学習通信050220
◎「人間が生きるということと「ゆとり」の問題」……。

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空間・時間・気力・体力

 「ゆとり」について考えることにしましょう。そんなゆとりはない、などという人は誰ですか。

 人間が生きるということには、二つの面があると思います。(A)生物としての生存をたもつということ、(B)よりよく生きる──よりよく生きようとつとめるということ、このニつです。これは、人間が生物の一種であるということ、ただし生物学だけではとらえつくすことのできない、特別な生物であるということとつながっているでしょう。そして「ゆとり」の問題は、人間が生きるということのもつ、このニつの面のどちらにもかかわる──とりわけ(B)の面に深くかかわる重要な問題であると思うのです。

 もちろん、(A)と(B)とはバラバラなものではありません。両者のつながりについては、さしあたり、つぎの三つのことを注意しておきたいと思います。

(1)まず(A)が──生物としての生存をたもつということが──できなければ、(B)を──よりよく生きるということを──問題にしようもない、ということ。

(2)しかしその(A)と(B)との境界線──「生きること」と「よりよく生きること」との境界線──は固定的なものではなく、歴史とともに変動するということ。そのもっとも見やすい指標の一つは、平均寿命の増大ということです。たとえば俳人の松尾芭蕉ですが、「芭蕉翁」なんていうから、よほどの歳まで生きた人かと思えば、わずか五十歳で死んでいます。夏目漱石の場合は四十九歳。いまこの文章を書いている私は、すでに芭蕉よりも八歳、漱石よりも九歳おおく生きている勘定ですが、正直なところ、ようやっと駈け出しの青二才という自覚しかもてないでいる、というのは、私の非力もさることながら、人間の進歩にともなう(A)と(B)の境界線の変動に起因するところも少なくない、と思うのです。

(3)重度の障害やさまざまな難病とたたかいながら日々を生きることをよぎなくされている人の場合、そのようにして生きつづけるということ自体が「よりよく生きる」ことそのものでもあるということ。これは、そのような難病の一つと終生同居することをよぎなくされたなかからの、私自身の実感でもあるのですが、このことは、与えられた条件にただ身をまかせるのではなく、すすんでそれにたたかいをいどむということ、それこそが「よりよく生きる」ということ、「よりよく生きようとつとめる」ということの具体的ななかみである、ということをも示しているでしょう。「人間をつくるものは、環境にたいするその人の抵抗である」というゴリキーのことば(「私の大学」)を思いだします。

 こうしたことをふくめて、人間が生きるということ──生物としての生存をたもつということ、ならびによりよく生きようとつとめるということ──と「ゆとり」の問題とは、深くつながりあっていると思うのです。

 「ゆとり」とはなにか、そのきちんとした説明を求めて、例のとおり、まずいくつかの国語辞典にあたってみました。でも、ほとんどが「ゆとりとは物事に余裕があること」といった言いかえでお茶をにごしていて、ではその「余裕」とは、とその項目をくってみると、「余裕とはゆとりのこと」というぐあいに堂々めぐりになっている、そんななかで、三省堂の『新明解国語辞典』の説明が、断然異彩を放っていました。次のように記されています。

「何かをしたあと、まだ自由に出来る空間・時間・気力・体力などがあること」

 「空間・時間・気力・体力」と列挙されているところが、とくに光っていると思います。
 「体力」というのは、第三版で新しくつけ加えられたもの。こんなところにも編者のたゆみない心くばりが感じられて、嬉しくなったことでした。
 空間のゆとり、時間のゆとり、気力のゆとり、体力のゆとり──私たちにとって、これらはけっしてバラバラなものではなく、たがいにつながりあったものです。

 すなわち、私たちにとって気もちのゆとり、気力のゆとりは、時間のゆとりと結びついていると同時に、それと同じほど、空間のゆとりとも結びついています。そしてもちろん、体力のゆとりとも。体力は気力の生理的基礎をなすものです。

 ここではもっぱら「時間上のゆとり」に焦点をあてて考えてみたいと思っています。そこで、それに先だって、空間上のゆとりについて一言しておきましょう。

 空間のゆとりなしには、生物は正常な生活を維持することができません。スズムシを狭い龍のなかに複数で飼うと、共食いをはじめます。ネズミにも同様のことがあるようです。動物園のシロクマやゴリラは、しばしばノイローゼになります。ノイローゼは、人間だけの専売特許ではないのです。

 巣に密集しているハチなどの場合は、事情が別です。女王バチにせよ、雄バチにせよ、働きバチにせよ、一匹一匹のハチは厳密な意味での個体というよりは、個別の器官が相対的に独立して行動しているともいうべき特徴をもち、その意味で群全体が「超個体的個体」と呼ばれることがあります。また、人為的につくりだされた飼いウサギが狭い小屋に甘んじているのも、話が別です。

