学習通信050224
◎「ゆとり時間」……。

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「ゆとり時間」と学問・芸術

──略──

 原始時代の社会は、一ロでいって、この「ゆとり時間」がほとんどなかった社会、というふうに特徴づけることができる、と思います。なにしろ石器時代の社会で、生産力がきわめて低かったのですから。社会の全メンバー(働けるかぎりの)が、眠る時間をのぞく全時間を、食うための労働にあてなければならなかったのです。

 これは、必ずしも、コマネズミのように、のべつ幕なしにキリキリ働いていた、ということではありません。ボーッとすごす時間も案外おおかったかもしれません。しかしそれは「ゆとり時間」を無為にすごしたということではなく、慢性栄養失調の状態では、よりよく生きようと努力する気力・体力のゆとりがほとんどない、ということであったでしょう。


 当然のことながら、人びとの平均寿命もいちじるしく短く、早く老い衰えたことでしょうし、そのように老い衰えた人や障害者にとっては、きわめて生きるにむつかしい時代であったでしょう。「姥捨山」の伝説は、原始時代にまでさかのぼることのできる歴史的な根拠をもっている、と思われます。

 しかし、同時に私たちは、次のような事実にもしっかりと目をむけたいと思うのです。
──「彼ら」というのは「六万年前のネアンデルタール人」のことです。

「今から六万年前のある五月下旬か六月初旬の晴れた日、彼らは野原でムスカリ(グレープ・ヒヤシンス)、キンポウゲ、マオウ、ノコギリソウ、タチアオイ、ノボリギクなど少なくとも八種類の花を摘んできて、死者をうもれるように飾って埋葬した。そしてその横の四万五千年前の地層には重い障害をもつ推定四十歳(今日の八十歳に相当)の男性の遺体が埋葬されていた。彼らはthe first flower people〈最初に花を愛でた人 びと〉とよばれる。また〈障害者とともに生きた最古の人びと〉とよんでよいかもしれない。

 すでに六万年前、きびしい自然の条件のなかで人びとは花を愛で、障害者や高齢者という社会的弱者≠ニともに生活をしていた。というよりこういう営みをつづけてきたからこそ人類が生みだされてきたのであろう」(高谷清「重い障害をもつ子どもたちのこと」──『現代と思想』九号)

 一口に石器時代といい原始社会といいますが、その間、ほんの少しずつでも、自然にたいする人間の力(生産力)は増大していったのです。「ゆとりのめばえ」が成長していった、といってもいいかと思います。その「ゆとりのめばえ」を私たちの先祖が、花を愛でることに、そしてまた障害者や高齢者とともに生きることにあてたということ──このことを忘れないでおきたいと思うのです。

 もちろん、学問や芸術のめばえもそこで育ったことでしょう。ただし、原始社会ではそれらはあくまで「めばえ」以上のものではなく、食うための労働=物質的生産の領域のなかに要素としてくみこまれるにとどまっていたでしょう。それがめばえの段階を脱して本格的な発展を開始したのは、鉄器の出現に象徴される生産力の発展とともに古代社会がスタートをきってからです。

 物質的生産の領域をはなれて学問や芸術などの精神労働に専念する人びとがあらわれるようになったことにそれは示されています。そのような人びとをかかえるだけのゆとりがうみだされてきたわけです。

 芸術家の誕生については、山田洋次さんの著書『映画を作る』(国民文庫)のなかに、次のような印象的なくだりがあります。

「私たちが作品をつくり、観客がそれを楽しむという形をうんと素朴に考えるとこんなことになるような気がします。どこかの街角に三人ばかり集まってなにやらおもしろそうな話をしながらときどきワッと笑い声をあげたりしている。とおりかかった人があまり楽しそうなので立ち止まってなんの話をしてるんだ≠ニ聞くと、。いやね今こんな話をして笑ってたんだ≠ニ説明する。そりゃおかしいや≠ニその人も笑いだす。そうやって人の輸がどんどんふくらんでいく。そのうちあまり人が集まりすぎてうしろのほうでは声が聞こえない。もっとでかい声でやれ≠ニ叫ぶやつも出てくる。するとなかには同情心のある人がいて、大きい声出させるかわりに一回につき一〇〇円払ってやろうよ≠ニいったりする。そのうちにお前たちの話はとてもおもしろいから、これからいつもここで話をしてくれよ。そのかわりみんなで金払ってお前たちの生活はみてやるからさ≠ニいうことで、三人はおもしろい話を考えることに専念するようになる──まあこんなことで私のような専門家が誕生する。長い歴史のなかで芸術家というのはこんな形で生まれ育ってきたのではないか、と思ったりするのです」

 そういうことであったにちがいない、と私も思います。そして、学問の領域においても似たようなことが──うんと素朴に考えてみれば──本来いえるのだろうと思います。たとえば、「おれたち、しょっちゅう星やお日さまのことばかり考えてるわけにはいかないから、あんた、星やお日さまを見るのが好きだし上手でもあるみたいだから、おれたちにかわってしょっちゅう星やお日さまの動きを見張って、その意味を考えたり教えたりしてくれよ。あんたの生活はみんなでみるからさ」というわけで、天文学者が生まれ、育ってきた、というぐあいに。

 重ねていえば、そういう精神労働専業者をかかえうるだけのゆとりを、生産力の発展はうみだしたわけです。「ゆとり時間」「自由時間」のことをギリシャ語ではスコレといいました。このスコレというのが学校を意味するschoolという英語やSchuleの語源です。スコレこそ、古代ギリシャに花咲いた学問・芸術の土壌であったということができます。

