学習通信050219
◎「自分の利益という観念が」……。

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 しかし、封建貴族と〔それ以外の全社会の代表者として登場してきた〕市民階級との対立と並んで、搾取する人と搾取される人との・金待ちの閑人と労働する貧乏人との一般的な対立があった。まさにこういう事情があったからこそ、ブルジョアジーの代表者たちには、〈自分たちは或る特別な階級の代表者ではなくて苦しんでいる人類全体の代表者だ〉、と称することができたわけなのである。

そればかりではない。
ブルジョアジーは、その発生のはじめから、自分の対立物にとりつかれていた。すなわち、資本家は賃金労働者がいなければ存在できないのであって、中欧のツンフト〔手工業者の同職組合〕市民が成長して近代のブルジョアになっていったのにつれて、ツンフト職人とツンフトに属していない日雇い労働者とが、成長してプロレタリアになったのである。

そして、市民階級は、だいたいのところ、貴族との闘争のなかで同時にその時代のいろいろな勤労階級の利害関係をも併せて代表していると主張してよかったとしても、それでも、大きな市民的運動が起こるたびに、現代プロレタリアートの多かれ少なかれ成長していた先行者である階級の自主的な動きが、やはり突如として現われた。

たとえば、ドイツの宗教改革および農民戦争の時代におけるトーマスミンツァーの一派が、イギリス大革命のさいの平等派が、フランス大革命のさいのバブーフが、それである。まだ成熟していない一階級のこうした原語的武装蜂起と並んで、それに見あった理論的表明が行なわれた。一六世紀と一七世紀とには、理想的な社会状態のユートピア的描写があり、一八世紀にはもうあからさまな共産主義理論(モレリとマブリと)が現われてきた。

平等の要求は、もう政治上の諸権利だけに限られてはいなくて、個々人の社会的地位にも拡げるのが筋だ、とされた。

階級的特権だけではなく階級の区別そのものを廃止するのが筋だ、とされたのである。こうして、この新しい教えの最初に現われた形態は、スパルタに範をとった禁欲的な共産主義であった。これに続いて、三人の偉大なユートピア社会主義者が現われた。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p31)

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 しかしながら、モアさん、私は思うまま、率直に申上げるのですが、財産の私有が認められ、金銭が絶大な権力をふるう所では、国家の正しい政治と繁栄とは望むべくもありません。もっとも、正義の行われている国とは一切のものがことごとく悪人の手中に帰している国のことであり、繁栄している国とは一切のものがあげて少数者の独占に委ねられており(といっても必ずしもその連中が幸福にくらしているわけでもありません)、他の残りの者は悲惨な、乞食のような生活をしている国のことであるとすれば、勿論話は別ですが。

 ですから、私はユートピアの、つまり、すくない法律で万事が旨く円滑に運んでいる、したがって徳というものが非常に重んじられている国、しかもすべてのものが共有であるからあらゆる人が皆、あらゆる物を豊富にもっている国、かようなユートピアの人々の間に行われているいろんなすぐれた法令のことを深く考えさせられるのです。

一方ひるがえって、次々と絶えず何か新しい法律を作っている、そのくせ緑な法律は持たないといった多くの国々、つまり自分で手に入れたものを自分の私有財産と称し、そのいわゆる私有財産なるものを享有し、守り、他人の私有財産から区別するために夥(おびただ)しい新しい法律を毎日作っているが、それでも充分効果はあがらないといった国々(こういった事が偽りでないということは、毎日生じては果てしなくつづいている無数の論争をごらんになれば分ります)、こういった国々をユートピアと比べて考える時、そうです、こういう種々な事柄をじっくり考えてみる時、私はプラトンの意見に賛意を表せざるをえません。

そして、プラトンがすべての人が富と便益の平等な分配を享有することを規定する法律を拒否した者たちの為に、法律を作ろうとしなかったことをもっともなことと思います。プラトンの慧眼(けいがん)はよく、あらゆるものの平等が確立されたら、それこそ一般大衆の幸福への唯一の道であることをみぬいていたのです。そして、この平等ということは、すべての人が銘々自分の私有財産を持っている限り、決して行わるべくもないと私は考えています。

