを見分けるための基準(criterion)を確立することが。──このcriterionというのも、crisisやcritiqueと同じ語源に由来することばである。

「カワユイ」の弁

 わけなければ何事もわからない。「困難を分割せよ」とデカルトはいったが、事をわけてとらえなければ、わけがわからないままでおわってしまい、あるいはもともとわかっていたものも、いつしかわけがわからなくなってしまう。見わけ、ききわけ、感じわけることができなくなる。──ファシズムがやってきても「カワユイ」ということになってしまうだろう。

 もっとも、「かわいい」「美しい」「大きい」「驚いた」をみな「カワユイ」とやるのには、歴史的な根拠がないわけではない。岩波古語辞典で「かはゆし」を引くと、「@恥ずかしさなどで顔がほてる感じだ。A見るに忍びない。見るに耐えない。Bかわいそうで見ていられない。不愍(ふびん)だ。Cつらい。D可憐だ。かわいい」と出てくる。そしてAの用例としては次のようなのがあげられている。

 「人の死する時の目は恐ろしくかはゆし」(雑談集)
 「其の墓を掘りおこしたれば……悪香充満して不浄出現せり。あまりかはゆく目もあてられざりければ……」(延慶本平家物語)
 もしかしたら今日の小・中学生は、源平時代の語法でものを言っているのだろうか。

鬼に食われた女の人の話

 日本には昔から、鬼に食われた女の人の話がおおい。伊勢物語にも出てくる。「鬼はや一口に食ひてけり。あなや≠ニいひけれど、神鳴るさわぎにえ聞かざりけり」とある。今昔物語にも出てくる。声もたてぬまま、手と足だけを残して食われていた話、頭と指一本だけが残っていた話、吸い殺されて、傷あともない皮だけが衣桁(いこう)にうちかけられていた話など、ものすごい。

 もしかしたらこの女の人たちは、鬼にむかって「カワユイ」といったのではないか──そして鬼にカワユガラレてしまったのではないか。そんなふうに思ってもみる。

 いや、彼女たちが口にした「かはゆし」は、岩波古語辞典のAの意味であったのだが、鬼はそれを、時代を先取りしてDの意味にとりちがえたのかもしれない。Dの用例としてそこにあげられていたのは、次のようなのだったが──
「慣れぬれば衣の虫もかはゆくて」(新撰犬筑波集)

(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p22-26)

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(四)現在の情勢(その二)──大企業・財界の横暴な支配

 「大企業・財界」──日本の階級的な支配勢力の中心

 綱領の第六節は、日本の情勢を、国内的な側面から特徴づけています。
 冒頭、第一の段落では、戦後、日本独占資本主義が「対米従属的な国家独占資本主義」として発展し、国民総生産ではアメリカに次ぐ世界第二位をしめる地位に到達したこと、少数の大企業がその中心をなして、巨大化と多国籍企業化の道を進み、日本政府と国家機構の全体をその階級的利益の実現のために活用してきたことなど、情勢の全体的な特徴について述べた後、次の結論的な規定で結んでいます。

 「国内的には、大企業・財界が、アメリカの対日支配と結びついて、日本と国民を支配する中心勢力の地位を占めている」。

 これは、日本の階級的な支配勢力の中心がどこにあるかを、明確に規定したものです。
 この冒頭の文章では、これまでの綱領で使われていた「日本独占資本」という用語を、いっさい使っていません。

 なぜやめたかの理由は、七中総報告で述べましたが(『報告集』八二─八三ページ)、少し補足もくわえていうと、だいたい経済学でも、「独占資本」という用語は、確定した位置を占めていないのです。

「独占体」とは、カルテル、シンジケート、トラストなど、あれこれの形態での大企業の結合体を指す言葉ですし、「独占資本主義」とは、その独占体が支配的地位を占めるにいたった資本主義の発展段階を表現する用語ですが、「独占資本」という言葉には、そういう科学的な明確さがないのです。

 では、これまでの綱領では、どのようにこの用語を使っていたかというと、六一年に最初に採択されたとき以来、日本の経済の支配者も「日本独占資本」と呼び、日本の政治の支配者も「日本独占資本」と呼ぶ、こういうかなり便利な使い方をしてきました。

たとえば、これまでの綱領で、経済的な状況を叙述するときに出てくる「日本独占資本」は、明らかに大企業集団を指した言葉ですが、改定された新安保条約を「アメリカ帝国主義と日本独占資本の侵略的軍事同盟の条約」と規定する場合には、この言葉は、明らかに、日本の支配勢力の全体を表現した言葉として使われています。この用語法だと、「日本独占資本」という言葉が、実体的にいかなる勢力を指しているのかが、あいまいになってくるのです。

 これらの点を考えて、今回の綱領では、「日本独占資本」という用語の使用は、やめることにしました。
(不破哲三著「新・日本共産党綱領を読む」新日本出版社 156-158)

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◎「そしてことば=思考は、人間においては、感性のはたらきをも条件づける。ことばの貧しさは思考力の貧しさ、感性の貧しさと一体のものである。それは、現代における人間の危機を示している」と。