 ただし、すべての人が自由時間をわがものとしえたのではありません。古代社会は奴隷制の社会で、自由時間は自由人だけのものでした。自由人というのは、奴隷所有者階級にぞくする人びとです。物質的生産の領域をもっぱらになっていた奴隷は、自由時間どころの話ではありませんでした。
 では、中世の社会では?
 中世においても、自由時間は支配階級──封建領主階級にひとりじめされました。スコレというギリシャ語は、中世ヨーロッパではスコラというラテン語となり、教会や修道院付属学校を意味するようになりましたが、このスコラに農民の顔を見ることはたえてありませんでした。

ついでながら、このスコラで研究され、教えられ、学ばれた学問が、いわゆる「スコラ学」ですが、カトリック教会の教義から独立することを許されず、非生産的な解釈学、重箱の隅を楊子でほじくるような詮議だてを事としたようです。そのため、煩瑣(はんさ)で無用な議論のことを「スコラ的」と形容するようになったほどでした。このことは、学問が一部の特権階級に独占されるとき、また学問の独立が奪われるとき、学問は歪み腐敗せざるをえない、ということを示してもいるでしょう。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p93-98)

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「自由の国」が人間の全面的発達の舞台となる

 間題は、その先にあります。
 マルクスは、労働の性格の変化とその画期的な意義を、これだけ本格的に論じながら、そして、この変化が、少なくとも「この領域における自由」の拡大であることは認めながら、「しかしそれでも、これはまだ依然として必然性の国である」と断定するのです。
 ここで、マルクスの最初の文章を思い出してください。

「自由の国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある」。

 労働の非人間的な性格がいくら一掃されても、人間が自然との物質代謝の過程をいかに自主的に、その規制と管理のもとにおさめても、「窮迫と外的な目的への適合性によって規定される」という生産活動の根本的性格が消え去るわけではありません。その活動は、依然として、外的な目的に規定された物質的生産の領域に属する活動であり、その領域の内部で、「自由」が抜本的に拡大したとしても、それは「必然性の国」の内部での変化でしかないのです。

 マルクスは、ここではじめて、未来社会の核心的な内容をなす「自由の国」の内容的な規定に踏み込みます。それは、人間が自由勝手にふるまうということではありません。人間および社会の生活の維持という目的を含めて、どんな外的な目的にもしばられない自由な活動──ここに、「自由の国」のなによりの特質があります。

 そこでは、「人間の力の発達」、すなわち、社会のすべての構成員の「全面的に発達した人間」への発展が、それ自体として目的であるとされます。そこでは、物質的生産に拘束されない自由時間を保障された人間たちが、「物質的および知的利益」のすべてをわがものとしつつ、生活を多面的に楽しむと同時に、自分のなかに潜在するさまざまな能力を試し、育て、伸ばす活動を自由におこなうでしょう。それは、人間一人ひとりに、限りない発展の道と機会を保障すると同時に、そのことによって、人間社会そのものが、限りない活力をえるでしょう。

「自由の国」と「必然性の国」は同じ社会の二つの部分

 マルクスは、書き込みの文章全体の最後に、この「真の自由の国」と「必然性の国」との相互の関連について語ります。

「この国〔必然性の国、すなわち、物質的生産の領域−不破〕の彼岸において、それ自体が目的であるとされる人間のカの発達が、真の自由の国が──といっても、それはただ、自己の基礎としての右の必然性の国の上にのみ開花しうるのであるが──始まる。労働日の短縮が根本条件である」。

 ここで、マルクスが「彼岸」といった意味がはっきりしてきました。「彼岸」とは、時間的にいって「必然性の国」の彼方に、「自由の国」がある、という意味ではありません。「真の自由の国」は、物質的生産の領域である「必然性の国」を「自己の基礎」としている、また「必然性の国」の上に「真の自由の国」が開花する、というのです。

 二つの「国」の関係は、社会の発展段階の違いではなく、同じ社会のなかでの二つの部分の関係──「必然性の国」が土台となって、「真の自由の国」をささえる、という関係です。言い換えれば、この二つの「国」とは、人間活動の二つの領域をさした言葉であって、同じ社会のなかで、人間が物質的生産にたずさわる時間が「必然性の国」を形づくり、それ以外の自由な時間が「真の自由の国」を形成するのです。

 そして、「労働日の短縮が根本条件である」ということは、労働日が短縮されれば、「必然性の国」がそれだけ小さくなり、「真の自由の国」がそれだけ大きくなる、そこに人間社会の自由な発展の「根本条件」がある、ということにほかなりません。

 よく誤解があるのは、マルクスがここで述べている「必然性の国」と「自由の国」を、社会の発展段階の違いとしてとらえることです。その誤解のおおもとは、『反デューリング論』および『空想から科学へ』のなかでのエンゲルスの議論との混同にあるようです。エンゲルスは、そこで、「必然性の国」および「自由の国」という同じ用語を使って未来社会を論じていますが、「必然性の国から自由の国への人類の飛躍」という文章が示すように、この場合には、明らかに未来社会の二つの段階を間題にしての議論でした。

しかし、マルクスの「自由の国」論とエンゲルスの「自由の国」論とは、「自由」ということの定義も、未来社会を取り上げる角度も、まったく違った筋道の議論なのです。あとで、少したちいった解説をするつもりですが、二人の「自由」論の混同には気をつけてもらいたい、と思います。
(不破哲三著「マルクス未来社会論」新日本出版社 p202-205)

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◎「自由の国は、事実、窮迫と外的な目的への適合性とによって規定される労働が存在しなくなるところで、はじめて始まる。したがってそれは、当然に、本来の物質的生産の領域の彼岸にある」……。