学習通信050223
◎「権威というもの」……。
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干支(えと)
私は申年である。十一月生まれだから去る年というのだそうな。つまり昔の下町では、何かにつけて生まれた年の干支を気にしたものだ。私の父は卯、母は寅である。寅年生まれは気が強く、卯年の人は優しいと言われていた。亭主関白だった父は母の手前、自分に分の悪いことが起きたりすると、
「なにしろおれは卯(兎)だからな、寅(虎)の母ちゃんにはかないっこないよ」
その父の説によれば、申(猿)年生まれはこざかしくて人まねがうまいそうである。小娘の私が父の好物を見つけて買ってきたりすると、
「お前は申だから気が利くよ」
とほめてくれたのはうれしかったが、母の留守に料理をすると、
「さすが申だな、うまくまねするぜ」
とからかわれるのは面白くなかった。
女のくせに、
「なぜ? これはどういうことなの?」
と何でも知りたがるのも申年のせいで、この星の下に生まれたものは好奇心が強い、と言われている。
ながい人生をここまでたどりついたきょうこのごろ、ふと、
(父の説も当たっていたかもしれない)
と思うことがある。
たしかに、私には娘のころからこざかしいところがあった。ちょっとした周囲の気配にすぐ気がついてサッと身をかわそうとしたり、さんざん考えたあげくに選んだはずの道が、実はあさはかな人まねで、とんでもない失敗をしたりして……おっちょこちょいの生まれつきはやっぱり星のせいか、とひとり顔を赤らめることも多かった。それにしても、この齢までなんとか生きてこられたのは、強い好奇心のおかげのような気もする。
猿の生態を書いたものに目をひかれるのも、自分の干支のせいだろうか。何かで読んだことだが、どこかの猿山でボスが亡くなり、跡目相続の騒ぎが起こった。ボスになるための条件はむずかしい。常に優れた勇気と知能と腕力で外敵と闘い、仲間の安全と食物を確保し、しかもおごらず威張らず、皆から尊敬されること──そして、牝猿たちから好かれることも大切だというのが、面白い。
その猿山で、われこそ! と立ち上がったボス候補者たちは、どれも一長一短で激しい争いが長びき、山全体に混乱が起きてきた。それを傍らでじっと見ていた牝の長老が、ある日シズシズとボスの座に歩みより、ピンとしっぽをたてた、という。つまり(政権の行方が決まるまで、私が一時おあずかりしましょう)というわけである。騒ぎは一応しずまり、おかげで選挙運動はゆっくり公平に争われ、やがて次代のボスが決まった、ということである。
私が思わず溜息をついたのは、その直後の老牝猿の身のふりかたである。
(さあ、これで私の役目はすみました。これからはまた皆仲よく暮らしましょうね)
猿語でそう言ったかどうか知らないけれど、彼女はサッサと自分のもとの居場所へ戻り、何ごともなかったようなおだやかな顔で日なたぼっこをしていたらしい。
なんというすがすがしい身の処し方だろう。恥ずかしながら、万物の霊長と称している人間社会では、こんな粋な姿はめったに見られない。一度占めた権力の座を惜しげもなく降りるなんて──とても出来るとは思えない。
人間たちがこんなにあさましくなったのは、ふえすぎた人口のせいか、進みすぎた文化のせいか……申年生まれの私の好奇心は、まだ当分おとろえそうもない。弥次馬根性が長生きの秘訣になっているのかしら。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p19-21)
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親の権威の主要な根拠となるものは、まさに親の生活と仕事、市民としての体面、行動にあるのです。家庭というものは重大なしかも責任ある事業であり、親はこの事業を管理掌握し、社会に対して、自分の幸福に対して、また子どもの生活に対してその事業の責任を負っています。親がこの事業を誠実に、賢明に推し進めるならば、親に意義の深い崇高な目標があるならば、親が自らの行動と態度に対して明確に責任を負うならば、親としての権威が備わっていると考えてよいのです。ですから、ほかの根拠を探すことはいりませんし、そのうえなお、人為的なものを考え出す必要はありません。
子どもは少し大きくなると、父親や母親はどこで働いているのか、どんな社会的立場にあるのかということに関心を寄せるものです。できるだけ早く、子どもは親がなにによって生活し、なにに関心を寄せているか、だれと並んでいるのかを知る必要があります。父親や母親の仕事は子どもの前にまじめな、尊敬に値する仕事としてあらわれなければなりません。子どもの目にうつる親の業績は、まずなによりも、社会的業績であり、実質的な価値でなければなりません。単にみてくれのよさであってはいけません。──略──
しかしみなさんは市民であると同時に父親でもあるわけです。従って親としてのつとめもできるかぎり充分に果さなければなりません。そこにも親の権威の根があるのです。