 ところで人間は、ハチではなく、飼いウサギでもありません。過密の都市は、人の心身を歪め、さいなみます。しかも、そこでの労働者の生活は「働きバチ」のそれであり、帰って寝るところは「ウサギ小屋」ときています。ゆとりについての私たちの考察は、このような状況のなかからの人間性回復の要求と一体のものです。

 余談にわたりますが、「ウサギ小屋」という表現の出所にふれておきましょう。それはECの日本担当部門が一九七九年三月二一日付でだした内部資料「対日経済戦略報告書」の一節です。

「(日本の経済力と競争力の)めちゃくちゃな伸びの大きな原因は、はげしい労働、訓練、会社への忠誠心、さらには封建時代から脱け出してきたばかりの人口過密で競争的な島国の国民の経営管理の能力などによってもたらされた。日本は、西ヨーロッパ人ならばウサギ小屋としか思えないようなところに住む仕事中毒者(workaholic)の国 であり、企業の重役たちは、会社が自分を必要としていると思えば、休暇をとることを あきらめ、従業員は、ストライキが会社のイメージをそこなうといわれればストを中止し……」

 これをイギリスの経済紙「フィナンシャル・タイムズ」が三月二九日付の紙面でスクープ、それが日本で大きく報道され、建設省が「そんなことはない」とむきになって反論する、というさわぎにもなって、たちまち流行語となり、日本の勤労者の劣悪な住生活を象徴する表現として定着したのでした。

「ウサギ小屋とは、日本人の感覚におきかえればブタ小屋といったところなのだが……かりにブタ小屋だったら流行しなかったろう。ウサギというと、おとなしくて可憐である。目を赤くして働いている、などのオチもつく。そこで退社時間などにさあて、ウサギ小屋に帰るとするか≠ネどの軽口が出るのだ」というコメントが、ある雑誌(月刊『言語』大修館書店、一九八五年一月、特集「昭和語小辞典」)に出ていたことをつけ加えておきます。

 その空間的なゆとりを奪われた「ウサギ小屋」の住人が、同時に時間的なゆとりを奪われた「仕事中毒者」ともされているわけですが──このworkaholicということばは、work(仕事)とalcoholic(アルコール中毒の)との合成語で、いくつかの辞書類を重ねあわせてみると、ケイツというアメリカの牧師さんが一九七一年に出した著書のなかで使ったのが文献上の初出、八〇年代のはじめにはTIME紙にも登場し、それをECの日本担当部門がとりあげて使った、ということのようです。

なお、ついでながら「働きバチのように働く」と私たちがいうところを、アメリカ人はふつう「ビーバーのように働く」work like a beaverというらしく、朝日出版社の『日米口語辞典』では「猛烈社員」の訳語としてan eager beaver employee(せっせと働くビーバー社員)というのがあげられています。
(高田求著「学習のある風景」学習の友社 p86-92)

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 中山成彬文部科学相は15日、東京都内で開かれた第3期中央教育審議会の初総会で、学習指導要領全体の見直しに向けた具体的な検討課題を示した。「世界トップレベルの学力の復活」のため国語力育成や理数教育の充実などを掲げた。完全学校週5日制は堅持するが、総合的な学習の時間の在り方や土曜日・長期休業日の活用など授業時間数の検討も求めた。

「ゆとり教育」の理念を踏襲しつつ、基礎・基本の学習時間を増やすなど目標達成のための手法を見直すべきだとの認識が根底にある。中教審は05年度4250億円が暫定削減された義務教育費国庫負担金の恒久的措置と合わせ、今秋までに基本的な方向性を提言する。

 1日付で任命された新委員28人(うち再任14人)の初会合で、会長には鳥居泰彦・前会長を選んだ。全国知事会などから迎える予定の委員数で地方側との調整がつかず、文科省側が見込む地方代表2人分が空席のままの初総会となった。

 中教審への説明で文科相は「詰め込みではなく、基本的な知識や技能を身につけさせ(同時に)自ら学び考える力などの『生きる力』をはぐくむ現行指導要領の理念や目標に誤りはない」と大枠としてのゆとり路線踏襲を明言した。ただ「その狙いが十分達成されているか、必要な手立てが十分講じられているかに課題がある」と指摘した。

 具体的には、昨年末公表された二つの国際学力調査で指摘された学力低下傾向を受け、「全教科の基本となる国語力の育成」や理数教育、外国語の学習内容の充実などを挙げた。授業時間数では、「生きる力」の育成を目指しているが、その成果が本来見えにくい総合学習などの削減を視野に入れている。

 学力低下の背景として憂慮されている「学ぶ意欲」低下を巡っては、補充的指導が必要な子どもへの対応や授業改善などの検討を求めた。指導要領見直しは初等中等教育分科会の教育課程部会を中心に議論される。義務教育費などを集中審議する総会直属の義務教育特別委は部会に格上げされた。【千代崎聖史】
(毎日新聞 2005年2月15日)

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◎「ウサギというと、おとなしくて可憐である」と。