いろいろな権利や口実を設けては出来るだけ多くのものをよせ集め掻(か)き集め、ありとあらゆる富は少数の者たちだけで山分けにする、そういった国ではいくら豊富に貯えがあっても、少数の者以外の者にはただ欠乏と貧窮(ひんきゅう)が残されているばかりです。しかも多くの場合、この後者の貧乏人の方が前者すなわち金持などよりも、いっそう幸福な生活をたのしむ権利があるのです。なぜかと申しますと、金持は貪欲で陰険で非生産的でありますが、貧乏人は謙虚で純情で日々労働によって自分の利益そのものよりもむしろ全休の福祉に多大の貢献をしているからです。

 こういうわけで、私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福もわれわれの間に確立しがたい、ということを私は深く信じて疑いません。私有財産権が続く限り、大多数の人間の背には貧乏と苦難の避くべからざる重荷がいつまでも残ることでありましょう。勿論、この重荷も多少は軽くしてやることができるかもしれない、私もそれを認めないわけではありません。しかし、全面的に取除いてしまうということは絶対に不可能だと思います。

もし法令でもできて、土地は一定の面積以上、いかなる人間といえども所有することができない、また金銭も規定された額以上貯えることがでなきい、ということになれば、……いやさらに、国王といえども不当に強大な権力を持つことなく、人民もまたいたずらに傲慢で金持ちになることができない、官職もこれまたみだりに懇請や賄賂や贈物によってえられるということができない、つまり、官職が金銭によって売買されたり、官吏がその職にあるために必然的に金銭上の負担を負うようなことがない、ということになれば(──金銭上の負祖が重いと、つい官吏は詐欺や強奪などの手段に訴えてその損した金をとり戻そうとすることになるし、またもともと賢人によって行われなければならない官職が贈物や賄賂などによって金持ち連中のものとなるのです)、──そうです、法律によってこういうことがきまれば、ちょうど危篤の病人が日夜を分たぬ手厚い看護によってしばらく持ち直すように、これらの悪弊も軽減されるかもしれません。

しかし、それが完全に根絶され、立派な状態になる、ということは私有財産制度が存在する限り、到底望むべくもありません。よく人が一つの個所を治そうとして他の個所の傷口をますます悪化させるように、一方を助けようとして、一方を苦しめるというわけです。しかし、それというのも、他人から奪うのでなければ人にものを与えることができない、という欠陥があるからなのです。」

 「しかし、私はむしろ反対の意見をもっているのですが」と、私はいった。「私は一切のものが共有である所では、人間はかえって幸福な生活を営むことができないのではないか、という気がします。と申しますのは、各人がその労働にあまり精をださない所では、果して物資その他のものが豊富にありうるでしょうか。自分の利益という観念があればこそ仕事にも精を出すのですが、他人の労働を当てにする気持があれば、自然、人は怠けものにならざるをえません。

したがって、もし、人々がひどく貧乏し、しかもせっかく汗水たらして働いてえたものを自分のものとして守ろうにも、そういうなんらの法律も権利もないということになれば、そこには必然的にたえざる暴動と流血が起るのではないでしょうか。特にそれは、役人の権力と権威が失われている時に甚しいのではないでしようか。もっとも、上下の差別の全然ないそういう人々の間において、権力や権威などというものが果してどんな風にたもたれてゆくものか、私には想像もつきませんが。」すると彼はいった。

「あなたがそうお考えになるのもけっして無理からぬことと思います。といいますのは、あなたはこの問題について全然見当がおつきになっていないようです。いや、むしろ、とんでもない見当ちがいをしておられるようです。しかし、もしあなたが私と一緒にユートピアにいっておられ、じかに彼らの生活様式なり法律なりをご覧になったのでしたら、一も二もなく、このくらいよい政治の行われている国はほかにはないということをお認めになると思うのです。そうです、私は五年余りもそこにいました。ただこの新しい国のことを皆さんに紹介したいばかりに帰ってきましたが、そうでなければ絶対にあの国から離れることはなかったろうと思います。」
(トマス・モア著「ユートピア」岩波文庫 p61-65)

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◎「平等の要求は、もう政治上の諸権利だけに限られてはいなくて、個々人の社会的地位にも拡げるのが筋だ」と。