まず第一に知らなければならないことは、子どもがどんな生活をしているのか、何に関心を寄せているのか、何が好きで、何が嫌いなのか、何をのぞんでいるのか、何をいやがっているのかということです。子どもは誰と仲が好いか、誰と遊んでいるのかそしてどんな遊びをしているのか、何を読んでいるのか、読んだものをどう理解しているのかを知る必要があります。子どもが学校へ行っている場合には、その子が学校や先生にどんな態度を取っているのか、どんな障害点があるのか、学級ではどんな行動をとっているのかをよく知っておくべきです。こうしたことはすべて、子どもがほんの小さい頃からいつも知っておくべきことです。寝耳に水といったかたちで不愉快なことやいざこざを知らされることもなく、その徴候を知ったり予防処置もできることになるのです。
いろいろのことを知ること、これはもう大切なことには違いありませんが、かといって、いつもかくもうるさくたずねたり、卑劣なしつこいスパイ行為で息子をおいまわしてもよいということではけっしてありません。子どもが自分から自分のことを親に話したり、親に話したくなるように、親の考え方に関心を寄せるようにはじめからお膳立てをしておくべきです。ときには子どもの友人を自宅によんだり、なにかごちそうすることも必要ですし、ときにはその友人の家をたずねて、できるだけ早くその家庭と知り合いになることも必要です。
こんなことをするといってもそれ程時間がかかるわけではありません、ただそのために必要なことといったら子どもと子どもの生活に注意をむけることだけです。
そしてそのような考え方と配慮が親にあれば、子どもが気付かぬはずはありません。子どもはそういう考え方を歓迎しますし、それだから親を尊敬するのです。
そういう考え方の権威は必ず援助の権威をひきだします。どうしていいのかわからないことや、助言や援助が是非欲しいということはどの子の生活にもよくあることです。あるいは、どうもたのむことが苦手で、その子が援助を求めることもないかもしれません。その時は進んで援助の手をさしのべることが必要です。
この援助は、直接核心に触れる忠告のかたちをとったり、時には冗談半分に、あるいは指示、場合によっては命令のかたちをとることもあり得るわけです。それでもみなさんが、子どもの生活をよく知っていればどうすることがいちばんいい方法か、みなさん自身がよくおわかりのことと思います。この援助も特殊な方法で与えなければならないことがよくあります。子どもの遊びの仲間入りをするとか、子どもの友人と仲よくなるとか、学校へでかけていって先生と話し合いをすることがあってもよいと思います。それになん人か子どもが家庭にいるなら、これはまた大変めぐまれたことになります。そのような援助の仕事に兄や姉を仲間として加えることができるからです。
親の援助というものは、しつこくてたいくつな、うんざりさせられるようなものであってはなりません。ある場合には、子ども自身、苦境をのりこえさせることも極めて大切なことですし、障害に打ち勝って、より複雑な問題を解決することにも慣れさせる必要があります。しかしながら子どもがこの問題をどうするか、いつも見守ることが大切ですし、子どもが混乱したり、絶望におちいることを見逃してはなりません。子どもが親の用心深さ、配慮、子どもの力倆にたいする信頼を感じとることも時には大切なことなのです。
援助の権威、慎重で注意深い指導の権威は考えることの権威とあいまって完璧なものになります。子どもは、いつも親が自分のそばにいてくれること、いきとどいた配慮で自分をみていてくれること、しっかり守っていてくれることを感ずるはずです。しかし同時に親が自分に何かを期待していること、自分の代りに親は何でもしてくれないこと、自分の責任の後始末をするつもりはないことを知るはずです。
そしてまさに責任をとるという考え方こそ、親の権威に続いて重要な考え方です。いかなる場合でも親の自己満足や気晴しのために家庭や子どもを指導しているのだなどと、子どもに思わせてはなりません。親は親としての責任を負うばかりではなく、子どもについてソビエト社会に対して責任を負うものだということを子どもは知らなければなりません。
息子や娘に対しては、子どもというものは教育をうけるもの、もっともっと勉強しなければならないこと、立派な市民として、立派な人間として成長することが大切だということ、親はこの目標達成のために責任を負っていること、そして子どもはこの責任を回避してはならないということを、はっきり、しかもきっぱり言いきかせることをためらってはいけません。責任をとるというこの考え方には、援助するばかりでなく、要求するという方法もふくまれているのです。場合によっては、この要求は有無をいわせないきびしいかたちで表現されなければなりません。ところで、断っておきますが、それも責任という権威が子どもの心の中にできている場合に限ってこの要求は有効であるといえます。ごく小さいうちから、親と子は無人島に住んでいるのではないということを子どもは感じていなければなりません。
この話を終えるにあたって、端的に要約してみましょう。
権威というものは家庭に欠くべからざるものであること。
ほんとうの権威と、作為的な諸原則にもとずく誤った権威、身勝手な方法で従順をつくりだそうと考える誤った権威とをはっきり区別すること。
正真正銘の権威というものは、みなさんの市民としての活動、市民としての感覚、子どもの生活に関する認識、子どもに対する援助と子どもの教育に対する責任に依拠しているものだ、ということです。
(マカレンコ著「子どもの教育・子どもの文学」新読書社 p23-29)
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◎権威もまたしっかりとした根拠をもっている。そこには歴史がある。