学習通信050217
◎「子どもがいうことをきくと親は安心していられる」……。

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 しかし、用事が、つとめが、義務が……。ああ、義務。たしかに、いちばん軽い義務は父としての義務なのだ! 二人の結びつきから生まれたものを養育することを怠るような妻をもつ夫が子どもを教育することを怠るとしても、それは驚くにあたらない。家庭の情景以上に魅力のある画面はない。

しかし、そこに一点一画でも欠ければ、すべてがみにくくなる。母は健康でないから乳母になることができないということになると、父には用事がたくさんあって、教師にはなれないということになる。家を離れて、寄宿舎や修道院や学院に散らばった子どもたちは、生家にたいする愛情をほかへ移すことになる。というより、なにものにも愛着をもたない習慣を生家にもちかえる。兄弟姉妹もろくに顔を覚えていない。お祝いかなにかあってみんなが集まるようなときには、たがいに行儀よくして、まるで他人のように挨拶をする。

両親のあいだが親密でなくなると、家庭のだんらんが生活に楽しさをもたらすこともなくなると、どうしてもそのかわりに悪い習慣をもちこまなければならない。すべてこうしたことのつながりがわからないほど頭の悪い人間がどこにいるのか。

 子どもを生ませ養っている父親は、それだけでは自分のつとめの三分の一をはたしているにすぎない。かれは人類には人間をあたえなければならない。社会には社会的人間をあたえなければならない。国家には市民をあたえなければならない。

この三重の債務をはたす能力がありながら、それをはたしていない人間はすべて罪人であり、半分しかはたさないばあいはおそらくいっそう重大な罪人である。父としての義務をはたすことができない人には父になる権利はない。貧困も仕事も世間への気がねも自分の子どもを自分で養い育てることをまぬがれさせる理由にはならない。読者よ、わたしのことばを信じていただきたい。

愛情を感じながら、こういう神聖な義務を怠るような者にわたしは言っておく。その人は自分の過ちを考えて、長いあいだにがい涙を流さなければならないだろうし、けっしてなぐさめられることもないだろう。

 しかし、忙しくてとても子どもにかまっていられないという富裕な人、家庭の父は、どうするか。かれはほかの人間に金を払って、自分にはやっかいな仕事をさせる。いやしい人間! きみは金ずくで子どもにもう一人の父親をあたえようと思っているのか。思いちがいをしてはいけない。きみが子どもにあたえるのは、先生ともいえないものだ。それは下僕だ。その下僕はいずれもう一人の下僕を育てあげることになる。

 よい教師の資格についてはいろいろと議論がある。わたしがもとめる第一の資格、この一つの資格はほかにもたくさんの資格を必要としているのだが、それは金で買えない人間であることだ。金のためにということではできない職業、金のためにやるのではそれにふさわしい人間でなくなるような高尚な職業がある。軍人がそうだ。教師がそうだ。ではいったい、だれがわたしの子どもを教育してくれるのか。わたしがさっき言ったとおりだ。それはきみ自身だ。わたしにはできない。きみにはできない……では友人をつくるのだ。そのほかに道はない。

 教師! ああ、なんという崇高な人だろう……じっさい、人間をつくるには、自分が父親であるか、それとも人間以上の者でなければならない。そういう仕事をあなたがたは平気で、金でやとった人間にまかせようというのだ。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p45-47)

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しつけとは?──基本的生活習慣を身につけること

 育児やしつけの本は、たくさん出ています。それほど、タネはつきないのです。
 ひとりっ子で内気。指しゃぶりからおねしょ。左きき。泣き虫がら粗暴。落ちつきがない。根気がない。男みたいな女の子。おけいこごとからおこずかい。老人との関係やら、幼稚園、保育園のこと。学校へいけば、成績のこと、塾のこと。テレビ、マンガ、性。ある日、ある所での出来事まで。

 何冊出しても、何冊読んでも、つきるところはありますまい。おそらく、部厚いしつけ辞典を何十冊そろえようとも。
 この本では、つぎのように考えています。

 世界に三十数億の人口はあっても、この子とおなじ遺伝子をもち、おなじ環境に育ち、おなじ発達段階に達している子は、ただの一人もありません。

 だから、いまこの子が、こういう状況のもとで、こんなことをしたとき、それをほめるべきか、しかるべきか、どう対処すべきかは、あなた自身が考えて、あなた自身の責任においてするほかないのです。このことをしっかり自立しておくことは、百千のしつけの技術を知っているより、もっと重要です。

 そこであなたは、自分で適切なやり方をとることができるようになる、そのもとになるものは何であるかを知りたいと思われるでしょう。

 だいたい日本語で『つけ』というのは、『ならわしにしている』という意味をもっています。
 『かかりつけのお医者さん』『いきつけのとこやさん』『つけにする』『しつけ糸」など。

 子どもにいって聞かせて、一つの知識をもたせることは教育の一部です。しかし、しつけの本命ではありません。しつけの本命は、おとな(親や教師)の言動がくりかえされて、子どもの意識の底深くにうつし植えられていくことにあります。

 そこでしつけでいちばん大切なことは、おとな自身の人生観や生活態度です。

 子どもがある行為をしたとき、おとながどんな態度をとったか。地域や学校や保育園で、ちょっとした出来事がおきた。そのとき、親や教師は何をどうしたか。新間やテレビで一つの事件が報道された。そのとき親は、どんな感情をあらわし、何をつぶやいたか。

 それを反省し、みがいていくことこそ、私たちおとなの『しつけ教室』の課題なのです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本出版社新書 p14-15)

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親の権威について

──略──
 とはいうものの、実際の家庭生活で子どもにこの社会的権限をやたらに強調しては、親の権力を認めさせようとすることは全く困ったことになります。子どもの教育は、論理的根拠や社会的な権利を示すことが全く役に立たないそんな年頃からはじまりますが、それでも権威というものをもたずには教育者となることはできません。

 結局、権威というものの意義は、その根拠となるものが何であるかということより、年長者の疑う余地のない風格として、その力のあらわれとして、素直な子どもの目にはっきりとうつる値打ちのあるものでなければなりません。

 子どもの目にうつる父親と母親は、この権威をもたなければなりません。いうことをきかない子どもはどうすればいいのでしょう? という質問をよくうけます。<いうことをきかない>ということは、つまり子どもからみて親が権威をもっていないということなのです。

 親の権威というものはどこから生まれ、どうしてつくられるのでしょうか。

 <いうことをきかない>子どもを持つ親は、とかく、権威というものは天から授けられるものだとか、それはもうある種の才能なのだと考えがちです。才能がなければどうにもならないと思いこんで、才能のある人を羨ましがるだけです。こういう親は間違っています。権威というものは、どの家庭でもつくられますし、しかもそれほどむずかしいことではありません。

 ただ残念なことには、誤った考え方のなかで、権威をつくっている親をみかけるのです。子どもがいうことをきくようにと、やたら青筋をたてる。そしてそれが最上なのだと考える親がいることです。ところが、それがそもそも誤りなのです。権威をもつことや服従させることが目的ではないのです。目的は結局一つです。正しい教育がそれです。この一つの目的のためにこそ努力は重ねられるべきです。子どもがいうことをきくということは、この目的達成の方決の一つにすぎません。

教育の真の目的を考えない親にかぎって、服従させるための服従に夢中になるものです。子どもがいうことをきくと親は安心していられるからです。この安堵感こそが実は真の目的なのです。安堵感にしても服従にしてもいつまでも長持ちはしないということは、調査の結果あきらかなことです。誤った考え方の中でつくられた権威というものは、ほんのいっとき役に立つだけで、やがてあとかたもなく消えしまうものですし、権威はおろか服従ということも残りません。親が服従させることには成功しても、そのかわり残された教育の目的は全く野放しになってしまうことがよくあって、たしかに従順ではあるけれど、弱々しい子どもが生まれることになるのです。
 そういう誤った権威に多くの種類があります。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p13-15)

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◎「そこでしつけでいちばん大切なことは、おとな自身の人生観や生活態度」と。